利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

劉弘

劉弘和季といい、沛国の人である。太安年間(三〇二~三〇四)に張昌が反乱を起こしたとき、使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任して張昌を討伐、これを斬首して、その軍勢を残らず降服させた。そのとき荊州では太守らの欠員が多く、劉弘が(現地の判断による)補任を要請したところ、帝はそれを聞き入れた。劉弘はそこで功績や徳行を調べ、才能に合わせて補任を行ったので、たいそう論者の称賛を博した。農業養蚕を推進し、刑罰を緩やかにして賦役を減らしたところ、毎年が豊作であったので百姓たちは喜び、彼を愛した。

劉弘はある日の夜中に目を覚まし、時を告げる兵士が城壁の上で大変苦しげな声で嘆いているのを聞いた。その者を呼びよせて理由を訊ねると、兵士は六十歳を過ぎて病弱で、跡継ぎもいないという。劉弘は彼を哀れに思い、刑務官を叱責すると、なめし革の帯と綿の着物、二枚重ねの帽子を支給し、(時を告げる当番の者たちに)交代で使用させることにした。これまでの規則では、峴山・万山の谷川で百姓たちが魚を捕ることは許可されていなかった。劉弘は命令を下して言った。「『礼記』に名山大沢に封侯しないとあるのは、その利益を共有するためである。いま公私がともに独占しており、百姓たちは手を着く場所さえ与えられない。どういう理屈があるのか?速やかにこの規定を改正せよ!」

そのころ天下は大いに混乱していたが、劉弘は一人で長江・漢水流域を監督し、威光は南方に行き渡った。なにか変化の起こるたびに直筆の手紙を太守やに送り、親密丁寧にしたので、人々はみな感激して争うように彼のもとへ駆けつけた。みな「劉公(劉弘)から一通の手紙を受け取ることは、十人の部従事に勝る」と言った。襄陽で卒去すると、男女ともに肉親を失ったかのように悲しみ悼んだ。父老たちの劉弘を追慕する有様は、召伯を詠った『甘棠』でさえもこれ以上ではないだろう。

(劉弘は)生まれつきのお香好きで、廁へ立つときはいつも香炉を設置していた。主簿張坦が「人々は公を俗人だと評判しておりますが、全く相違ないですなあ」と言うと、和季(劉弘)は「荀令君荀彧)が他人の家を訪れたとき、(彼の)座った席では三日も香り続けたという。私は荀令君ほどであろうか?君はどうして私の趣味を憎むのかね」と言った。張坦は「古い時代、美しい婦人(西施)がおりまして、病気のため心臓を押さえて眉をひそめますと、それを見た人々はみな愛らしく思ったものでした。隣家の不細工な女がそれを真似しますと、それを見た人々はとっさに逃げ出しました。公は部下を逃走させるおつもりなのですか?」と言った。

季和(和季)は大笑いして、それから張坦を認めるようになったのである。

皮初は劉弘の牙門将である。劉弘が張昌を討伐したとき、皮初は都戦帥を務め、忠勇は全軍でも随一であった。漢沔(漢水)が鎮静化したのは皮初らの功績なのである。劉弘は皮初を襄陽太守にされたいと上表したが、朝廷では皮初に功績があるとはいえ、襄陽は名のある郡であるから(皮初では分不相応である)と考え、そこで劉弘の女婿である夏侯陟を太守にしようとした。劉弘は「もし姻戚親類だけを任用するとしても荊州は十郡あるのだ。どうやって十人の女婿を手に入れられようか?」と言い、そこで夏侯陟とは姻戚関係にあるので(公正な目で)監督することができないし、皮初の勲功は報われてしかるべきですと上表した。詔勅によりそれが許可された。