三国志モバイル人物伝

石苞Shi Bao

セキホウ
(セキハウ)

(?〜272)
晋司徒・加侍中・楽陵武公

字は仲容。勃海南皮の人。

『[登β]艾伝』の注に引く『世語』に、[登β]艾とほぼ同い年だったとある。

大らかにして知性があり、態度は端麗雄大であったが、細かな作法には拘らなかった。そのため人々は「石仲容どのの美しさは並ぶものなしだ」と評判した。

県から召しだされて役人となり、農司馬に配属された。ちょうど謁者である陽[タク]の郭玄信が勅使となり、馭者を探していたので、司馬が石苞と[登β]艾を提供した。十里あまり行くうちに、郭玄信は「あなた方はのちに九卿・宰相に昇るだろう」と言った。石苞は答えた。「馭者に過ぎませんのに、どうして九卿・宰相などということがありましょうか?」

のちにふたたび使者として[業β]へ赴くことになったが、仕事はなかなか終わらなかった。そこで[業β]の市場で鉄を売りに出した。市長である沛国の趙元儒は人物を見抜くことで知られていたが、石苞を見るなり目を見はり、かれと交わりを結んだ。(趙元儒が)石苞の遠大の器量に「三公・輔弼に昇るだろう」と讃歎したことにより、(石苞は)名を知られるようになった。

『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、青龍年間(二三三〜二三七)に長安で鉄売りをしていたとき、司馬懿のもとを訪れる機会があって人物を認められ、のちに尚書郎に抜擢されたとある。

吏部郎の許允に会ったとき、石苞は小さな県でもお任せくださいと願いでたが、許允は「あなたは私と同類、朝廷で助けあう関係であるべきだ。どうして小さな県などを求めるのかね?」と言った。石苞は帰ってからため息をついた。許允が自分をそこまで知っているとは考えられなかったからだ。

少しづつ昇進を重ねて中護軍である景帝(司馬師)の司馬となった。宣帝(司馬懿)は石苞が好色で行いが軽薄であると聞いていたから、それで景帝を咎めた。景帝は言った。「石苞は行いが足らぬとはいえ国家を経略する才能を備えております。高潔の士は必ずしも経世済民の能力があるわけではなく、それは斉の桓公が管仲の贅沢を忘れて策謀だけを採用し、漢の高祖が陳平の汚職を捨てて妙計だけを採用した理由です。石苞はその二人ほどではないとしても、今日の選りぬきなのです。」宣帝はようやく納得した。

[業β]の典農中郎将へ異動となった。魏の時代だったので王侯の多くが[業β]の城下に住まいしており、尚書の丁謐がその時代の寵児となり、肩を並べて競いあっていた。石苞はそのことを上奏したので、ますます称賛された。石苞はこのころ管輅に「姿を消すことなど可能であろうか?」と訊ねている《管輅伝》。東[莱]・琅邪太守を歴任し、いたるところで威信・恩恵を施した。徐州刺史に昇進した。

文帝(司馬昭)が東関で敗北したとき、石苞ただひとりは軍兵を損なうことなく撤退させた。文帝は所持する節を指差しながら「これをあなたに授けて大事に当たれないのが残念だ」と言った。そこで石苞を奮武将軍・仮節・監青州諸軍事に昇進させた。

諸葛誕が淮南で挙兵したとき、石苞は青州諸軍を統括し、[エン]州刺史州泰・徐州刺史胡質を監督し、選りぬきの精鋭を遊軍として外部からの侵入に備えた。呉は大将朱異・丁奉らに(諸葛誕を)出迎えさせた。諸葛誕らは輜重を都陸に残し、軽装騎兵でもって黎水を渡った。石苞らは待ちかまえて攻撃し、これを大破した。泰山太守胡烈が奇兵奇策でもって都陸を襲撃し、その物資を焼きつくした。朱異らは敗残兵を取りまとめて撤退し、寿春は平定された。石苞は鎮東将軍を拝命、東光侯に封ぜられ、仮節となった。

『孫[糸林]伝』に詳しく戦闘の経緯が記載されている。朱異が黎漿(黎水)に駐屯し、任度・張震らに勇者六千人を率いて西へ六里の地点で浮き橋を作って夜中に渡らせ、半月状の塁壁を築いたところ、石苞は州泰とともにこれを撃破、そのまま朱異を包囲して敗退させたとのことである。『晋書』文帝紀によると、朱異らが敗れたのち、城内の食糧が乏しくなったのをみて王基とともに攻撃許可を求めたが、司馬昭は戦わずして勝つべしと退けている。なお『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、鎮東将軍を拝命すると同時に青州刺史になったとする。

しばらくして(甘露四年(二五九)夏六月《晋書文帝紀》)、王基の後任として都督揚州諸軍事となった。石苞はそれで参内することになったが、帰国するとき、高貴郷公に別れの挨拶をし、引きとめられて日が暮れるまで語りあった。退出してから、それを文帝に報告して「尋常の君主ではございませぬ」と言った。成済の事件が起きたのは数日後であった。

