三国志モバイル人物伝

衛茲Wei Zi

エイジ
(ヱイジ)

(?〜190)

字は子許。陳留郡襄邑の人。衛臻の父《衛臻伝》。

衛茲は弱冠にして圏文生とともに立派な徳を称えられた。郭泰が二人を連れて市場に出かけたとき、衛茲は値札通りに支払ったが、圏文生は傷物だと怒鳴り、値切ってから買った。郭泰は言った。「子許(衛茲)は寡欲で、文生は貪欲だ。この二人はただの兄弟ではない。まるで父子だ」。のちに圏文生は財貨に溺れて人望を失い、衛茲は壮烈な節義によって名を知られたのである《衛臻伝》。

衛茲は雄大な節義を持っており、偽善を奨励するような振る舞いをせず、世俗の名声を追い求めなかった。思慮は明瞭深淵、計略は広大無限であった。車騎将軍何苗に招かれ、司徒楊彪から二度も旌をもって招聘された(が、応じなかった)《衛臻伝》。のちに陳留太守張[バク]に仕えた《張[バク]伝》。

曹操は京師を出奔して陳留に逃走したが、衛茲は「天下を平定する者はきっとこの人だ」と言い、曹操のほうでも彼を立派だと思って、しばしば彼の邸宅を訪れて国家の一大事について語り合った《衛臻伝》。衛茲は言った。「もう長らく混乱が続いており、軍隊でなければこれを鎮めることはできませぬ」「挙兵する者が今後出始めるでしょう」。(群雄のうち)興隆する者、滅亡する者を深く見極め、(曹操が立てた)広大な謀略の筆頭の翼賛者となった。彼は軍勢三千人を糾合した《衛臻伝》。

初平元年(一九〇)正月、関東では董卓を討伐するため義兵が起こり、その軍勢は河内・酸棗・南陽・潁川・[業β]に駐屯した。しかし董卓軍が強力であったため、率先して進む者はいなかった。曹操は「いま董卓が宮室を焼いて天子を連れ去ってしまった。そのため天下は震動しており、ただ一度の戦いで天下を平定することができよう」と主張して、西に進軍して成皋を占拠しようとした。衛茲は張[バク]の指示によって曹操の軍勢に随行した《武帝紀》。

曹操は[ケイ]陽県の[シ卞]水に到達したが、そこで董卓の部将徐栄に遭遇して大敗した。曹操は乗馬を失ったうえ、敵の追撃も急激であったが、曹洪が乗馬を差し出したためようやく脱することができた《武帝紀・曹洪伝》。この戦いで衛茲は戦死してしまった。のちに曹操は陳留の郡境にさしかかるたび、使者をやって彼を祀ったのであった《衛臻伝》。

【参照】衛臻 / 何苗 / 郭泰 / 圏文生 / 徐栄 / 曹洪 / 曹操 / 張[バク] / 董卓 / 楊彪 / 劉協(天子) / 潁川郡 / 河内郡 / 関東 / [業β]県 / [ケイ]陽県 / 酸棗県 / 襄邑県 / 成皋県 / 陳留郡 / 南陽郡 / [シ卞]水 / 司徒 / 車騎将軍 / 太守 / 旌

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