三国志モバイル人物伝

王邑Wang Yi

オウユウ
(ワウイフ)

(?〜?)
漢使持節・行太常事・大司農・安邑亭侯

字は文都。北地郡泥陽の人《隷釈劉寛碑陰》。

王邑は離石の県長を務めていたが、かつて劉寛に師事していたので、彼のために碑が立てられると門生として名を連ねている《隷釈劉寛碑陰》。

興平二年(一九五)十二月乙亥、長安を脱出した天子劉協が安邑に行幸した。王邑はこのとき河東太守であったので、綿や絹を献上して公卿以下に振る舞い、列侯に封ぜられた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。また後年の鍾[ヨウ]の上表に鎮北将軍であったともいうが《鍾[ヨウ]伝》、このころの任官であろうか。

建安七年(二〇二)春、郭援が河東太守と称して郡に攻め込み、絳邑の県長賈逵を捕虜にした。賈逵は「王府君が着任して何年にもなる。足下はどこの馬の骨なのだ?」と言い、飽くまでも屈服しなかった。のちに賈逵は釈放されると、賊軍より先に皮氏を押さえるようにと王邑に訴えた。河東郡が無事だったのはその進言のおかげなのである《賈逵伝》。郭援は司隷校尉鍾[ヨウ]に打ち破られた《鍾[ヨウ]伝》。

同十年、詔勅によって徴し返されたが、天下がまだ安定していなかったため、王邑は内心、お徴しを希望せず、そのうえ官吏民衆も王邑を恋い慕い、郡掾衛固・中郎将范先らが鍾[ヨウ]の元に参詣して王邑の留任を求めた。しかし詔勅により後任の太守杜畿がすでに入部していたので、鍾[ヨウ]は許可しなかった。鍾[ヨウ]は割り符を返還せよと王邑に督促したが、王邑は印綬を帯びたまま河北から直接、許へと帰国した《鍾[ヨウ]・杜畿伝》。

鍾[ヨウ]は命令が守られないことを恥じ、「臣は以前、故の鎮北将軍・領河東太守・安邑亭侯の王邑が巧みな言葉でもって職務に当たっており、弾劾のうえ査察を入れるべきだと上奏いたしました。告発した通りの事実はあったが、すでに帰参しておるゆえ寛大に処置せよとの詔勅を被り、臣はまた、官吏民衆がみな野望を抱き、王邑を任地に戻せと言って太守杜畿を拒絶したことを言上いたしました。現在、みな反省して杜畿を迎えたとはいえ、王邑を詔勅に違背させ、郡掾衛固に官吏民衆を脅迫させたのは、みな鍾[ヨウ]が厳罰を執行しなかったためであります」と述べて辞職を願い出たが、認められなかった《鍾[ヨウ]伝》。

十八年秋七月、天子が魏公曹操の女三人を貴人に迎え入れることになり、大司農王邑は使持節・行太常事として[業β]へ下向し、璧および絹五万匹を携えて結納の儀式を行った。翌年正月、ふたたび持節・宗正劉艾らとともに[業β]へ赴き、下の女一人は国許で成長を待つこととして、二月乙亥、上の二人を洛陽の宮殿に送り届けた《武帝紀》。

【参照】衛固 / 賈逵 / 郭援 / 鍾[ヨウ] / 曹華(曹操の末女) / 曹憲(曹操の長女) / 曹節(曹操の次女) / 曹操 / 杜畿 / 范先 / 劉艾 / 劉寛 / 劉協(天子) / 安邑県 / 河東郡 / 河北 / 魏 / 許県 / [業β]県 / 絳邑県 / 長安県 / 泥陽県 / 皮氏県 / 北地郡 / [各隹]陽県洛陽県) / 離石県 / 貴人 / 郡掾 / 県長 / 公 / 公卿 / 使持節 / 持節 / 司隷校尉 / 宗正 / 大司農 / 太守 / 太常 / 中郎将 / 鎮北将軍 / 亭侯 / 列侯 / 行 / 符(割り符) / 門生

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