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ペテン師すると、士仁はもしかしたら劉備一党の古参の1人の可能性もあるかもしれないのかな?燕であれば公孫讃の所にいた時に編成された1人かもしれないし…ビ芳の様に経歴を一切消されている可能性もありそうです 2016/04/27(水) 03:24
mujinいえ、おそらくは幽州の広陽郡(=燕国)かと思います。当時の郡のうち、広陽といえば幽州にしかないはず。 2016/04/21(木) 23:09
ペテン師併州の広陽県のところの郡人に士仁がいますけど、この人は益州の広陽郡ではないでしょうか 2016/03/21(月) 19:00
むじんなるほど。情報のご提供ありがとうございます。いま手元に『太平御覧』がないので確認できません。確認が取れたら掲載させていただきます。いましばらくお待ちください! 2013/02/03(日) 17:55
将棋倒し文俶の字は「次騫」です。《太平御覽》巻き275に見えます。「干宝《晋紀》曰:文淑,字次騫,小名鸯,有武力籌策。」 2013/02/01(金) 12:27
閻行これ↓自分で解釈したつもりでしたが、なんとなくどこかで誰かが言ってたような・・・ 2012/07/26(木) 23:56
閻行劉曄伝『傅子』注の『蜀降者說:「蜀中一日數十驚,備雖斬之而不能安也。」』という使者の言葉によって、劉曄は劉備が蜀に戻ってきた事実を知り、蜀平定の機が去ったことを悟ったのかもしれません。 2012/07/24(火) 23:42
閻行おそらく張魯は投降の意を早い段階で伝えていたと思われます。もしかしたら朴胡・杜濩らも張魯らの意向で下っていたのかもしれません。ところが劉備が踵を返して巴中に入り、朴胡・杜濩らは破れ、張郃を派遣する。「朴胡、杜濩は巴から略陽に移った」強制移住とはこのことかもしれませんね。 2012/07/24(火) 23:33
閻行先主伝によれば、214年夏四月、雒城を陥す。数十日の籠城を経て成都も陥落。214〜215にかけて荆州を争って孫権と対峙。張魯が巴西に逃走したことを聞くと、和睦して江州まで戻る。張魯が巴西に向かったのが七月、この時点で漢中は曹操に下ったとみていい。『後漢書』献帝紀でも七月に張魯が投降したとある。 2012/07/24(火) 23:18
劉曄の進言が張魯が逃げた直後なのか劉備が巴を掌握してからなのか不明だが張コウ派遣の目的が四川制圧の露払いなり劉備へのけん制とすると山中に部下を捨てにいったようなものになるな。沙汰止みになってからとは別のタイミングと動機で派遣されたんじゃないか 2012/07/24(火) 02:49
武帝紀では7月に張魯が巴に逃げる。9月に朴胡、杜濩が魏に降伏。11月に張魯が魏に降伏。対劉備に張郃派遣。12月に南鄭から帰る。黄権伝では黄権が張魯を迎えに行ったが降伏しており朴胡、杜濩を破った。華陽国志では朴胡、杜濩は巴から略陽に移ったとある 2012/07/24(火) 02:35
閻行さすが水甕様。きっかけの「なんで昇進したか」なんてすっかり忘れてたよ・・・。「曹操自体が乗り気じゃなくて、結局沙汰止み」ああ、なるほど・・・実は資料見ているうちに、張郃が「隴を得て蜀を望む」の戒めに逆らっているように見えちゃってたんで、納得です。 2012/07/23(月) 23:01
水甕集解の部分は直訳ではないけど、ニュアンスはこんな感じ。張郃サンは結果として、国の方針とは違う場所に出征したわけで、兵站もままならなかったろうから、そりゃ負けるわナ。もちろんこれが真実だとは思いませんが、こんな読み方もあるということを紹介しておきます。 2012/07/23(月) 22:55
水甕あと、集解眺めてたら、さらに面白い記述を見つけた。武帝紀建安20年の『遣張郃撃之』所なんだが、集解によると、そもそも張郃を派遣したのは強制移住のためなんかではなく、劉璋を下したばかりの劉備を牽制するため、さらには漢中から一気に巴蜀を制圧するための先遣隊の役割があったんじゃないかって話。言いだしっぺはもちろん劉曄。ところが曹操自体が乗り気じゃなくて、結局沙汰止みに。だから張郃は孤立して張飛の餌食になったんだって。 2012/07/23(月) 22:54
水甕随分と熱い議論ですな〜。ことの発端はなんだった?あ〜ぁ、張郃、張飛に大敗してるのに何で昇進してるんだ?、だったか。知らん。が、これは多分、建安20年のことだろう。だとしたら、韓遂・馬超、張魯征伐をひっくるめた論功行賞じゃないか?一連の軍事行動における張郃の働きは十分でしょう。張郃が何故張飛に負け?、そりゃ、これだけの資料から判断するのは無理だろう。余談だが、三国志集解によれば宕渠って場所は濃霧の多発地帯らしいぜ。50日対峙してたから奇襲に合わないなんて考えは甘いかもよ。 2012/07/23(月) 22:27
:;;張郃がたびたび巴に侵略してきたので劉備は張飛らを率いて宕渠の蒙頭まで進軍して張郃を防いだ。対峙すること五十余日。張飛は他道から張郃を迎え陽石で戦って遂に張郃の軍を大破した。張郃は馬を失って山に縁って麾下十余人と間道から南鄭に帰った。 2012/07/22(日) 15:48
張コウなんぞ貶されようがどうでもいいが、支離滅裂な言いがかりで貶すのは許さないよ。評と史料に残った記述が一致しないのはよくあること。歴史書がすべての事績を書き残してる訳ないだろ。自分の矛盾は気にしないのに矛盾でもない部分まで矛盾してると強弁するのはないわ〜〜〜 2012/07/22(日) 00:36
