三国志モバイル人物伝

鄭小同Zheng Xiaotong

テイショウドウ
(テイセウドウ)

(196?〜?)
魏侍中・関内侯

字は子真《高貴郷公紀集解》。北海国高密の人、鄭益恩の子《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。

父鄭益恩が死んだとき、鄭小同はまだ母の胎内にいた。祖父鄭玄は丁卯の歳の生まれだったが、彼が生まれたのもまた丁卯の日で、手のひらの皺の様子も祖父と同じだった。そこで鄭玄は彼を「小同」と名付けたのである《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。

両脚に障害を抱えていて、何年ものあいだ(官職を?)授からなかったが、晩年になって鍼灸を用い、同時にさまざまな祈祷も合わせて行い、百日ほどですっかり快癒した《高貴郷公紀集解》。若いころから性質がよく、六種の経典を総合的に学び、徳行は郷里でも顕著であったので、海岱の人々のうち称賛せぬ者はなかった《高貴郷公紀》。

文帝曹丕が過去の賢者を顕彰したとき、鄭小同は「儒宗」鄭玄の嫡孫であるということで郎中に任命された。その後もしばらくは実家にいて出仕しなかった《高貴郷公紀》。三十歳を越えたころ、太尉華[音欠]が鄭小同を推挙した《高貴郷公紀》。

華[音欠]の上奏文に「文皇帝」との記述があり、この推挙が明帝の時代に行われたことが分かる。明帝即位は黄初七年(二二六)、華[音欠]薨去は太和五年(二三一)のことである。もし鄭小同の生年が初平二年(一九一)であれば、このときすでに三十六から四十一歳になっていたはずで、華[音欠]の上奏文に「鄭小同は三十歳を越えた」とする記述から大きく乖離する。鄭益恩が死に、鄭小同が生まれたのはやはり建安元年(一九六)なのであろう。鄭益恩の解を参照されたい。

嘉平六年(二五四)二月に李豊・張緝・夏侯玄らの謀叛が発覚したのを承け、皇帝曹芳は淫乱であり為政者として不適格であるとして、九月、大将軍司馬師が皇太后から廃位の宣旨を引き出した。このとき侍中であった鄭小同は司馬師以下四十五人と連名で曹芳の悪行を上奏し、斉王への降格を提言している《斉王紀》。

曹髦が即位すると、司空鄭沖らとともに『尚書』の教授役を務め、正元二年(二五五)九月庚子、講義を終えたので、帝はそれぞれに恩賜の品を下した《高貴郷公紀》。甘露三年(二五八)八月、詔勅によって司隷校尉・関内侯王祥が三老、侍中・関内侯鄭小同が五更に任じられた《高貴郷公紀》。

司馬昭は機密文書を書いている途中、廁へ立った。そこへ鄭小同が訪ねてきたが、密書にはまだ封をしていなかった。司馬昭は廁から戻ると鄭小同に「吾の手紙を読みましたか?」と訊き、鄭小同が「いいえ」と答えてもまだ信じられなかった。司馬昭は「我が卿に背くことはあっても、卿を我には背かせまいぞ」と言い、鴆毒を飲ませて鄭小同を殺した《高貴郷公紀・後漢書鄭玄伝》。

【参照】王祥 / 夏侯玄 / 華[音欠] / 郭皇后(皇太后) / 司馬師 / 司馬昭 / 曹丕 / 曹芳 / 曹髦 / 張緝 / 鄭益恩 / 鄭玄 / 鄭沖 / 李豊 / 海岱 / 高密侯国 / 斉国 / 北海国 / 王 / 関内侯 / 五更 / 三老 / 司空 / 侍中 / 司隷校尉 / 太尉 / 大将軍 / 郎中 / 尚書 / 六経 / 儒宗 / 鍼灸 / 鴆毒

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