三国志モバイル人物伝

秦頡Qin Xie

シンケツ

(?〜186)
漢南陽太守

字は初起《後漢書霊帝紀集解》。南郡[若β]の人《水経注》。

中平元年(一八四)、黄巾賊の張角が蜂起すると、南陽でも張曼成が挙兵して「神上使」を称し、軍勢数万人を集めて太守[チョ]貢を殺害、宛の城下に集結して百日余りになった《後漢書朱儁伝》。秦頡は江夏都尉であったが南陽太守に出向し、六月、張曼成を攻撃してこれを斬首した《後漢書霊帝紀・水経注》。

賊軍は改めて趙弘を総帥に押し立て、ついに十万人余りに膨れあがって宛城を占拠した。鎮賊中郎将朱儁は秦頡・荊州刺史徐[キュウ]と合流して軍勢一万八千人で趙弘を包囲したが、六月から八月にかけて陥落させられず、奇襲をかけてようやく趙弘を斬った。賊軍は韓忠を総帥としてまたも宛城に楯籠った《後漢書朱儁伝》。

朱儁が西南側から攻めかけるように見せかけて東北側から侵入すると、韓忠は宛城を抜け出して小城に楯籠り、降服を願い出た。秦頡は徐[キュウ]・司馬張超とともに許可してやるべきと考えたが、朱儁は「降服を受け入れては勧善懲悪にならない」と言って厳しく攻め立てたため、賊軍は必死になって守り、勝つことができなかった。そこで包囲をゆるめてやると韓忠が突出してきたのでこれを大破、一万人余りを斬首し、韓忠らを降服させた。秦頡は韓忠への恨みを募らせ、勝手にこれを殺した《後漢書朱儁伝》。

同三年二月、江夏郡の兵士趙慈が叛逆して南陽郡の六つの県を攻め落とし、秦頡は殺害された《後漢書霊帝紀・同羊続伝》

はじめ秦頡は南陽郡へ向かう途中、宜城県で東向きに建っている一軒の家を見付けて車を止め、「この場所は墓を作るのにいいなあ」と言っていた。戦死したのち、その遺体が故郷へ帰されることになったが、かつて車を止めた場所まで来ると車が動かなくなった。役人はそこにある家を買い取って彼を葬った《水経注》。

【参照】韓忠 / 朱儁 / 徐[キュウ] / [チョ]貢 / 張角 / 張超 / 張曼成 / 趙弘 / 趙慈 / 宛県 / 宜城侯国 / 荊州 / 江夏郡 / [若β]侯国 / 南郡 / 南陽郡 / 刺史 / 司馬 / 太守 / 鎮賊中郎将 / 都尉 / 黄巾賊 / 神上使

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