利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

廿二史箚記 巻六

85 後漢書と三国志の書き方の違い

86 三国志の書き方

87 三国志には遠慮が多い

88 三国志の記述で事実のところ

89 三国志の立伝に繁雑・簡略の違い

90 三国志の誤記

の『武紀』に、建安二年、汝南黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは軍勢おのおの数万人であり、曹操は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首した、とある。これは劉辟がすでに処刑されていたということである。ところが、建安五年、曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、の城下を攻略し、袁紹は劉備をやって劉辟を支援させた、という。これは劉辟がもともと死んでおらず、ただ曹操に降伏しただけで、このときまた叛逆して袁紹に呼応したということである。一つの帝紀だけでもうこれだけの矛盾があるのだ。さらに『于禁伝』では、于禁は黄巾賊の征伐に従軍し、劉辟・黄邵らが曹操の陣営に夜襲をかけてきたので、于禁は彼らを撃破し、劉辟・黄邵らを斬った、とある。その記述は官渡戦への従軍以前に置かれており、つまり建安二年の事件ということになる。さすれば実際のところ劉辟はすでに死んでいたのである。の『先主伝』には、曹操が官渡において袁紹と対峙しているとき、汝南黄巾賊の劉辟らが曹操に叛いて袁紹に呼応したので、袁紹は先主(劉備)に劉辟らとともに許の城下で略奪させた、とある。これもまた建安五年の事件であって、劉辟はまだ生きていたということになる。なぜ帝紀と列伝とでまたぴったりと符合しているのか。まさか、この時代に二人の劉辟がいたというのか?『高堂隆伝』にいう。魏の明帝曹叡)が盛大に宮殿を築いたので、高堂隆は上疏して諫めた。「いま呉・蜀二人の賊徒が皇帝を僭称しておりますが、もし孫権・劉備がともに恩徳ある政治を敷いていると報告する者があり、陛下がそれを聞いたとして、はらはらとせずにおられましょうか。」調べてみると、蜀の先主が崩御したのは魏の文帝曹丕)の黄初四年のことであって、どうして明帝の時代に「孫権・劉備」と称することができよう。これはきっと字に間違いがあるのだろう。の『孫輔伝』にいう。その息子の孫松射声校尉・都郷侯となり、黄龍三年に卒去した。蜀の丞相諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送り、「かつて東の朝廷で厚遇を賜り、子弟の方々には親密な心を抱いております」、また「子喬(孫松)どのは器量に秀でておられ、彼のために哀悼するものでありますが、彼が諸葛亮にくれた品物を見るたび、感傷のため涙が流れるのでございます」と述べた。彼がここまで孫松を追悼するのは、諸葛亮の養子諸葛喬から(孫松のことを)聞いていたからだと言われる、と。この段落の文章は全く理解できない。息子諸葛喬というのは諸葛瑾の実子であるが諸葛亮の養嗣子に出された人物であって、おそらく諸葛喬が孫松の人となりを諸葛亮に説明したことがあったものと思われる。それなのに「子弟の方々には親密な心を抱いております」とか「諸葛亮にくれた品物」とは一体、何を言っているのか。諸葛亮がかつて使者として呉を訪れたとき、孫松と面識があって、その後、孫松が品物を諸葛喬に預けて諸葛亮に贈ったということだろうか?それにしても文章が全く意味不明である。『陸抗伝』に、陸抗西陵都督して関羽から白帝へ赴いた、とある。白帝とは夔州城のことであるから、関羽もまた地名かも知れぬ。おそらく関羽が荊州を守っていたことで、後世の人々が彼の名を取って地名にしたのであろうから、これはまだ間違いであるとは限らない。『夏侯惇伝』にいう。建安二十一年、孫権征討に従軍した。二十四年、曹操は摩陂において呂布軍を撃破し、夏侯惇を招いて一緒に(馬車へ)載り、それによって恩寵の深さを示した、と。調べてみると、曹操が呂布を生け捕りにしたのは建安二年のことで、建安二十四年とは二十年以上も離れている。どうして今さら呂布を撃破することがありえようか。考えてみるに、このとき関羽は曹仁を包囲しており、曹操は徐晃をやって救援させ、曹操は洛陽から直々に出向いて対応することにしたが、まだ到着せぬうちに徐晃が関羽を破り、関羽がすでに敗走していたので、曹操はそのまま摩陂に着陣したのである。そうすると『夏侯惇伝』で呂布と呼ばれているのは、きっと関羽の間違いであろう。また『呉志』の『孫壱伝』にいう。孫綝朱異に命じて潜行部隊に孫壱を襲撃させると、孫壱は魏に逃亡した。魏はこれを車騎将軍として呉侯に封じ、先帝斉王曹芳貴人であった氏を娶らせた。(孫壱は)魏の黄初三年に死去した、と。調べてみると「黄初」というのは魏の文帝の年号であり、文帝から斉王曹芳が廃されるまで二十年以上が経っている。どうして曹芳の妃を娶らせたあと、また黄初年間に死ぬことがありえようか。『魏志』によると孫壱の降参は高貴郷公曹髦)の甘露二年のことであって、となれば彼が死んだのも景元・咸煕年間のことである。ここで黄初三年に死去したというのは、やはり間違っているはずだ。

