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原著作者:【むじん書院】

93 陳寿の諸葛亮論

陳寿伝』にいう。陳寿の父は馬謖参軍となり、馬謖が諸葛亮に誅殺されたため陳寿の父も髠刑(髪剃り刑)に処せられた。だから陳寿は『諸葛亮伝』を書いて「将略は得意でない」と言ったのである、と。これは全く見識を欠いた主張である。★諸葛亮の不得意な点についてだが、最初から用兵能力から長所を探す必要などないのだ。亮之不可及処,原不必以用兵見長.陳寿の校定した『諸葛集』を見てみると、上表して「諸葛亮の法令は厳格公明、信賞必罰であり、悪人でなければ処罰することなく、善人でなければ顕彰することなく、ついには官吏は不正を受け入れられず、民衆は自分を律するよう心がけるまでになりました。現在でもなお梁・益の民衆は(彼のことを語り継ぎ)、『甘棠』が召公め、鄭人子産を歌っていることでさえも、彼以上ではございません」と述べている。また『諸葛亮伝』末尾に評して言う。「諸葛亮の統治ぶりは誠心を開いて正道を広め、善行が少しもなければ賞せず、悪行が少しもなければ貶めなかった。最終的に、領内ではみなが畏怖するとともに愛慕し、刑罰が厳しくても怨む者がなかったのは、彼が公平さを心がけて訓戒が公明だったからだ。」こうした孔明(諸葛亮)の称えぶりからすると、ひたすらその偉大さを評価していることが理解できよう。また『楊洪伝』に言う。西方ではみな諸葛亮が限られた人材の能力を尽く引き出すことができるのに感服した、と。『廖立伝』に言う。諸葛亮は廖立を廃して庶民に下したが、諸葛亮が卒去すると、廖立は泣きながら「わしはとうとう左衽(蛮民)になってしまった!」と言った、と。『李平伝』でもこう言っている。李平李厳)は諸葛亮に廃されたが、諸葛亮が卒去すると、李平はそのまま発病して死んだ。李平はいつも諸葛亮が健在ならば自分を復職させてくれるだろうと期待していて、後任の者ではそれができないことを予測したからである、と。陳寿はまた『孟子』の言葉を引用して「ゆとりの方針で民衆を使役するならば、疲れても怨まず、活かす方針で民衆を処刑するならば、死んでも殺されたことを怨まない」と言っている。これは実にうまく王佐の心がけを述べたものである。軍事において勝利できなかったことに関してもまた、敵対者が人傑であったこともあり、加えて人数も対等でなく攻守の態勢も違っており、さらに当時は名将もおらず、それゆえ功業は衰退し、しかも天命の帰趨も定まっており、智力でもって抗うことは不可能だったのだ、と明言している。陳寿は司馬氏に対する遠慮が最も多く、それゆえ諸葛亮が司馬懿巾幗(婦人用の髪飾り)を贈ったことや「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」といったことなどは、『伝』の中にはどれも書かれていないのだ。その一方、主張だけはあのようなものなのだから、彼がいかに深く諸葛に心服しているか、しかと理解できよう。それなのに父親が髠刑にされたからあの人を貶めたのだなどと主張するのは、全く物事に対して見識のない人間である。