三国志モバイル人物伝

秦秀Qin Xiu

シンシュウ
(シンシウ)

(?〜?)
晋博士

字は玄良。新興郡雲中の人。魏の驍騎将軍秦朗の子。

秦秀は若いころから学問に熱心で、忠実さで名を知られ、咸寧年間(二七五〜二八〇)に博士となった。

何曾の諡号を協議せよと命令が下ったとき、秦秀は「何曾は二世代にわたり恩寵を受け、耳順の年に三公の官位、大国の租税を手にしました。責任はたいへん重く、一門がこぞって死力を尽くしても、それでも位階に見合いません。それなのに度を過ぎた贅沢を行い、道義に則った行為はなく、宰相のあるべき姿を失っておりました。繆醜公と諡すべきであります」と提言した。人々は秦秀の言葉に賛成しなかったが、身を引き締めたのである。

秦秀は根っからのおべっか使い嫌いで、親の敵のように憎んでいた。日ごろ軽蔑していた賈充が呉討伐の大都督になったと聞いて、「賈充は文机にしがみつくほどの才能しかないのに、敵国討伐の大任を被った。私は号泣しながら軍勢を見送らねばならぬ」と親しい者に語った。ある人が「いま呉の君主は無道ですし、国家には自滅の兆しがございます。諸軍が国境を越えれば戦わずして潰滅するでありましょう。あなたが号泣なさると、智力が充分でないと見なされたうえ、許されざる罪を被ることになりますぞ」と諫めたので、取り止めた。

孫晧が王濬に降服したとき、賈充はそれを知らず、呉の平定はまだ不可能なので増援してほしいと上表した。その上表文と戦捷の知らせが同時に届いたので、朝廷や在野の人々は、賈充は官位が高いだけで智力は人並み以下だと思い、みな秦秀の言葉は分別を弁えていると評価した。

賈充が薨去すると、秦秀は「賈充は異姓の者を跡継ぎにいたし、礼儀に背いて私情に溺れ、大いなる人倫を乱しました。外孫を跡継ぎにするのは元勲の取るべき行動ではありません。父祖の血筋を絶やし、朝廷に災禍を招くものでございます。荒公と諡すべきです」と提議したが、聞き入れられなかった。

王濬は呉平定の功績がありながら王渾にけなされ、帝は(王渾の言葉を)聞き入れはしなかったものの、賞罰を明らかにすることができず、王濬を輔国大将軍に任じただけで済ませたので、天下はみなそれを恨みに思った。秦秀は言上した。「王濬は功績を立てる以前から九卿の高位に就いておりましたが、功績を立てて以後、改めて屈辱的な称号を与えられました。四海はそれを見て失望するのではございませんか!呉は三祖(司馬懿・司馬師・司馬昭)の神武をもってしても屈服させられませんでした。いま王濬は蜀漢の兵卒をこぞって呉を平定いたしました。呉国の財宝をすべて与えたとしても足りないくらいです。」

のちに劉暾らとともに斉王司馬攸の事件に関わったため、帝の不興を被って罷免されたが、ほどなく博士に復帰した。秦秀は剛直な性格で、人々とは反りの合わないことが多かった。博士になって前後二十年近く、在職のまま卒去した。

【参照】王渾 / 王濬 / 何曾 / 賈充 / 司馬懿 / 司馬炎(帝) / 司馬師 / 司馬昭 / 司馬攸 / 秦朗 / 孫晧 / 劉暾 / 雲中郡(雲中県) / 魏 / 呉 / 蜀漢 / 新興郡 / 斉国 / 王 / 九卿 / 繆醜公 / 驍騎将軍 / 荒公 / 公 / 三公 / 大都督 / 博士 / 輔国大将軍 / 諡

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