91 荀彧伝

荀彧伝を『後漢書』では孔融らと同じ巻にまとめているのは、彼が臣だったと見なしているからである。陳寿の『魏志』が夏侯惇・曹仁らの後、荀攸・賈詡と同じ巻にまとめているのは、彼を臣と見なしているからである。調べてみると、こうある。董昭らは曹操の功績が高大であるので魏公に封じて九錫を加えるべきと提議したが、荀彧は曹操がもともと義兵を起こしたのは漢室を正し、忠義貞節を守るためであり、君子は他人を愛するにも徳を用いるのだからそれはよろしくないと述べ、そのことで曹操の気持ちに逆らうことになった。ちょうど孫権を征伐することになり、(曹操は)上表して荀彧を借り受けて軍の慰撫役としたが、荀彧は病気のため寿春に留まった。曹操は人をやって食膳を送り届けたが、これを開いてみると空っぽである。ついに薬を飲んで卒去した。翌年、曹操はとうとう魏公になった、とのこと。このことから荀彧が心底から漢のために尽くそうとしていたことが理解できる。論者のなかには、以下のように主張する者もある。最終的に曹操の気持ちを損ねて死んだとはいえ、その当初、袁紹のもとを去って曹操に就いたときには、ちょうど呂布兗州に攻めかかっていたのであるが、荀彧は曹操のために鄄城および范・東阿を堅守して曹操を待ち、むかし漢の高祖劉邦)は最初に関中を平定し、光武帝劉秀)は最初に河内を占領して基礎としたが、この三つの城こそが曹操にとって関中・河内であると述べた。後年にはまた天子(劉協)を奉迎するよう曹操に勧め、文公襄王を入れて霸業を固め、漢の高祖は義帝の喪を発して諸侯を手にしたことを述べた。これこそは早くから帝王の創業を曹操に勧めたということであって、どうして漢に忠誠を尽くしたと言えようか、と。(しかしながら)献帝(劉協)が董卓による大乱に遭ったのち、四海は鼎のごとく沸きかえり、各地が武装して四分五裂しており、荀彧は臣下たちのうち曹操を除いては群雄を平らげて漢室を救える者はないと考えており、曹操に帰服して彼のために尽力せざるを得なかったのは、曹操のために働くことこそ漢のためになったからである、ということに気付いてないのだ。最初、天子を奉迎するよう曹操に勧めたとき、曹操にこう告げている。「将軍は外地にあって難事を片付けておいでですが、心中では王室をお忘れになることはございません。これは将軍が天下を正すことを宿願になさっているということであり、まことこれを機会に主上を奉戴して民衆の希望に沿うのは、大いなる順道であります。公正さの極致を守って英雄どもを屈服させるのは、大いなる戦略であります。正義の実行を助けて俊才を招くのは、大いなる恩徳であります」、と。このことから荀彧が曹操を利用することにより漢を救済しようとした本懐が理解できるのである。しかもこのとき曹操はまだ神器を簒奪せんとの心を持っていなかったのである。(曹操の)功績が日ごとに高まり、権勢が極まったのち、董昭らは上公の九錫を加えようとしたが、それは人臣の関与する事柄ではなかった。荀彧もまた曹操が内心に僭上の企てを抱えていることをはっきりと見抜き、決して賛同することなく、ひたすら大義名分をもって諫言し、結局、曹操に疎んじられて薬を飲んで殉死した。その劉氏のために尽くした心は、天下の人々を清めるに十分であろう。陳寿がすでに魏臣のなかに入れているのに、范蔚宗范曄)は特別に取り出して『後漢書』に並べ、荀彧伝のに、彼がひたすら正義に従い、身を殺して仁をなした道義を取り上げたと明言している。これこそ実に得心のいく論である。陳寿もまた荀彧伝の末尾で「荀彧が死んだ翌年、曹操はとうとう魏公になった」と言っている。ここでもまた荀彧が曹操のために死なず、あえて彼のために働いたことのなかったことが見て取れる。これは公正なる道はしっかりと人々の心にあり、誣告を受け付けないということなのである。

