三国志モバイル人物伝

史渙Shi Huan

シカン
(シクワン)

(?〜209)
魏中領軍・列侯

字は公劉。沛国の人《夏侯惇伝》。

沛国の史氏には王莽末期の史岑が見える《後漢書文苑伝》。

若いころから任侠の徒で、雄壮たる気概の持ち主であった。曹操が最初に挙兵したときから客将として従軍し、中軍校尉を代行していた《夏侯惇伝》。

行中軍校尉を称したことからも分かるように、あくまでも曹操と対等の立場であって配下ではない。郷里を同じくする幼なじみだったのだろうか。その曹操も張[バク]の客将であった。中軍校尉は、曹操もかつて経験したことのある西園八校尉の一つであるから、史渙の職歴はやや曹操に後れるくらいだったのだろう。

建安四年(一九九)、[目圭]固が射犬に駐屯して袁紹と手を結んだ。四月、史渙は曹仁・于禁・徐晃とともに命令を受け、黄河を渡って征討した。[目圭]固は薛洪・繆尚を射犬に残し、自分は軍勢を率いて袁紹に救援を求めに行こうとした。史渙らは彼が犬城まで来たところで遭遇戦となり、敵軍を大破して[目圭]固を斬首した《武帝紀・于禁・徐晃伝》。曹操は史渙を領軍に任じた《晋書職官志》。

領軍の官の創設については韓浩伝を参照されること。

翌五年、曹操は官渡において袁紹軍と対峙していたが、曹操は荀攸の計略を採用し、韓猛の護送する袁紹軍の輜重車数千両を攻撃することにした。そこで史渙と徐晃・曹仁が命令を受けて韓猛を大破し、輜重車をことごとく焼き払った《武帝紀・曹仁・荀攸伝》。

十二年、曹操が柳城討伐を計画したとき、史渙は「道程は遠く、深く進入することになるから、万全の計略ではない」と考え、韓浩へ一緒に諫めようと持ちかけた。しかし韓浩から「このとき天下の患いを取り除かねば後々の憂いになろう。吾と君とは中軍の要なのだから軍勢を意気阻喪させてはなるまい」と反対されている《夏侯惇伝》。その官職が改名されて中領軍となり、長史・司馬が設置された《晋書職官志》。

史渙は征伐にお供するたび諸将の監督役に当たり、信任を受けていた《夏侯惇伝》。また中護軍の韓浩とともに忠勇をもって名を挙げ、列侯に封ぜられた《夏侯惇伝》。

十四年に薨去、子の史静が跡を継いだ《夏侯惇伝》。

【参照】于禁 / 袁紹 / 韓浩 / 韓猛 / 繆尚 / 史静 / 荀攸 / 徐晃 / [目圭]固 / 薛洪 / 曹仁 / 曹操 / 官渡 / 犬城 / 黄河 / 射犬聚 / 沛国 / 柳城 / 司馬 / 中軍校尉 / 中護軍 / 中領軍 / 長史 / 領軍 / 列侯 / 行(代行)

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