三国志モバイル人物伝

劉翊Liu Yi

リュウヨク
(リウヨク)

(?〜?)
漢陳留太守

字は子相。潁川潁陰の人。

劉氏の家は代々にわたる資産家であり、いつも施しをよく行い、物惜しみすることはなかった。あるとき汝南の郡境を越えて出かけたことがあった。そこで、陳国の張季礼という者がいて、師匠の葬儀に参列するための長旅の途中、寒さと氷のために車を壊してしまい、途方に暮れているのに出くわした。劉翊はすぐに車を下りて「道義を全うするつもりなら、君は急いで行きなさい」と言い、車を譲ると、姓名も告げず、馬に直接またがり立ち去った。張季礼は「あれは子相どのだな」と思い、後日、わざわざ潁陰を訪ねて乗り物を返しに行ったが、劉翊は門を閉ざして別れを告げ、面会しようとはしなかった。

劉翊は志を全うするため、いつも病気の(ふりをして)床に伏せ、お召しの命令に応じなかった。河南の[禾中]払が(太守として)郡に着任すると、彼を功曹に招いた。[禾中]払は名高い三公の子息であったので、劉翊はようやく出仕した。[禾中]払は、彼が時機を選んで出仕したことから非常に尊敬し、信任した。

陽[タク]の黄綱は程夫人の権力を嵩にかけ、山沢の利殖を独占したいと申し入れてきた。[禾中]払が「程氏は権勢のある貴族であり帝(霊帝)の左右に侍っておるから、認めてやらねば怨みを買うことになるだろう。(しかし)認めてやれば民衆の利益を取り上げることになってしまう。どうしたものかのう?」と訊ねると、劉翊は答えた。「名山・大沢に封侯しない(という規律がある)のは民衆のためでしょう。明府どのが認めれば、おべっか使いとの汚名を被ります。もしそのせいで災禍に巻き込まれたなら、ご令息の申甫([禾中]劭)どのに(父とは絶縁したから)遺児ではないと自認させることになりますぞ。」[禾中]払はその言葉に従って黄綱に許可を与えず、さらに劉翊を孝廉に推挙したが、劉翊は就任しなかった。

のちに黄巾賊が蜂起すると、郡県では飢えに苦しむことになった。劉翊は困窮する者たちに救援物資を与え、その食糧で助かった者が数百人にもなった。郷里の一族の貧しい者が死亡したときは丁重に葬ってやり、独り者や後家があれば結婚を世話してやった。

献帝が西京(長安)に遷都したとき、劉翊は上計掾に選ばれた。このとき盗賊どもが蜂起して道路は断絶しており、通行できる使駅(駅舎)はほとんどなかった。劉翊は夜中に進行して昼間は潜伏し、ようやく長安にたどり着いた。詔書により忠勤が褒められ、格別に議郎を拝命、陳留太守に昇進した。

劉翊は拝領した珍品を放棄して、ただ車馬だけを残し、自分で操縦しながら東方へ帰ることにした。関所を出てから数百里、路上で士大夫が病死しているのを見つけると、馬を売って棺を買い、自分の着物をかけて納棺してやった。さらに旧知の人が路上で飢えに苦しんでいるのに出くわし、見捨てるには忍びず、「困っている人を見て助けないのは志士ではない」と言い、人々が制止するのも聞かず、乗っていた牛を殺して窮乏を救ってやった。結局、全員が餓死した。

【参照】黄綱 / [禾中]劭 / [禾中]払 / 張季礼 / 程夫人 / 劉協(献帝) / 劉宏(霊帝) / 潁陰県 / 潁川郡 / 河南尹 / 汝南郡 / 長安県 / 陳国 / 陳留郡 / 陽[タク]県 / 議郎 / 功曹 / 孝廉 / 三公 / 上計掾 / 太守 / 黄巾賊 / 使駅 / 士大夫

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