三国志モバイル人物伝

歩闡Bu Chan

ホセン

(?〜272)
呉昭武将軍・西陵督・西陵亭侯
晋都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・領交州牧・宜都公

字は仲思《建康実録》。臨淮淮陰の人。歩隲の次子、歩協の弟《歩隲伝》。

兄である撫軍将軍歩協が亡くなると遺児の歩が所領を、弟の歩闡が西陵督の業務を継いだ。歩闡は昭武将軍を加えられ、功績により西陵亭侯に封ぜられる《歩隲伝・建康実録》。

封地を『歩隲伝』は西亭、『建康実録』は西陵亭とする。西陵督との関連が考えられるので、ここでは西陵説を採る。また『建康実録』では、まず西陵亭侯に封ぜられたことを記したのち、西陵督の業務を継いだと述べる。

甘露元年(二五六)九月、歩闡が武昌に遷都すべきと上表すると、孫晧は鎮西将軍陸凱の諫言を斥けてこれを認め、御史大夫丁固・右将軍諸葛[青見]らに建業を守らせ、同年十一月、武昌に遷都して大赦令を下した《孫晧伝・建康実録》。

鳳凰元年(二七二)八月、孫晧は歩闡を召し寄せて繞帳督に任じようとしたが、歩闡は、父兄代々にわたり西陵に駐屯していたのに、いきなりお召しの命令が来たということで、自分が官職を失うのではないかと思い、また讒言によって危害を加えられることを恐れ、命令に従わず、ついに城を抱えたまま晋に投降した《孫晧・歩隲伝・建康実録》。甥の歩・歩[王睿]を人質として洛陽に送ると、晋は歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司に任じて、侍中の官職を加増し、仮節・領交州牧とし、宜都公に封じた《歩隲伝》。

『歩隲伝』では歩[王睿]を歩闡の弟とするが、『建康実録』では歩闡の兄の子としている。『歩隲伝』が歩の弟とすべきところを歩闡の弟と誤ったのか、『建康実録』が兄の子を歩とすべきところを歩[王睿]と誤ったのか、よく分からない。ここでは歩[王睿]を歩の弟と解した。

孫晧は大将軍・楽郷都督陸抗に歩闡の包囲を命じた《孫晧伝》。陸抗は左奕・吾彦・蔡貢らを西陵に急行させ、陣営を赤渓から故市まで広げて厳しく包囲せよと命じ、内向きには歩闡を包囲し、外向きには外敵を阻止しようとした《陸遜伝》。歩闡は城内に立てこもって晋軍の来援を要請し、資金を投じて蛮族どもを誘い込んだ《晋書陸機伝》。晋の車騎将軍羊[示古]は五万人を率いて江陵に向かい、荊州刺史楊肇に陸抗を攻撃させた《晋書羊[示古]伝》。

『晋書』羊[示古]伝によると、陸抗軍三万人に対し、羊[示古]の統括する軍兵は八万人であったといい、同伝で五万人と言っているのと相違がある。『宋書』五行志でも楊肇を含めて八万人とある。総勢八万のうち、江陵に向かった羊[示古]本隊が五万ということだろうか。

晋の巴東監軍徐胤が水軍を率いて建平に到着し、楊肇も西陵に着陣した。陸抗は江陵督張咸に命じて江陵を固めさせ、公安督孫遵に命じて長江南岸で羊[示古]を防がせ、水軍督留慮・鎮西将軍朱[王宛]に命じて徐胤を防がせ、陸抗自身は楊肇と対峙した。楊肇は一ヶ月ばかり陸抗を攻撃したが、十二月、計略も尽き果てたため夜中に逃走した。陸抗が軽騎兵でもって追撃すると、楊肇勢は壊滅し、羊[示古]らもみな軍勢を引きあげた《陸遜伝》。

西陵城が陸抗によって陥落したとき、歩闡は活路を開いて逃げようとはせず、その同調者の数十人とともに三族皆殺しとなった《孫晧・陸遜伝・晋書陸機伝》。歩氏は歩[王睿]が祭祀を継いだのみで、残りはみな血筋が絶えたのである《歩隲伝》。

【参照】吾彦 / 左奕 / 蔡貢 / 朱[王宛] / 諸葛[青見] / 徐胤 / 孫晧 / 孫遵 / 張咸 / 丁固 / 歩 / 歩協 / 歩隲 / 羊[示古] / 楊肇 / 陸凱 / 陸抗 / 留慮 / 宜都郡 / 荊州 / 建業県 / 建平郡 / 公安 / 交州 / 江陵県 / 故市 / 晋 / 西陵県 / 西陵亭 / 赤渓 / 長江 / 巴東郡 / 武昌県 / 洛陽県 / 楽郷 / 臨淮郡 / 淮陰県 / 右将軍 / 衛将軍 / 仮節 / 監軍 / 儀同三司 / 御史大夫 / 公 / 刺史 / 侍中 / 車騎将軍 / 昭武将軍 / 大将軍 / 鎮西将軍 / 亭侯 / 督 / 都督 / 撫軍将軍 / 牧 / 夷三族(三族皆殺し) / 大赦

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