三国志モバイル人物伝

紀隲Ji Zhi

キシツ

紀陟

紀陟Ji Zhi

キチョク

(?〜?)
呉光禄大夫

字は子上。丹楊秣陵の人。紀亮の子、紀孚・紀瞻の父《孫晧伝・晋書紀瞻伝》。「紀隲」とも書かれる《隋書経籍志》。

紀陟は中書郎であったころ、孫峻により南陽王孫和を尋問して自殺に追いこむようにと命令されたことがあった。紀陟はこっそりと正論でもって自己弁護をさせた。孫峻が腹を立てるので、恐怖を抱いた紀陟は門を閉ざして出勤をやめた《孫晧伝》。

孫休の時代、父の紀亮が尚書令を務め、子の紀陟が中書令を務めることになった。詔勅により、朝廷での会議にあたっては、いつも屏風でもって二人の座席を隔てられることになった《孫晧伝》。のちに出向して予章太守となる《孫晧伝》。

孫晧の時代には光禄大夫となり、甘露元年(二六五)三月、五官中郎将弘[キュウ]とともに使者として魏へ赴き、地方の産物をたずさえて和睦を申しいれた《陳留王紀・孫晧伝・晋書文帝紀》。(『礼記』の定めに従い)境界を入るときは諱を訊ね、国土を入るときは風俗を訊ねた《孫晧伝》。

寿春の部将王布は馬上から弓術を誇らしげに見せ、終わってから「呉の諸君もこんなことができますかな?」と紀陟に訊ねた。紀陟が「これは軍人や騎士が職業としてこそできることであって、士大夫や君子でここまでできる者はおりませぬ」と答えたので、王布はたいそう恥じいった《孫晧伝》。

魏帝(曹奐)が謁見し、案内役を通じて「お越しになるとき呉主(孫晧)のご機嫌はいかがじゃったか?」と訊ねた。紀陟は「参りますとき、皇帝陛下は軒先にお出ましになりました。官僚百人がそれぞれの位置につき、御膳もお変わりございませんでした」と答えた《孫晧伝》。

晋の文王(司馬昭)が彼らを酒宴に招き、百官が出そろうと、案内役を通じて「あれは安楽公(劉禅)だ」「あれは匈奴単于(劉猛?)だ」と伝えさせた。紀陟は言った。「西の君主は領土を失いましたが、君王(文王)どのの礼遇によって地位は三代(夏・殷・周?)と同じになり、恩義に感動せぬ者はございませぬ。匈奴は辺境にあって制御の難しい国ですが、君王どのの懐柔によって座席をともにしております。これはまことに威信恩恵が遠方にまで顕著であることを示しております。」《孫晧伝》

(文王が)また「呉の守備はいかほどかね?」と訊ねると、「西陵から江都にいたるまで五千七百里でございます」との答え。さらに「道のりがそれだけ遠ければ堅固にするのも難しかろう」と訊ねると、「境界線は長くとも争いになる要害は三つから四つに過ぎませぬ。ちょうど人間に八尺の肉体があり、病気にさらされぬところはなくとも寒さを防ぐのは数ヶ所に過ぎないようなものです」との答え。文王はそれを褒めたたえ、手厚い礼でもってもてなした《孫晧伝》。

紀陟らが洛陽に滞在中、晋の文帝(司馬昭)が崩御したため、十一月、紀陟らは帰国を命じられた《孫晧伝》。

孫晧は、従父たちのうち父の孫和といさかいを起こした者は家族ごと東冶に移住させた。ただし紀陟だけは密命をこうむり(むかし孫峻の命令により尋問したことを許され)、子の紀孚が特別に都亭侯に封ぜられた《孫晧伝》。

【参照】王布 / 紀瞻 / 紀孚 / 紀亮 / 弘[キュウ] / 司馬昭 / 曹奐 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫和 / 劉禅(安楽公) / 劉猛 / 安楽県 / 殷 / 夏 / 魏 / 呉 / 江都県 / 周 / 寿春県 / 晋 / 西陵県 / 丹楊郡 / 東冶県 / 南陽郡(南陽国) / 秣陵県 / 予章郡 / 洛陽県 / 王 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 尚書令 / 単于 / 中書令 / 中書郎 / 太守 / 都亭侯 / 匈奴

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