「飛に抵抗されたと言ってます。抵抗というのは先に相手に攻撃を仕掛けられて始めて抵抗といえるのですよ。」これも誤読してる。大体そのちょっと前で劉備に攻められる以前から留郃與夏侯淵等守漢中、拒劉備となってるだろ。「相拒」なら尚更あんたが言う理屈は適用されんだろうが。正史とも辞書ともあんたの主張には矛盾がある。 2012/07/22(日) 00:30
「目的がなんであれ、飛の管轄領域に進軍したのです。だから飛は「迎えて」交戦したわけだし、」誤読してるよ。張飛が領巴西太守であることとそれは別。なんで張飛が50日も対陣して「相拒」していたのに「他の道によって」張コウの手勢を「迎える」ことになるのか?文法を勉強してから本文を読み直して合理的に考えな。 2012/07/22(日) 00:29
「巴西の住民を強制移動したのは飛と対峙する前ですが、張コウがさらに軍を進めたのはさらなる住民の確保か飛を攻撃するためです。」規模は不明とはいえ強制移住が終わってないから地形に拠ってダラダラ対陣してたと考える方がまだ妥当。張飛の撃破を意図してるならさっさと片付けないとおかしい。なぜなら劉備その他が支援してきたらそれがより困難になるから 2012/07/22(日) 00:29
「張コウが逃げようとした記述はどこにもありません。」何十日も対陣してたから敵情を知る時間は充分すぎるほどあったろ?対峙当初と違って劉備自身が蒙頭まで進出してる。その上に張飛が他道から攻撃してくる状況で逃げないのか?諜報で察知してるのに?あんたの中では張コウは一体どれだけ自信過剰で危機意識が欠如してるんだよ(笑) 2012/07/22(日) 00:28
「それはともかく、持論を展開する前によく資料を読みましょう。」それはこっちの台詞だ。「そして言葉一つ一つの持つ意味を理解しましょう。」それもこっちの台詞だ。「これでは話しにもなりません。」すべてこっちの台詞だ。あんたは冗談ばかり言うね〜くだらんからその辺にしてくださいね 2012/07/22(日) 00:28
閻行「張郃は変化の法則をわきまえ、よく陣営を処置し、戦争の状況・地形を考慮し」の下りは張郃伝の本文であり、諸葛亮らが彼をおそれはばかったとあります。諸葛亮たち蜀将の張郃に対する評価、さらにそれを踏襲した陳寿が張郃をそう書いたということでしょう。となれば、その評価は馬謖との戦いから諸葛亮に殺されるまでの一連の張郃と蜀将の戦いが基準なのではないでしょうか? 2012/07/21(土) 20:13
閻行文章のニュアンスは筆者やその当時の人物・情勢の評価で変わってくるものであって、単純に記述の一言一言に捉えられて解釈しているだけでは、真実は見えてこないのではありませんか? 2012/07/21(土) 19:55
閻行「張コウがさらに軍を進めたのはさらなる住民の確保か飛を攻撃するためです」だとすれば、私の張郃の評価は下がりますし、地形や状況を判断した行為とも思えないということになります。強制移住という強硬策を取り、まだ占領したばかりの土地が安定していない状態で、さらに劉備軍を攻めようとする状況は考えられないのではないでしょうか? 2012/07/21(土) 19:53
車騎奇襲ではないのは、間違いないありませんが、なにも私は張コウを貶しているわけではありません。史実の当時の評価と実際の記述の違いに疑問を抱いたまでです。それはともかく、持論を展開する前によく資料を読みましょう。そして言葉一つ一つの持つ意味を理解しましょう。これでは話しにもなりません。 2012/07/21(土) 19:23
車騎正史に基づいて発言してください。張コウが逃げようとした記述はどこにもありません。対峙したというのは戦う姿勢が双方にあって始めて言えるものです。巴西の住民を強制移動したのは飛と対峙する前ですが、張コウがさらに軍を進めたのはさらなる住民の確保か飛を攻撃するためです。逃げようと考えたなんてデタラメすぎますよ?目的がなんであれ、飛の管轄領域に進軍したのです。だから飛は「迎えて」交戦したわけだし、張コウ伝では飛に抵抗されたと言ってます。抵抗というのは先に相手に攻撃を仕掛けられて始めて抵抗といえるのですよ。 2012/07/21(土) 19:18
閻行確かに張郃伝・張飛伝では「宕渠まで軍を進めた」とは書かれていますが、張飛の軍を攻撃に向かったというよりは、強制移住の作業を邪魔されないように防ぐために宕渠付近に進出して食い止めたのだと思います。五十日も対陣したのであれば、おそらく移住させられた現地住民はかなり戦場から遠くに送られているはずです。 2012/07/21(土) 17:11
「張コウは飛を攻撃しようもしくは飛の陣営のある方へ進軍しようとして、」よってこれは読み間違いだろう。強制移住で殿になって対陣してたが逃げ切れなかったってだけで被害は大きいが作戦目的は達成してる 2012/07/21(土) 16:13
強制移住プランを遂行するために漢中に逃げようとする張コウを張飛が捕捉した、五十日の対陣で劉備が張飛を支援する余裕が出来たので、張飛に別の道で先回りされ待ち伏せを食らって壊滅した。他に道があったとしても漢中まで民衆を連れて行けるルートか疑問。単純にキャパオーバーなので張コウ本人を責めるのはおかしい。むしろ撤退しながら50日もっただけでも褒めるべきだろう 2012/07/21(土) 16:03

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