三国志モバイル人物伝

趙炳Zhao Bing

チョウヘイ
(テウヘイ)

(?〜?)

字は公阿。東陽郡の人。越方(越地方の方術)に巧みであった《後漢書徐登伝》。

「趙[日丙]」とも書く。東陽郡は呉の孫晧が会稽郡を分割して立てたもの。ここでは後世の記録に拠っているため呉の地名で称されている《後漢書徐登伝集解》。

趙炳が気でもって人に「禁」をかけると、その人は立つこともできなくなり、虎に「禁」をかけると、虎は地に伏して頭を下げ、目を閉じるので、たやすく縛り上げることができた。柱へ一尺ばかり打ち込んだ大釘に「気」を吹きかけると、釘はその瞬間に躍り出て、飛び去ったが、まるで弓弩の矢が発射されたかのようだった《後漢書徐登伝》。

ときに兵乱や疫病の盛んな時期であったが、趙炳は烏傷の渓水のほとりで徐登なる者と遭遇した。この徐登もまた巫術に通じていたので、それぞれの技術を用いて病人の治療に当たろうと誓い合った《後漢書徐登伝》。

二人は「いま志を同じくしたからには、おのおのの能力を試してみようではないか」と言い合い、まず徐登が渓水に「禁」をかけると、渓水の流れは止まった。続いて趙炳が枯れ木に「禁」をかけると、木は生き返って花を咲かせた。二人は互いに顔を見合わせて笑った。一緒にその道を修めることにして、徐登が年長であったので趙炳は彼に師事した《後漢書徐登伝》。

清廉倹約な生き方を尊重し、神を祭るときは東流する川の水だけをお供えし、桑の木の皮を削って干し肉代わりのご供物とした。禁術を施しただけで、診療してもらった者たちはみな回復した《後漢書徐登伝》。

のちに徐登が物故すると、趙炳は東行して章安に入ったが、百姓たちは彼が何人であるかをまだ知らなかった。趙炳はそこで人目を引きつつ茅葺きの小屋に昇り、鼎を仕掛けて飯を炊いた。小屋の主人が慌てふためくのを見ても、趙炳は笑って取り合わない。すっかり炊きあがったが、屋根には損傷したところも異常なところも全くなかった《後漢書徐登伝》。

またあるとき川に出くわし、渡し船を出すよう要求しても船頭が承知しなかった。趙炳はそこで笠を浮かべ、その中に座って長嘯し、風を呼び、流れを変えて、対岸に渡った。それを百姓たちは神業だと思って心服し、故郷へ帰るような気持ちで服従した《後漢書徐登伝》。

章安の県令は、趙炳が人々を惑わせているのを憎悪し、彼を逮捕して処刑した。人々は彼のために永康県に祠堂を立たが、今に至るまで蚊が入ったことはない。江南では今なお趙炳の禁術を伝えており、それによって病気の治療をしている《後漢書徐登伝》。

【参照】徐登 / 烏傷県 / 永康県 / 渓水 / 江南 / 章安県 / 東陽郡 / 県令 / 越方 / 禁術 / 巫術

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