『高貴郷公紀』の注に引く『世語』では、司馬昭が自邸に立ちよるよう人づてに命じ、「なぜずっと留まっていたのか?」と問うたのに対し、「尋常の君主ではないからです」と答えたことになっている。また『晋書華表伝』によると、高貴郷公を「魏武の生まれかわりだ」と絶賛し、当時の人々に冷や汗をかかせたとある。

景元元年(二六〇)十一月、呉の吉陽督である蕭慎が投降し、迎えにきてほしいと石苞に手紙を送ってきた。文帝は偽りであろうと察知し、石苞に命じて迎えにゆかせる体裁をとると同時に、ひそかに守りを固めた《晋書文帝紀》。のちに官位は征東大将軍に進み、突然、驃騎将軍に昇進した。

『高貴郷公紀』によると石苞が驃騎将軍に昇進したのは咸熙二年(二六五)九月癸亥、司馬昭が死んで司馬炎が王位を継いだ直後である。

文帝が崩御したとき、賈充・荀が葬礼について提議した。まだ実行されぬうちに、石苞はすぐ遺体に駆けより、「これほど事業を進めたのに人臣のまま亡くなられるとは!」と慟哭した。葬礼はようやく実行された。以後、陳騫とともに「命運はすでに尽きました。天の意志は存在するのです」と魏帝へ遠回しに訴えた。帝位が禅譲されたのは石苞の尽力があったのである。武帝(司馬炎)が践祚すると大司馬に昇進して楽陵郡公に爵位が進み、侍中の官を加増され、羽葆・鼓吹が与えられた。

諸葛誕が破滅して以来、石苞は淮南を鎮撫して兵士騎馬を精強にし、辺境の多忙さに遭遇しても、もともと庶務に熱心であったし、さらに威厳恩徳を付けくわえて人々を心服させた。淮北監軍の王は、石苞が貧しい出自であるのを軽蔑しており、そのうえ「宮中の大きな馬がほとんど驢馬になるよ、大きな石がそれをつぶして逃さないよ」という童謡を聞いたので、それを利用して「石苞が呉の人間と通じております」と密奏した。かつて望気者が「東南の方角で大いくさが起こります」と言ったことがあり、王の上奏文が届いたとき、武帝はふかく疑いを抱いた。

『丁奉伝』に宝鼎三年(二六八)、孫晧の命令により丁奉・諸葛[青見]が合肥を攻撃し、丁奉が石苞に手紙をやって離間の計をしかけたので石苞は徴しかえされたとある。王が疑いを抱いたのも無理はないのである。このほか参軍の孫楚とも争っており《晋書孫楚伝》、慎重さに欠ける人物だったようである。

ちょうど荊州刺史胡烈が「呉の連中は大挙して攻めてくるつもりです」と上奏し、石苞も「呉の軍隊が侵入してきそうです」と報告して、城塁を築いて堀川を湛えて防備を固めた。武帝はそれを聞くと羊[示古]に言った。「呉の連中が来るときは、いつも東西から声が上がって片方からということがない。石苞は本当に裏切っているのではないか?」羊[示古]はじっくりと弁護してやったが、武帝はなおも疑っていた。

そのころ石苞の子石喬が尚書郎であったので、武帝はこれを召しよせたが、石喬は一日経っても来なかった。武帝は叛逆に間違いなしと確信して石苞を討伐しようと思ったが、表向きは伏せておき、詔勅を下して「石苞は賊軍の状勢分析を誤り、城塁を築いて堀川を湛え、百姓どもを苦しめた。よって罷免する」と述べ、太尉・義陽王司馬望に大軍を率いて徴しださせ、非常事態に備えた。また下[丕β]の鎮東将軍・琅邪王司馬[イ由]に命じて(司馬望と)寿春で合流させた。

石苞は掾の孫鑠の計略にしたがって兵士を解散させ、徒歩で出ていき、都亭まで行って自首した。武帝はそれを聞いて気持ちを和らげた。石苞が参内すると、公であるからとして邸宅に帰した。石苞は任務を授かりながら功績のないことを恥じるばかりで、恨む様子などはなかった。

ときに[業β]の奚官督である郭[イ]が上表して石苞を弁護した。武帝は詔勅を下して言った。「前の大司馬石苞は忠義にして清潔、才能は時務をおさめて業績を挙げ、記録に値する。教育を司らせて時事の政治を助けさせるべきである。そこで石苞を司徒とする。」担当者が上奏した。「石苞はかつて失敗しており任務に堪えられませぬ。公として邸宅に帰しただけでも手厚いのですから、抜擢は宜しくございませぬ。」詔勅に言う。「呉の人々は軽薄であり、所詮はなすすべを知らぬ。それゆえ国境のことはただ守備を固めて侵入させなければ済むのである。石苞の計画はそうでなく敵を配慮しすぎている。だから徴しかえして配置替えをするのだ。むかし[登β]禹は関中で失敗したが、結局は漢室の輔佐となった。どうして一つの欠点ごときで大きな徳を無視できようか!」こうして就任が決まった。

