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原著作者:【むじん書院】

廿二史箚記 巻五

72 世代を越えた儒学

73 四世三公

西漢前漢)では韋・平両氏が二世代にわたって宰相を務めたが、些細なことに過ぎない。(韋賢宣帝劉詢)の時代に丞相となり、その子韋玄成元帝劉奭)の時代にまた丞相となった。鄒・魯の地方の諺では「黄金を籠に満たすとも、子に経典を教えるには如かず」と言った。また平当は丞相となり、その子平晏大司徒となった。このとき丞相は大司徒と改称されており、大司徒とは宰相に相当するのである。『平当伝』に言う。が建国されて以来、父子で宰相に昇ったのは韋・平両氏だけである。)東漢後漢)には子孫代々がみなになった例がある。楊震太尉に就任し、その子楊秉劉矩の後任として太尉となり、楊秉の子楊賜劉郃の後任として司徒、また張温の後任として司空となり、楊賜の子楊彪董卓の後任として司空、また黄琬の後任として司徒、淳于嘉の後任として司空、朱儁の後任として太尉・録尚書事となった。楊震から楊彪まで四世代がみな三公になったのである。袁安は司空に就任し、また司徒にも就任し、その子袁敞および袁京はみな司空となり、袁京の子袁湯もまた司空となり、太尉を歴任して安国亭侯に封ぜられ、袁湯の子袁逢もまた司空に就任し、袁逢の弟袁隗は袁逢よりも早く三公となり、官位は太傅まで昇った。それを臧洪は「袁氏は四世代で五人の公を出した」と言っているのであって、楊氏と比べても公はさらに一人多い。古来、この両家ほど一族の繁栄した例はない。范蔚宗范曄)は西京(西漢)の韋・平両氏でも彼らに比べれば大したことはないと述べているが、まったく些細なことだと言えよう。両家代々は名声徳望でもって国家譜代の臣下となったが、ただ家柄や資産だけで出世したのではなく、なかなか真似できないものである。

于定国が丞相となり、その子于永御史大夫となっている。(二世代にわたる三公である。西漢では丞相・大司馬・御史大夫を三公と称していた。)

74 後漢では名誉節義を重んじた

75 曹娥と叔先雄

范書列女伝にいう。会稽曹娥なる女子は、その父が巫覡であったが、五月五日、(父は)神を迎えるため長江の大波に逆らって溺死した。曹娥は十四歳。長江で泣きながら十七日のあいだ亡骸を探し続けたが、見つからず、とうとう長江に身投げして死んだ。県令度尚が曹娥を道端に葬り、魏朗に碑文を書かせたが、まだ完成しないうちに、邯鄲淳にも作るよう命じた。魏朗は邯鄲淳の文を見ると、自分の作品を破り捨てた。こうして邯鄲淳の文章が石碑に刻まれることになった。それが蔡邕の「黄絹幼婦外孫韲臼」と題したものである。またにも叔先雄なる女子があり、父の泥和が県の功曹として檄文を奉じて郡へ赴いたとき、溺死して亡骸が行方知れずになった。叔先雄は溺れた場所を探りあて、川に身を投げて死んだ。その弟が、六日後に父と一緒に出ていこうと叔先雄から告げられる夢を見た。当日になると、夢見た通り、二人の亡骸は同時に長江に浮かび上がった。郡県はこれを表彰し、その姿形を絵に描いて肖像画を作った。二人の行動は全く同じであり、また『列女伝』には同時に載せられている。しかも曹娥が父の亡骸を見つけられなかったのに対し、叔先雄は父の亡骸とともに現れたのだから、より一層の霊異であると言えよう。ところが曹娥は現在まで人口に膾炙する一方、叔先雄はその姓名を知る者とてない。一碑文の力でないとすれば、伝わるかどうかというのは天命ではなかろうか。

76 召聘による任用では資格を問わない

漢制,察挙孝廉・茂才等帰尚書,及光禄勲選用者,多循資格,其有徳隆望重由朝廷召用者,則布衣便可践台輔之位.如陳寔官僅太邱長,家居後,朝廷毎三公欠,議者多帰之.太尉楊賜,司徒陳耽,毎以寔未登大位而身先之,常以自愧.(寔伝)鄭康成績学著名,公車徴為大司農,給安車一乗,所過長吏送迎.(康成伝)荀爽有盛名,董卓秉政,徴之,初拝平原相,途次又拝光禄勲,視事三日,策拝司空,自布衣至三公,凡九十五日.(張璠漢紀)

77 無断退官を禁止しない

賈琮為冀州刺史,有司有贓過者,望風解印綬去.(琮伝)朱穆為冀州刺史,令長解印綬去者四十余人,及穆到任,劾奏至有自殺者.(穆伝)李膺為青州刺史,有威政,属城聞風,皆自引去.(膺伝)范滂為清詔使,案察貪吏,守令自知贓污,皆望風解印綬.(滂伝)陳寔為太邱長,以沛相賦斂無法,乃解印綬去.(寔伝)宗慈為修武令,太守貪賄,慈遂棄官去.(慈伝)案令・長・丞・尉,各有官守,何以欲去即去?拠左雄疏云:「今之墨綬,拝爵王廷,而斉于匹(庶)[竪],(動輙)[叛命]避負,非所以崇憲明理也.請自今守相長吏,非父母喪,不得去官.其不遵法禁者,錮之終身.若被劾奏,逃亡不就法者,家属徙辺,以懲其後.」(雄伝)黄巾賊起,詔諸府掾属不得妄有去就.(范冉伝)可見平時朝廷無禁人擅去官之令,聴其自来自去而不追問也,法網亦太疏矣.

78 財産を没収して租税を補塡する

権臣強藩,積貲無芸,或親行掊克,或広収苞苴,無一非出自民財.漢桓帝誅梁冀,収其財貨,県官斥売三十余万万,以充官府用,減天下租税之半.(冀伝)唐李錡反,兵敗伏誅,朝廷将輦其所没家財送京,李絳奏言,錡家財皆刻剥六州之人所得,不如賜本道,代貧下戸今年租税,憲宗従之.(李絳伝)以横取於民者仍還之民,此法最善.憲宗英主,其説易従,不謂桓帝先已行之也.後世有似此者,籍没貪吏之財,以償民欠,籍没権要之財,以補官虧,亦裒益之一術也.(明臣王宗茂劾厳嵩,請籍其家,以充辺軍之費.)

79 文字を売買する

陽球奏罷鴻都文学画像疏曰:「鴻都文学楽松・江覧等三十二人,皆出於微賤,附託権豪,或献賦一篇,或鳥篆盈簡,而位升郎中,形図丹青,亦有筆点牘,辞不弁心,仮手請字,妖偽百品,是以有識掩口.臣聞図像之設,以昭勧戒,未有豎子小人,詐作文頌,而妄竊天官,垂像図素者也.」可見曳白之徒,倩買文字,僥倖仕進,漢時已然,毋怪後世士風之愈趨愈下也.

80 党錮の禁の始まり

81 後漢の宦官

82 宦官による民衆迫害

83 漢末の臣下たちは宦官を弾劾した

84 宦官にも賢者がいた