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翻訳・校訂
- 299 方壺島主 2005/04/26(Tue) 01:48
- やはり「魯・呂 以て各ゝ其の時 操の気 未だ衰へず、屡ゝ巣湖に出づるに当
る。当に劉氏と共に好みを結び、以て其の勢を分かつべきに…」かな。
曹操の南進は建安17年と22年で、その間孫権も2度にわたって合肥を包囲し、
対曹操戦のための前衛の拠点にしようとした気配あり。しかし曹操の2度目の
濡須口進攻を受けた時点で降伏を申し出、その後は曹氏とは小康を確保し、そ
の背後でコソコソした行動を続けました。
孫権は魯粛の親劉備政策を失策としていますが、本来は劉備とは信義を守っ
て曹操と対決すべきであった。曹操がいよいよ野望を逞しくして外に向けてい
た目を内に(帝位に)転じてからは、三国鼎立が関係したけれど、偽りの降伏策
の陰で関羽を急襲したりせず、本来なら劉備と連携して東西から曹氏を攻める
べきであった。「帝者は上流におる」という言葉どおり、本当にその志がある
のなら、曹氏の南進によって奪われた樊や襄陽等の荊州北部を奪い返したり、
あるいは北出して徐州・沛へ出(て洛陽を伺う勢いを見せ)るべきであった。し
かるに建業に安住していたのは、到底立国の大計を持つものの姿とは言えない。
当初は蜀と肩を組みながら、中途で欲に駆られて荊州領有のことで蜀と仲違い
し、あまつさえ曹氏の軍門に降って相食む間柄になってしまった。本来であれ
ばそのかみに結んだ蜀との盟約に従って、襄陽・樊・徐州へ兵を進めて攻略す
べきであったのに、結局むだな議論に時間を費やしただけであった。
とまあ、こんな感じに解してみてはいかがでしょうか。
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