三国志モバイル人物伝

牛金Niu Jin

ギュウキン
(ギウキン)

(?〜?)
魏後将軍

曹仁・司馬懿の将。

はじめ部曲の将校として行征南将軍曹仁に属し、ともに江陵の守備にあたった。建安十三年(二〇八)冬、周瑜が数万の軍勢を引き連れて江陵に攻め寄せた。牛金は曹仁の命を受けて三百人を募って迎え撃った。しかし周瑜は彼が寡兵であったためすっかり包囲してしまった。これを見た曹仁は憤怒し、わずか数十騎だけを率いて城を飛び出して包囲網に突入した。そのおかげで牛金は脱出することができたが、まだ牛金の部下が包囲網のなかに取り残されていた。曹仁はふたたび引き返して彼らを救い出した《曹仁伝》。

太和四年(二三一)三月、諸葛亮が祁山に進出すると、明帝曹叡は司馬懿に討伐させた。司馬懿が昼夜兼行で駆け付けると、諸葛亮は砂塵を見ただけで逃走した。さらに漢陽まで進んで諸葛亮軍と対峙すると、司馬懿は牛金に軽騎兵を率いさせて囮部隊としたが、わずかに衝突しただけで諸葛亮は逃走する。諸葛亮は鹵城に駐屯したが、司馬懿の追撃を受けて敗走した《晋書宣帝紀》。

青龍三年(二三五)、蜀の将軍馬岱が国境地帯を侵犯したので、司馬懿は牛金を派遣して迎撃させた。牛金は馬岱を敗走させ、千人余りの首級を挙げた。景初二年(二三八)、司馬懿は牛金・胡遵らを率いて歩騎四万人をもって京都を進発し、遼東の公孫淵を討伐した《晋書宣帝紀》。牛金の官職は後将軍にまで昇った《曹仁伝》。

むかし玄石図というのがあって、石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉が浮かび上がっていた。そのため司馬懿は牛氏を深く恨んでいた。そこで一つのお膳に二つの酒樽を載せ、一方を司馬懿が自分で飲み、もう一方の鴆毒が入ったのを牛金に飲ませて殺した。しかしながら司馬懿の曾孫司馬覲の妃夏侯銅環は、小役人の牛氏と密通して司馬睿を生んだのであった《晋書元帝紀》。

【参照】夏侯銅環 / 胡遵 / 公孫淵 / 司馬懿 / 司馬睿 / 司馬覲 / 周瑜 / 諸葛亮 / 曹叡(明帝) / 曹仁 / 馬岱 / 漢陽郡 / 祁山 / 江陵県 / 蜀 / 遼東郡 / 鹵城 / 後将軍 / 征南将軍 / 玄石図 / 行 / 鴆毒 / 部曲

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。