三国志モバイル人物伝

王思Wang Si

オウシ
(ワウシ)

(?〜?)
魏大司農

済陰の人《梁習伝》。薛悌・郤嘉と同じく低い身分から出世した人物である。

梁習とともに(丞相府の?)西曹令史となったが、政治に関する意見書を提出し、曹操の怒りに触れた。曹操は役人に命じて彼を逮捕させたが、たまたま王思は外出しており、代わりに梁習が逮捕された。王思は馬を走らせて自首し、「私の罪は死刑に相当します」と言った。曹操は梁習が王思をかばったことと、王思が責任逃れをしなかったことに感心し、「わが軍中に二人の義士がいたとは思いもよらなかった」と述べた。のちに二人同時に刺史に抜擢され、王思は予州を治めた《梁習伝》。

文帝曹丕は詔勅を下し、「薛悌はまだらな官吏、王思・郤嘉は純粋な官吏である。それぞれ関内侯の爵位を授ける」と述べた《梁習伝》。王思は細かいことにうるさい性質だったものの、法律に明るく、優れた人物に礼を尽くし、状況の変化を機敏に悟ったため、高い評判を得られた《梁習伝》。

明帝曹叡の時代、中書監劉放と中書令孫資が政治を壟断していた。冗従僕射畢軌が「尚書僕射王思は古くからの官僚でありますが、忠誠心と計略の点では辛毘に及びません。辛毘を王思に替えるべきと存じます」と上奏したので、曹叡は劉放と孫資に尋ねた。劉放・孫資は「陛下が王思を起用なさったのは、彼の努力を認め、そらぞらしい名声を尊ばれなかったからです。辛毘は実直ではありますが、強情で自分勝手です」と言上した《辛毘伝》。こうして王思は解任されずに済んだ。

正始年間(二四〇〜二四九)に大司農に昇った。しかし老いのため目がよく見えず、始終怒り狂っていた。部下たちはただ騒ぎ回るばかりで理由がわからなかった。ほとんど他人を信用しない性質で、父が危篤だという役人がいたが、王思はそれを疑い、「妻恋しさに母親を病気にする者がいるが、お前もそういうことなのか」と腹を立て、彼に休暇を与えなかった。その役人の父は翌日死んでしまったが、王思はまるで気にも留めなかった《梁習伝》。

そのうえ性急でもあった。あるとき文書を作成しているとき、筆先に蠅が集まったきたので、それを追い払ったが、また集まってくる。こうしたことを二・三回も繰り返しているうち、王思は腹を立て、立ち上がって蠅を追い払おうとしたが、それでも思い通りにならず、とうとう筆を手にとって地面に投げつけ、足で踏み潰してしまった《梁習伝》。

【参照】郤嘉 / 辛毘 / 薛悌 / 曹叡 / 曹操 / 曹丕 / 孫資 / 畢軌 / 劉放 / 梁習 / 済陰郡 / 予州 / 関内侯 / 侯 / 刺史 / 冗従僕射 / 丞相 / 尚書僕射 / 西曹令史 / 大司農 / 中書監 / 中書令 / 府

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