三国志モバイル人物伝

裴茂Pei Mao

ハイボウ

(?〜?)
漢尚書令・陽吉平侯

字は巨光。河東聞喜の人。裴曄の子、裴潜・裴徽・裴輯の父《裴潜伝・新唐書世系表》。

裴氏は代々の名家で、裴茂は霊帝の時代に出仕、県令・郡守・尚書を歴任《裴潜伝》、最終的には尚書令まで昇った《新唐書世系表》。

初平四年(一九三)五月、大雨が二十日余りも続いたので、帝は侍御史裴茂を使者として詔獄へ遣し、罪の軽い者二百人余りを赦免した。その中には善良でありながら李[イ寉]に無実の罪を着せられた者もあり、李[イ寉]は「裴茂が勝手に囚人を解放しておりますが、おそらく悪党どもと結託しているのでしょう。逮捕すべきです」と上奏した。帝は「使者は勅命によって恩沢を施しているのであり、罪の軽い者を解放するのは天意とも合致している。一方で赦免しながら一方で罪を問うことなどできようか。一切を不問に付す」と詔勅を下した《後漢書献帝紀・同董卓伝・後漢紀》。

建安二年(一九七)十月、謁者僕射裴茂は段[火畏]を初めとする関中諸将を統率し、李[イ寉]を討伐し、その三族を皆殺しにした《後漢書献帝紀・同董卓伝・後漢紀》。この功績により列侯に取り立てられ、陽吉平侯となった《裴潜伝・新唐書世系表》。

『後漢書』では諸将進発から李[イ寉]の三族を皆殺しにするまでをまとめて建安三年四月のこととし、『後漢紀』では二年十月に諸軍進発、翌三年正月に李[イ寉]を撃破、これを斬首し、三族皆殺しにしたとする。おそらく諸軍進発が二年十月、李[イ寉]撃破が三年正月、李[イ寉]を斬首して三族皆殺しにしたのが四月ということだろう。

同十九年三月、天子は魏公の位階を諸侯王より上に置き、赤いひもを付けた金璽、遠遊冠を下賜することとし、左中郎将・楊宣亭侯の裴茂を持節として、それらを曹操に送り届けさせた《武帝紀》。

中華書局本は「左中郎将楊宣と亭侯裴茂」と読むが、ここでは採らない。おそらく『新唐書世系表』にいう「陽吉平侯」と関連があるのだろう。「吉陽平侯」と作る書もあるという《裴潜伝集解》。また衛覬が陽吉亭侯に封ぜられたともある《衛覬伝》。

子の裴潜は若いころ細かな作法にこだわらず、また母の身分も卑しく、裴茂はそのため彼を尊重しなかったという《裴潜伝》。

【参照】曹操 / 段[火畏] / 裴徽 / 裴輯 / 裴潜 / 裴曄 / 李[イ寉] / 劉協(天子) / 劉宏(霊帝) / 河東郡 / 関中 / 魏 / 聞喜県 / 陽吉亭 / 陽宣亭 / 謁者僕射 / 王 / 県令 / 公 / 侯 / 左中郎将 / 侍御史 / 尚書 / 尚書令 / 太守(郡守) / 亭侯 / 平侯 / 列侯 / 夷三族(三族皆殺し) / 遠遊冠 / 金璽 / 持節 / 詔獄 / 赤(赤いひも)

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。