石苞は上奏した。「州郡の農業政策には賞罰の制度がございませぬ。掾属を派遣して土地による格差をなくし、業績の優劣を決めて人事異動させるべきです。」詔勅に言う。「農業殖産は政治の根本であり国家の大事である。平和と発展を望んだとて、先だつ資力を欠いたまま教育を施すのは無理というものである。今まで天下は事件が多く、軍事費がかかっていた。加えて遠征の直後でもあり、洪水や日照りもたびたび起こった。倉庫は充分でなく百姓には蓄えがない。古代、貨殖は司徒の職務であった。いま道義が議論されているが国政は急務であり、それゆえ陶唐の時代には稷官が重視されたのである。いま司徒はふさわしい人材をえて国事を心がけており、私事を忘れて国家に尽くしている。そこで司徒に命じて州郡の開発を視察させ、仕事を委任して成果を待とう。随行者が必要であれば十人の掾属を加増する。」石苞は在職して忠勤を称えられ、帝はいつも任せきりであった。

泰始八年(二七二)二月癸巳《晋書武帝紀》に薨去した。帝は朝廷で哀悼をささげ、秘蔵の器物、一揃いの朝服、一着の着物、三十万銭、百匹の布を下賜した。葬儀に際しては、幢麾・曲蓋・追鋒車・鼓吹・介士・大車を支給して魏の司空陳泰の前例にならい、車駕は東掖門外まで遺体を見送った。勅命により武と諡した。咸寧年間(二七五〜二八〇)の初期、石苞らは王業に功績があったとして、詔勅により銘饗に列せられた。

石苞は死を目前にして「延陵の簡素な埋葬は、孔子も礼に通じていると評価しておるし、華元の重厚な埋葬は、『春秋』が臣下らしからぬとしており、古代の明らかな教えである。今後、死ぬ者があれば季節の衣服で埋葬し、重々しくしてはならぬ。また俗人をまねて飯を含ませてはならぬ。また寝台や帳、器物を設けてはならぬ。埋葬してからは土を盛るだけとし、墳丘を作ったり木を植えたりしてはならぬ。むかし王孫が裸での埋葬を命じて息子が従ったとき、君子は非難しなかった。ましてや礼法に合致するならばどうであろう?」と命じており、息子たちはみな命令を遵守し、また親戚や故吏が祭壇を設けようとするのを断った。

【参照】王基 / 王 / 華元 / 賈充 / 郭[イ] / 郭玄信 / 管仲 / 管輅 / 許允 / 胡質 / 胡烈 / 孔子 / 司馬懿(宣帝) / 司馬炎(武帝) / 司馬師(景帝) / 司馬昭(文帝) / 司馬[イ由] / 司馬望 / 朱異 / 州泰 / 荀 / 蕭慎 / 諸葛誕 / 成済 / 斉桓公 / 石喬 / 曹髦(高貴郷公) / 孫鑠 / 趙元儒 / 陳騫 / 陳泰 / 陳平 / 丁謐 / 丁奉 / [登β]禹 / [登β]艾 / 羊[示古] / 楊王孫(王孫) / 劉邦(漢高祖) / [エン]州 / 延陵 / 下[丕β]国 / 漢 / 関中 / 魏 / 吉陽 / 九江郡(淮南郡) / [業β]県 / 義陽郡(義陽国) / 荊州 / 呉 / 寿春県 / 徐州 / 斉 / 青州 / 泰山郡 / 東掖門 / 東関 / 東光県 / 陶唐 / 東[莱]郡 / 都陸 / 勃海郡 / 南皮県 / 沛国 / 揚州 / 楽陵郡 / 黎水 / 琅邪国(琅邪郡) / 淮北 / 謁者 / 掾 / 掾属 / 王 / 仮節 / 監軍 / 九卿 / 郡公 / 奚官督 / 三公 / 司空 / 刺史 / 侍中 / 市長 / 司徒 / 司馬 / 尚書 / 尚書郎 / 稷官 / 征東大将軍 / 太尉 / 大司馬 / 太守 / 中護軍 / 鎮東将軍 / 典農司馬(農司馬・司馬) / 典農中郎将 / 督 / 都督 / 驃騎将軍 / 武公 / 奮武将軍 / 吏部郎 / 春秋 / 羽葆 / 諡 / 介士 / 曲蓋 / 鼓吹 / 故吏 / 節 / 大車 / 追鋒車 / 幢麾 / 童謡 / 都亭 / 望気者 / 銘饗

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。