三国志モバイル人物伝

曹萌Cao Meng

ソウボウ
(サウバウ)

(?〜?)
漢処士

字は元偉。沛国[言焦]の人。曹騰の父、曹操の曾祖父《武帝紀》。「曹節」とするのは誤り《武帝紀集解》。

日ごろ仁徳温厚によって称えられていた。隣人のうちに豕を失った者がいて、曹萌の豕と同じ種類だった。(隣人は曹家の)門までやって来てそれを誤認したが、曹萌は(豕を渡して)彼と争わなかった。後になって、いなくなった豕が彼の家に帰ってきたので、豕の飼い主は大いに恥じ入り、誤認した豕を送り返すとともに曹萌に謝罪した。曹萌は笑いながらそれを受け取った。これによって郷里の人々は尊敬し歎息した《武帝紀》。

太和三年(二二九)六月、魏の明帝は高祖父曹騰を高皇、その夫人呉氏を高皇后と諡し、文帝の高祖父処士曹萌とともに[業β]の廟所に合祀した《宋書礼志》。このとき司空陳羣らが提議した。「周の武王は太王・王季・文王を追尊して王といたしました。魏は皇帝を号しておるのですから、大長秋・特進君(曹騰)を『商皇』と追号なさいますよう。」帝はこれを認めた《通典》。

帝はさらに詔勅を下した。「わが魏室は天の秩序を継承し、足跡は高皇・太皇帝(曹騰・曹嵩)が発せられ、功業は武皇・文皇帝(曹操・曹丕)が高められた。高皇の父の処士君(曹萌)については、密かに人徳謙譲を修め、行動は神業のごとく、これこそ天地の祝福を受け、神霊の由来するところである。しかるに精神は暗く遠きところにあり、称号は記されておらず、孝行を尊んで根本を重んずることにはならない。そこで公卿以下に命ずる。会議のうえ諡号を定めよ。」《劉曄伝》

侍中劉曄の意見。「周王が祖先を后稷まで求めている理由は、その人が唐(堯)を補佐して功績を立て、その名が祭祀の経典に記載されているからです。漢氏の初めから、追諡の本義はその父親を越えることがなくなりました。上に周室と比べれば、大魏の発祥は高皇からの始まりとなりますし、下に漢氏を論ずれば、追諡の礼はその祖父に及ばないことになります。愚考いたしまするに、追尊の本義は高皇までに留めるのがよろしゅうございます。」《劉曄伝》

侍中繆襲の意見。「『元』とは第一であり、首魁であり、気の初めでございます。また諡法にも、道義を行って人々を喜ばせるのを『元』と呼び、仁愛を尊んで徳義を貴ぶのを『元』と呼ぶ、とございます。処士君に『元皇』と諡号を贈るのがよろしゅうございます。」《通典》

太傅鍾[ヨウ]の意見。「処士君は六親等にあたり、親族の繋がりは途絶えておりますゆえ、その廟所を解体して霊魂を移すべきです。愛情を優先なさるならば、処士君のご英霊はその過分の礼に不安を覚えられるものと存じます。いま博士らは礼法をもって判断いたしました。そのご意見をお聞き入れくださいますよう。」詔勅によりこの意見に従った《通典》。

同年十月、洛陽の廟所が完成したので、帝は直々に廟所を移転させた《宋書礼志》。

【参照】王季 / 繆襲 / 堯 / 呉夫人 / 后稷 / 周武王 / 周文王 / 鍾[ヨウ] / 曹叡(明帝) / 曹嵩 / 曹操 / 曹騰 / 曹丕(文帝) / 太王 / 陳羣 / 劉曄 / 漢 / 魏 / [業β]県 / 周 / [言焦]県 / 唐 / 沛国 / 洛陽県 / 公卿 / 司空 / 侍中 / 大長秋 / 太傅 / 特進 / 博士 / 諡 / 処士

むじんがPHP学習のためにα運用しているページです。一部表示されない文字があります。ありえないアドレスを入力するとエラーがでます。ブックマークやリンク先としてはおすすめできません。上のナビゲータからhtml版へ移動してください。