また思うに、臧洪はもとより漢末の義士であって、彼が張超と交わりを結び、のちに袁紹と矛を交えたことについては、いずれも曹操と無関係である。本来ならば『魏紀』(魏志)の中に立伝する必要がないのに陳寿がこれを張邈(の伝)の次に並べたのは、おそらくその気骨節義が埋没してしまうのを惜しんだからであろう。蔚宗も格別に『後漢書』の中へ立伝し、『寿志』(魏志)にすでに臧洪伝があるのに構わず、そのまま取り上げた。ここでも編集ぶりの正しさが見て取れるのである。

92 荀彧伝・郭嘉伝のこじつけ

左伝』に掲載されている占い的中の記録には、たとえば敬仲に出奔したときの「五世代後に繁栄する」「の子孫(陳)が(斉)に育てられる」といった占いの言葉があるが、それ以外には一字たりとも成果を現すことはなかった。占いの言葉のうち(的中したのは)この一件だけなのに(数多くの逸話が)作られたのは、おそらく文人がもともと奇談好きであって、人の気を引くために作り話をしたからだろう。陳寿の『三国志』にもまたそれに似たような点がある。『荀彧伝』に言う。荀彧袁紹の臣下たちについて「田豊は剛直にして上位に干犯し、許攸は貪欲でけじめがなく、審配は専制的だが計略がなく、逢紀は決断力があるが自分のことしか考えない。その二人がとどまって後方の事務を仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯せば、審配は放ってはおけまいし、放っておかねば必ずや変事を起こすであろう」と思料した。のちに審配は、案の定、許攸の家族に違法行為があったとして彼の妻子を逮捕したので、許攸は腹を立て、袁紹に背いて曹操に降った、と。また『郭嘉伝』にいう。曹操が官渡において袁紹と対峙しているとき、孫策の襲撃を企てていると報告する者があったが、郭嘉は「孫策は勇敢であっても警備を置いておらず、もし身を伏せていた刺客が立ち上がれば、一人を相手にすれば済むのだ」と言った。孫策は果たして許貢の食客に殺されたのであった、と。この二件における荀彧・郭嘉の予測は神業と言ってよかろう。しかしながら、どうして許攸が必ず法を犯し、審配が必ず変事を起こし、孫策が必ず匹夫の手にかかって死ぬことを察知し、半券のごとく(思いのまま)操れよう。これもまた『左伝』同様のこじつけではなかろうか。

