三国志モバイル人物伝

閻忠Yan Zhong

エンチュウ

(?〜188)
漢信都令

漢陽の人《賈[言羽]伝》。かつて信都の県令を務めていた《後漢書皇甫嵩伝》。

武威の賈[言羽]は若いころ、名を知られていなかった。しかし閻忠だけが「賈[言羽]には張良・陳平ほどの奇策がある」と言っていた《賈[言羽]伝》。

中平元年(一八四)、皇甫嵩が黄巾賊を破り、天下に威名を轟かせたとき、閻忠は皇甫嵩を批判して言った。「得がたくして失いやすきものは時節、時節いたらば事を起こすは機敏であります。それゆえ聖人はつねに時節にしたがって行動し、智者はかならず機敏によって行動したのです。ただいま将軍は得がたき幸運に遭遇し、失いやすき機敏に行きあわれました。しかしながら足元の幸運をつかもうとせず、直面した機敏にも行動されませぬ。いかにして大いなる名声を維持できましょうか?」《賈[言羽]伝・後漢書皇甫嵩伝》

皇甫嵩「どういう意味かね?」、閻忠「天の道理に親疎はなく、百姓すべてが関わることができるのです。それゆえ優秀なる人物は功績を立てても凡庸なる君主の褒賞を受けないのです。いま将軍は春の終わりに鉞をさずかり、年末には功績を収められました。作戦活動は鬼神の謀略のごとく、計画の修正は必要とせず、大軍を破るにも枯れ木を折るほど容易に、堅陣を破るにも雪に湯をそそぐほどでございました。七つの州を席巻し、三十六の方を屠殺し、黄巾の軍勢を皆殺しとし、邪悪な災いを取りのぞかれたのです。死体を山盛りにして石碑を刻み、南方に向かって君恩に報い、威光を本朝に振るわせ、名声を海外に広められました。かくて群雄たちは振りかえり、百姓たちは向きなおったのであります。湯武の行動でさえ将軍の偉大さには及びませぬ。身に賢者の功績を立てながら、凡庸な君主に北面して仕えるのでは、どうして安全を計れましょうや。」《賈[言羽]伝・後漢書皇甫嵩伝》

皇甫嵩「朝から晩まで公務を心がけて忠義を忘れておらんのに、なにゆえ安全でないというのか」、閻忠「いいえ。むかし韓信は一飯の恩義を絶てなかったために天下三分の偉業を捨てることとなり、鋭利な剣が喉もとに突きつけられて歎息する羽目になりました。時機を逸して計略に従わなかったからです。いま主上の勢力は劉・項より弱く、将軍の権威は淮陰(韓信)より重いのです。指図すれば風雲を振るわすこともでき、叱咤すれば雷電を起こすこともできるのですから、冀州の人士を集めて七州の軍勢を動かし、[シ章]河をわたり孟津で馬に飲ませて宦官を誅殺すべきです。」《賈[言羽]伝・後漢書皇甫嵩伝》

閻忠「功業すでに成り、天下すでに安まれば、しかるのち上帝をお招きして天命を示し、上下四方を合わせて南面し、詔勅を発して宝器を移すのです。推察するに、亡国の失墜はまこと神々しき機運の極致であり、風雲発起の好機なのでございます。早々に決行しなければ、後悔しても間に合いませんぞ」、皇甫嵩は恐怖して「非常の計画は通常の形勢からは起こせないものだ。大業を創始するなど、どうして凡才の成せることであろう。黄巾は小悪党にすぎず、秦・項に並ぶものではない。新たに結集したばかりで分散させやすかったのだ。業績は成しがたく、人々は主君を忘れておらず天道は逆臣を助けぬもの。もし不逞の功績を企てたとて、早晩の災禍を招くだけであろう。本朝に忠誠を尽くして臣下の節義を守るのと、どちらがよいだろうか。」《賈[言羽]伝・後漢書皇甫嵩伝》。

閻忠は計略が用いられないことを悟ると、狂人のふりをして巫術師に身を落とし、すぐさま亡命した《後漢紀・後漢書皇甫嵩伝・賈[言羽]伝》。

同五年、涼州の賊王国らが挙兵すると、閻忠の身柄を拘束して車騎将軍に祭りあげ、三十六部を統率させようとした。閻忠は大勢で脅迫されたのを恥じ、怒りのあまり病気にかかって死んだ《賈[言羽]伝・後漢書皇甫嵩伝・同董卓伝》。

【参照】殷湯王(湯) / 王国 / 賈[言羽] / 韓信 / 皇甫嵩 / 項羽(項) / 周武王(武) / 張良 / 陳平 / 劉宏(凡庸な君主) / 劉邦(劉) / 漢陽郡 / 冀州 / [シ章]水([シ章]河) / 秦 / 信都県 / 武威郡 / 孟津 / 涼州 / 県令 / 車騎将軍 / 宦官 / 黄巾賊 / 上帝 / 巫(巫術師) / 部曲(部) / 方

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