三国志モバイル人物伝

管承Guan Cheng

カンショウ
(クワンシヨウ)

(?〜?)

長広の人。袁譚の将で海賊である《何[キ]伝》。

長広郡は泰山・東海に面した地域で、黄巾賊もまだ平定されておらず、豪族たちの多くが叛逆して袁譚から官位をもらっていた。管承もそうした者たちの一人で、三千戸余りを手下にして乱妨狼藉を働いていた《何[キ]伝》。

諸将は管承を攻撃しようとしたが、長広太守何[キ]は言った。「管承らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、混乱が習性となって自分で戻れなくなっていて、まだ教育を受けていないので善に立ち返ることを知らないのだ。いま軍勢で彼を脅せば、彼は皆殺しにされる事を恐れて力を合わせて戦うだろう。攻撃しても陥落させることは難しく、勝ったとしても官吏・人民を傷付けることになる。恩徳によって静かに教えさとし、自分で反省する余裕を持たせるとよかろう。軍勢を煩わせずとも平定できる」《何[キ]伝》。

まず郡丞黄珍を派遣して利害について説明させると、管承らはみな降服を願い出た。そこで役人の成弘をやって校尉の職務を受け持たせると、長広県丞らは城外まで出迎え、郡までやってきて牛肉と酒を献上した《何[キ]伝》。

建安十一(二〇六)年八月、曹操は淳于に軍を進め、楽進・李典を出して管承を攻撃させた。管承は海の向こうの島に逃れた《武帝紀・楽進・李典伝》。翌十二年八月に柳城で[トウ]頓を破った張[合β]は、北方から帰還すると東[莱]郡に入り、管承を討伐した《張[合β]伝》。

それぞれの事件が起こった年代がはっきりしない。管承が何[キ]に降服したのち張遼が東[莱]郡に入っているが《何[キ]伝》、それは建安十年正月に袁譚が敗死したのち「別働隊として海浜地帯に赴いた」《張遼伝》ときのことのようである。降服後もたびたび攻撃を受けているが理由はわからない。管承が降服したとき、県丞が牛酒を捧げていることを見ると、長広県は一県を挙げて管承に従っていたものと理解できる。

【参照】袁譚 / 何[キ] / 楽進 / 黄珍 / 成弘 / 曹操 / 張[合β] / [トウ]頓 / 李典 / 淳于県 / 泰山 / 長広県 / 長広郡 / 東海 / 東[莱]郡 / 柳城 / 郡丞 / 県丞 / 校尉 / 太守 / 黄巾賊

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