三国志モバイル人物伝

師宜官Shi Yiguan

シギカン
(シギクワン)

(?〜?)

書家。南陽郡の人《武帝紀集解》。

霊帝は書を愛好したので、その時代、世間にも数多くの能書家がいた《武帝紀》。霊帝が天下から書の名手を招いたところ、数百もの人々が鴻都門に集まったが、八分の書体では師宜官が最高峰だと評判になった《武帝紀集解》。師宜官は一丈もある大きな文字を書くこともでき、一寸四方に千文字を書くこともできた《武帝紀集解》。衛恒の『四体書勢』には「師宜官は雄大な字を書き、邯鄲淳は繊細な字を書いた」とある《劉劭伝》。

『晋書』衛恒伝での引用では「梁鵠は雄大な字を書き、邯鄲淳は繊細な字を書いた」としている。

師宜官は根っからの酒好きで、あるとき手ぶらで居酒屋へ行って酒を呑み、その壁に字を書いてそれを売りに出した。すると見物人たちが雲のごとく集まって酒代の立て替えを申し出た。師宜官は酒代が集まった頃合いをみて壁の字を削り落とした《晋書衛恒伝・武帝紀集解》。

師宜官は自分の才能を自負しており、字を書いても、(筆跡を盗まれることを恐れて)そのつど木札を削ったり燃やしたりした。そこで梁鵠は沢山の板を用意しておいて彼に酒を呑ませ、酔ったのを見計らって木札を盗み出した。梁鵠はこうして彼の筆跡を修得し、曹操をして「師宜官以上だ」と言わしめたのである《武帝紀》。

のちに袁術の部将となり、袁術が鉅鹿郡に耿球碑を立てたときは師宜官がその碑文を書いた。その筆跡は極めて巧みである《晋書衛恒伝・武帝紀集解》。

【参照】衛恒 / 袁術 / 邯鄲淳 / 耿球 / 曹操 / 劉宏(霊帝) / 梁鵠 / 鉅鹿郡 / 鴻都門 / 南陽郡 / 四体書勢 / 書 / 八分体

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