93 陳寿の諸葛亮論

陳寿伝』にいう。陳寿の父は馬謖参軍となり、馬謖が諸葛亮に誅殺されたため陳寿の父も髠刑(髪剃り刑)に処せられた。だから陳寿は『諸葛亮伝』を書いて「将略は得意でない」と言ったのである、と。これは全く見識を欠いた主張である。★諸葛亮の不得意な点についてだが、最初から用兵能力から長所を探す必要などないのだ。亮之不可及処,原不必以用兵見長.陳寿の校定した『諸葛集』を見てみると、上表して「諸葛亮の法令は厳格公明、信賞必罰であり、悪人でなければ処罰することなく、善人でなければ顕彰することなく、ついには官吏は不正を受け入れられず、民衆は自分を律するよう心がけるまでになりました。現在でもなお梁・益の民衆は(彼のことを語り継ぎ)、『甘棠』が召公め、鄭人子産を歌っていることでさえも、彼以上ではございません」と述べている。また『諸葛亮伝』末尾に評して言う。「諸葛亮の統治ぶりは誠心を開いて正道を広め、善行が少しもなければ賞せず、悪行が少しもなければ貶めなかった。最終的に、領内ではみなが畏怖するとともに愛慕し、刑罰が厳しくても怨む者がなかったのは、彼が公平さを心がけて訓戒が公明だったからだ。」こうした孔明(諸葛亮)の称えぶりからすると、ひたすらその偉大さを評価していることが理解できよう。また『楊洪伝』に言う。西方ではみな諸葛亮が限られた人材の能力を尽く引き出すことができるのに感服した、と。『廖立伝』に言う。諸葛亮は廖立を廃して庶民に下したが、諸葛亮が卒去すると、廖立は泣きながら「わしはとうとう左衽(蛮民)になってしまった!」と言った、と。『李平伝』でもこう言っている。李平李厳)は諸葛亮に廃されたが、諸葛亮が卒去すると、李平はそのまま発病して死んだ。李平はいつも諸葛亮が健在ならば自分を復職させてくれるだろうと期待していて、後任の者ではそれができないことを予測したからである、と。陳寿はまた『孟子』の言葉を引用して「ゆとりの方針で民衆を使役するならば、疲れても怨まず、活かす方針で民衆を処刑するならば、死んでも殺されたことを怨まない」と言っている。これは実にうまく王佐の心がけを述べたものである。軍事において勝利できなかったことに関してもまた、敵対者が人傑であったこともあり、加えて人数も対等でなく攻守の態勢も違っており、さらに当時は名将もおらず、それゆえ功業は衰退し、しかも天命の帰趨も定まっており、智力でもって抗うことは不可能だったのだ、と明言している。陳寿は司馬氏に対する遠慮が最も多く、それゆえ諸葛亮が司馬懿巾幗(婦人用の髪飾り)を贈ったことや「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」といったことなどは、『伝』の中にはどれも書かれていないのだ。その一方、主張だけはあのようなものなのだから、彼がいかに深く諸葛に心服しているか、しかと理解できよう。それなのに父親が髠刑にされたからあの人を貶めたのだなどと主張するのは、全く物事に対して見識のない人間である。

