三国志モバイル人物伝

盧植Lu Zhi

ロショク

(?〜192)
漢車騎将軍軍師

字は子幹。[タク]郡[タク]の人。

盧植は身長八尺二寸、鐘のような声色だった。剛毅にして雄大なる節義の持ち主で、つねづね世を救済せんとの志を抱き、韻文の技術は好まず、一石もの酒を呑むことができた。

若くして鄭玄とともに馬融に師事、古今の学問に精通し、精密な研究は好んだが字句をもてあそぶようなことはしなかった。馬融は外戚の豪族であり、女たちを並ばせて眼前で歌や舞をさせることが多く、盧植は何年ものあいだ師範役を務めたが、一度も振り返ることはなかった。馬融はそのことから彼を尊重した。学業を終えて帰郷すると、古里で教育を行った。

皇后の父である大将軍竇武が霊帝を擁立し、政治の中枢に携わると、朝廷では封爵を追加しようと議論された。盧植は布衣の身ながら、手紙を送って諫めた。「あなたは漢朝において周の旦・のような立場であり、天下の注目するところです。いま系図を調べて下位の者(霊帝)を立てられましたが、それは天の仕事を横取りして自分の手柄にするものです!外部に跡継ぎを求めるとは危険なことですぞ。」しかし竇武は受け入れられなかった。

州郡から何度かの(出仕の)命令が届いたが、盧植はどれにも応えなかった。建寧年間(一六八〜一七二)、中央から博士に徴し出されると、初めて出仕した。熹平四年(一七五)、九江郡の蛮民が反乱を起こした。盧植は文武の才能を兼ね備えておりますとの四府(三公と大将軍の役所)の推薦を受け、九江太守を拝命すると、蛮民どもは服従した。病気を口実に退職した。

『尚書章句』『三礼解詁』を著述した。そのころ太学に石経が立てられることになり、五経の校正が求められた。盧植はそこで上書した。「臣は馬融から古学を学び、現在の『礼記』に回りくどさが多いのを熟知しております。また『周礼』などが誤謬に基づいているので、浅学ながら『解詁』を作成いたしました。願わくば書生二人を連れて東観へ行き、官費でもって経典の校正を行いたく存じます。」

南方の異民族が反乱を起こすと、盧植がかつて九江で恩徳信義を示していたことから廬江太守を拝命した。盧植は政治に精通しており、職務上は静粛さを心がけ、大ざっぱな方針を宣言するだけであった。

一年余りしてまた議郎に徴し出され、諫議大夫馬日[石單]・議郎蔡[ヨウ]・楊彪・韓説らとともに東観へ入り、秘蔵の五経や紀伝を校正し、『漢記』の続きを書いた。急ぎの仕事ではないことから、帝は侍中に転任させたあと、尚書に昇進させた。

光和元年(一七八)に日蝕があり、盧植は上書して諫めた。「漢は火徳であり、女色に溺れて讒言を信ずるのは、火が水をかぶるほど危険なことです。今年の異変はみな陽気が陰気に蝕まれたせいであります。一、良き人物を任用すること。二、党錮の禁を解除すること。三、疫病を防ぐこと。四、侵略に備えること。五、礼儀を慎むこと。六、堯帝の人事制度を採用すること。七、部下を監督すること。八、私利私益を捨てること。以上、八つの務めを陳情いたします。」帝は反省できなかった。

中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起した。四府の推挙により盧植は北中郎将・持節を拝命し、護烏桓中郎将宗員を副官とし、北軍五校の兵士を率い、諸郡の郡兵を動員して出征した。度重なる戦いで賊の総帥張角を破り、斬首・捕虜は一万人を越えた。張角らが敗走して広宗に楯籠ると、盧植は包囲陣を築いて雲梯を建造し、今にも陥落しそうな状況であった。

そこへ帝の派遣した小黄門左豊が両軍の形勢を視察しにきた。ある人が左豊に賄賂をお渡しなさいと勧めたが、盧植は承知しなかった。左豊は帰国すると「広宗の賊は容易に打ち破れるのに、盧中郎将は陣を固めて軍を休め、天罰が下るのを待っているかのようです」と帝に言上した。帝は腹を立て、檻車を送り付けて盧植を徴し返した。ただ罪一等を減じられて死刑だけは免れた。

車騎将軍皇甫嵩は黄巾賊を平定したあと、「盧植の行軍は軍略にかなったものであり、私どもは彼の計画を元にして手柄を立てられたのです」と絶賛した。そのおかげで盧植はその年のうちに尚書へ復帰できた。

霊帝が崩御したのち、大将軍何進は宦官を誅殺するため、并州牧董卓を召し寄せて太后を脅迫しようと企てた。董卓は凶悪であり操縦することは難しく、必ずやのちのち問題を起こすであろうと考え、盧植は断固として諫めたが、何進は聞き入れなかった。結局、董卓は到着すると朝廷を混乱させたのであった。

董卓が百官を集めて帝の廃立を提案したとき、官僚たちは反論できなかったが、ただ盧植だけは同調せずに抗議した。董卓は腹を立てて会議を中止し、盧植を殺そうとした。盧植はもともと蔡[ヨウ]と親しく、かつて蔡[ヨウ]が朔方郡に流されたときも盧植だけが減免を請願していた。蔡[ヨウ]はこのとき董卓に信頼されていたので、(董卓の元へ)出かけて盧植の赦免を願いでた。また議郎の彭伯も「盧尚書は海内の大儒であり、人々の希望の星です。いま殺せば天下を恐怖させるだけです」と諫めたので、董卓は盧植の殺害をやめて免官するだけにした。

盧植は老いと病気を訴えて帰郷を求めたが、暗殺を恐れ、道を変えて轅から脱出した。案の定、董卓は追っ手を差し向けたが、懐まで行っても見付けられなかった。盧植はそのまま上谷に潜伏し、他人と交流しなかった。冀州牧袁紹が招聘して軍師とした。

初平三年(一九二)、卒去した。臨終のとき、息子に「地面に穴を掘って埋葬せよ、棺は使うな、副葬品は一反の絹だけでよい」と遺言した。著作した碑、誄、表、記は合わせて六篇あった。

【参照】袁紹 / 何進 / 何太后 / 韓説 / 堯 / 皇甫嵩 / 左豊 / 蔡[ヨウ] / 周公旦(旦) / 召公) / 宗員 / 張角 / 鄭玄 / 董卓 / 竇武 / 馬日[石單] / 馬融 / 彭伯 / 楊彪 / 劉宏(霊帝) / 懐県 / 漢 / 轅 / 冀州 / 九江郡 / 広宗県 / 朔方郡 / 周 / 上谷郡 / [タク]県 / [タク]郡 / 并州 / 廬江郡 / 諫議大夫 / 議郎 / 軍師 / 護烏桓中郎将 / 持節 / 侍中 / 車騎将軍 / 小黄門 / 尚書 / 太守 / 大将軍 / 博士 / 牧 / 北中郎将 / 漢記 / 三礼解詁 / 周礼 / 尚書章句 / 礼記 / 雲梯 / 檻車 / 熹平石経 / 今学 / 黄巾賊 / 古学 / 五経 / 太学 / 東観 / 党錮 / 府 / 北軍五校

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