三国志モバイル人物伝

魏続Wei Xu

ギゾク

魏続

魏諷Wei Feng

ギフウ

(?〜219)
魏相国西曹掾

字は子京。沛国、あるいは済陰郡の人《武帝紀・王昶・晋書鄭袤伝》。

群衆を惑わす才能の持ち主で、[業β]の都をひっくり返すほどであったため、魏の相国鍾[ヨウ]に招聘されて西曹掾となった《武帝紀》。その名声は高く、九卿・宰相以下、ことごとく彼に心を寄せて交流を結んだ《劉曄伝》。しかし傅巽・劉曄・劉[イ]・鄭袤らは、魏諷が反乱を起こすであろうと述べていた《劉表・劉曄・劉[イ]・晋書鄭袤伝》。

建安二十四年(二一九)九月、太祖(曹操)が漢中に出征して留守のあいだ、魏諷は密かに徒党を組んで義勇の士を集め、長楽衛尉陳[示韋]とともに[業β]を襲撃する計画を立てた。その期日になる以前、陳[示韋]が太子(曹丕)に告発したため、魏諷は誅殺された《武帝紀・同集解》。

長楽衛尉は皇后の宮殿長楽宮を守護する官職。おそらく曹皇后を脅迫して宣旨を取り、それを利用して[各隹]陽・[業β]を制圧するつもりだったのだろう。伏皇后の生んだ皇太子はすでに毒殺されており、ここにいう太子とは魏王曹操の太子すなわち曹丕を指すものと思われる。

任峻の子任覧は早くから魏諷と距離を取っており《晋書鄭袤伝》、劉[イ]の弟劉偉、文稷の子文欽も極刑を免れたが《劉[イ]・毋丘倹伝》、相国鍾[ヨウ]、中尉楊俊は罷免され《鍾[ヨウ]・楊俊伝》、張繍の子張泉、王粲の息子二人、宋忠の息子をはじめ、数十人もの連中が罪にかかり処刑された《武帝紀・張繍・王粲・鍾会・尹黙伝》。

あるいは数千人が処刑されたともいう《資治通鑑・後漢紀》。盧弼は、各伝の記載によれば魏諷の忠烈才智は明らかであり、ただ計画が成功しなかったために誹謗されているのだ、と評している《武帝紀集解》。

【参照】王粲 / 鍾[ヨウ] / 任峻 / 任覧 / 宋忠 / 曹操 / 曹丕 / 張繍 / 張泉 / 陳[示韋] / 鄭袤 / 傅巽 / 文欽 / 文稷 / 楊俊 / 劉偉 / 劉[イ] / 劉曄 / 漢中郡 / 魏 / [業β]県 / 済陰郡 / 沛国 / 九卿 / 相国 / 西曹掾 / 中尉 / 長楽衛尉

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