94 裴松之の三国志注

文帝劉義隆)が、三国時代の異同を拾って陳寿の『三国志』の注釈とせよと裴松之に命じると、裴松之は伝紀を収集して異聞を広め、書物を完成させるとこれを献上した。帝はこれを叡覧して「これこそ不朽と言うべきじゃな」と彼を褒めた。その際の(裴松之の)上表文に言う。「陳寿の書物は見るべきものを厳選いたしましたが、簡略過ぎるという失敗があり、いくつか抜け落ちている箇所もございます。は聖旨を奉じて詳細を調べるにあたり、くまなく徹底するよう心がけ、記録すべきでありながら陳寿の掲載していない事実は残らず採用しております。一つの事件について記録に矛盾があったり、事件の出処が違っていて判断できない場合でも、みな要約に含めて異聞を固めました。」これが裴松之の大まかな方針であり、広く収集すること心がけ、陳寿の欠点を補おうとしたのである。誤謬や異説がある場合には、自分の意見を表明して正しい方を切りわけ、注釈に含めていった。いま裴松之が引用した史書を調べてみたところ、合わせて五十種余りであった。謝承の『後漢書』、司馬彪の『続漢書』『九州春秋』『戦略』『序伝』、張璠の『漢紀』、袁瑋の『献帝春秋』、孫思光の『献帝春秋』、袁宏の『漢紀』、習鑿歯の『漢晋春秋』、孔衍の『漢魏春秋』、華嶠の『漢書』、『霊帝紀』、『献帝紀』、『献帝起居注』、『山陽公載記』、『三輔決録』、『献帝伝』、『漢書地理志、『続漢書郡国志蔡邕の『明堂論』、『漢末名士録』、『先賢行状』、『汝南先賢伝』、『陳留耆旧伝』、『零陵先賢伝』、『楚国先賢伝』、荀綽の『九州記』、『襄陽記』、『英雄記』、王沈の『魏書』、夏侯湛の『魏書』、陰澹の『魏紀』、文帝曹丕)の『典論』、孫盛の『魏世籍』、孫盛の『魏氏春秋』、『魏略』、『魏世譜』、『魏武故事』、『魏名臣奏』、『魏末伝』、の人の『曹瞞伝』、氏(魚豢)の『典略』、王隠の『蜀記』、『益部耆旧伝』、『益部耆旧雑記』、『華陽国志』、『蜀本紀』、汪隠の『蜀記』、郭冲の『記諸葛五事』、郭頒の『魏晋世語』、孫盛の『蜀世譜』、韋曜の『呉書』、胡沖の『呉暦』、張勃の『呉録』、虞溥の『江表伝』、『呉志』、氏の『呉紀』、虞預の『会稽典録』、王隠の『交広記』、王隠の『晋書』、虞預の『晋書』、干宝の『晋紀』、『晋陽秋』、傅暢の『晋諸公賛』、陸機の『晋恵帝起居注』、『晋泰始起居注』、『晋百官表』、『晋百官名』、『太康三年地記』、『帝王世紀』、『河図括地象』、皇甫謐の『逸士伝』『列女伝』、張隠の『文士伝』、虞喜の『志林』、氏の『異林』、荀勖の『文章叙録』、『文章志』、『異物志』、『博物記』、『列異伝』、『高士伝』、『文士伝』、孫盛の『雑語』、孫盛の『雑記』、孫盛の『異同評』、徐衆の『三国評』、『袁子』、『傅子』、干宝の『捜神記』、葛洪の『抱朴子』、葛洪の『神仙伝』、衛恒の『書勢序』、張儼の『黙記』、陰基の『通語』、顧礼の『通語』、摯虞の『決疑』、『曹公集』、『孔融集』、『傅咸集』、『嵆康集』、『高貴郷公集』、『諸葛亮集』、『王朗集』、庾闡の『揚都賦』、『孔氏譜』、『孫氏譜』、『嵆氏譜』、『劉氏譜』、『王氏譜』、『郭氏譜』、『陳氏譜』、『諸葛氏譜』、『崔氏譜』、華嶠の『譜叙』、『袁氏世紀』、『鄭玄別伝』、『荀彧別伝』、『禰衡伝』、『荀氏家伝』、『邴原別伝』、『程暁別伝』、『王弼伝』、『孫資別伝』、『曹志別伝』、『陳思王伝』、『王朗家伝』、『何氏家伝』、『裴氏家記』、『劉廙別伝』、『任昭別伝』、『鍾会母伝』、『虞翻別伝』、『趙雲別伝』、『費禕別伝』、『華佗別伝』、『管輅別伝』、『諸葛恪別伝』、何劭作『王弼伝』、繆襲撰『仲長統昌言表』、傅玄撰『馬先生序』、『会稽邵氏家伝』、陸機作『顧譚伝』、『陸氏世頌』、『陸氏祠堂像賛』、陸機の作る『陸遜銘』、『機雲別伝』、蔣済の『万機論』、陸機の『弁亡論』。これら引用された書物はみな注釈内に書名が出ていて、その収集ぶりの広大さが見てとれるのである。范蔚宗范曄)が『後漢書』を作成したとき、おそらく裴松之が引用した書物群はまだ現存しており、それゆえ『寿志(三国志)』に記載されない事実を補うことができたのであろう。現在では書物群のうち伝承されたものは、もう十分の一にも届かない。陳寿および裴松之・范蔚宗らの時代に見過ごされ、彼らに採用されなかったものにも(それぞれの)持説があったはずだ。今さら思い立って、これらのたまたま伝承された一・二の書物でもって陳寿らの史書を批判的に読もうとしても、おおかたその限界を知るだけであろう。