利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

襄陽耆旧記 巻第五 牧守

胡烈

胡烈武賢という。咸煕元年(二六四)、荊州刺史になり恩恵による教化を施した。壊れた堤防を修理すると、民衆はその成果を頼りにした。石碑の銘に言う。「美しきかな明后雋哲にして惟嶷たり。乾坤陶広周・孔周公・孔子)これなり。わが武は播揚し、威は遐域に振るう。春の陽にし、冬の日の如し。耕す者はを譲り、百姓は豊溢す。ああ、わが胡父(胡烈)、恩恵置き難し。」

羊祜

羊祜叔子という。武帝司馬炎)は討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。

羊祜は山や川を愛し、いつも風景を楽しむために峴山へ行き、酒宴を開いて語り合ったり、詩を詠んだりして、ひねもす飽きることがなかった。あるとき感慨深げにため息を吐き、従事中郎鄒湛らの方へ振り返って「宇宙が誕生して、そしてこの山があり、賢明な名士が来訪してはこの山を登って遠望する。貴卿のような人は多かったんだろうなあ!しかし、みんな跡形もなく消えてしまった。悲しいことじゃないか。もし百年後でも知覚があるならば、霊魂になってこの山を登ってみたいものだ」と言った。鄒湛は言った。「公の恩徳は四海の頂点、道義は先哲を継承され、声望は立派でいらっしゃいます。必ずやこの山とともに語り継がれることでしょう。鄒湛ごとき弱輩者は、公のおっしゃる通りになるだけです。」

羊祜が卒去したのち、襄陽の百姓たちは羊祜が日ごろ楽しんでいた場所に石碑と廟所を建て、季節ごとに供物を捧げて祭った。その石碑を見れば涙を流さぬ者はなく、そのことから杜預は「堕涙碑」と名付けた。碑文は李安が書いたものである。李安は別名を李興といった。むかし荊州諸葛亮旧宅にを書いたが、その文章も立派だったし、羊公(羊祜)が卒去したとき、その碑文も巧妙だった。当時の人々はようやくその才能に感服したのであった。

楊世安記室・主簿の職務に当たることになり(?)、羊祜の石碑を読み終えると、長いため息を吐いて「大丈夫たる者、名声を樹立することを心がけねばなあ。は聡明でないが、自分だけが考えないわけにはいかないぞ」と言い、それからは政務に励み、職務では寛容さと簡略さを心がけた。荊州の人々は羊祜の名を避け、(「戸」が「祜」と同音なので)家屋はみな「門」と呼び、戸曹は「辞曹」と改称した。

杜預

杜預元凱という。鎮南大将軍都督荊州諸軍事となった。学問所を設立したので、江漢長江・漢水)の人々はその恩徳に懐き、教化は万里四方に広まった。召信臣の遺跡を改修して滍水・淯水などの川を堰きとめ、田地一万頃余りを潤し、石柱に文字を刻んで境界を切り、しっかりと持ち分を定めて公私の取り分は平等とした。人々は彼を頼りにして「杜父」と呼んだ。もともとの水路ではただ沔漢江陵まで千数百里にわたり通じていただけで、北方に通ずる水路はなかった。また巴丘湖沅水・湘水の合流点になっていて、表は川、裏は山であり、実際には要害として荊州蛮の拠り所になっていた。、杜預はそこで楊口を開削し、城下の水路から巴陵まで一千里余りを通し、内側では長江の守りを引き込み、外側では零・桂零陵・桂陽)への運漕を通じさせた。南方の人々をそれを「後の世に叛乱が起こらないのは杜翁のおかげ」と歌っている。

杜預は後世に名を残すことを願い、いつも「高い崖は谷に変わり、深い谷は岡に変わるだろう」と言っていて、二つの石碑を作って自分の功績を記し、一方を万山の麓(の川)に沈め、一方を峴山の麓(の川)に沈めた。そして「今後、岡になったり谷になったりせぬとも限らないぞ!」と言った。こうして沈めた石碑は、現在でも天気のよい日、いつも水中で漁師に見守られている。

山簡

山簡季倫といい、司徒山濤の子である。永嘉三年(三〇九)、出向して征南将軍都督荊・湘・交・広四州諸軍事仮節となり、襄陽に駐屯した。

そのころ四方で騒乱が起こって天下は崩壊し、王朝の威信は振るわず、朝廷でも在野でも危惧する者があった。(しかし)山簡は年が暮れるまで優雅に遊び暮らし、ひたすら酒に溺れ続けた。氏一族は荊州の豪族であり、立派な庭園や池を所有していた。山簡は遊行に出かけるとなると、その池の側へ行くことが多く、酒宴を開いてはすぐに酔っぱらって「これぞ高陽池だ!」と言った。子供たちはこう歌った。「山公どちらへお出かけかしら?高陽池へと行くんだよ。日暮れにゃ潰れて車で帰り、泥酔していて訳も分からぬ。ときには乗馬もやるけれど、白い頭巾を逆さにかぶる。鞭を振りふり葛強に『幷州どのはいかが?』とお訊ね。」葛強は幷州に住まいする山簡のお気に入りの部将である。

そのころ楽府勤めの楽人たちの多くが沔漢へと避難していた。宴会の日、補佐官のなかに、彼らに演奏させてはと勧める者があったが、山簡は「社稷が傾いているのにお救いすることもできずにいる。(我は)にとっては罪人なのだ。どうして楽しむ余裕などがあるだろう?」と言い、涙を流して怒りをつのらせた。同座した者はみな恥ずかしく思った。

(李重)

劉弘

劉弘和季といい、沛国の人である。太安年間(三〇二~三〇四)に張昌が反乱を起こしたとき、使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任して張昌を討伐、これを斬首して、その軍勢を残らず降服させた。そのとき荊州では太守らの欠員が多く、劉弘が(現地の判断による)補任を要請したところ、帝はそれを聞き入れた。劉弘はそこで功績や徳行を調べ、才能に合わせて補任を行ったので、たいそう論者の称賛を博した。農業養蚕を推進し、刑罰を緩やかにして賦役を減らしたところ、毎年が豊作であったので百姓たちは喜び、彼を愛した。

劉弘はある日の夜中に目を覚まし、時を告げる兵士が城壁の上で大変苦しげな声で嘆いているのを聞いた。その者を呼びよせて理由を訊ねると、兵士は六十歳を過ぎて病弱で、跡継ぎもいないという。劉弘は彼を哀れに思い、刑務官を叱責すると、なめし革の帯と綿の着物、二枚重ねの帽子を支給し、(時を告げる当番の者たちに)交代で使用させることにした。これまでの規則では、峴山・万山の谷川で百姓たちが魚を捕ることは許可されていなかった。劉弘は命令を下して言った。「『礼記』に名山大沢に封侯しないとあるのは、その利益を共有するためである。いま公私がともに独占しており、百姓たちは手を着く場所さえ与えられない。どういう理屈があるのか?速やかにこの規定を改正せよ!」

そのころ天下は大いに混乱していたが、劉弘は一人で長江・漢水流域を監督し、威光は南方に行き渡った。なにか変化の起こるたびに直筆の手紙を太守やに送り、親密丁寧にしたので、人々はみな感激して争うように彼のもとへ駆けつけた。みな「劉公(劉弘)から一通の手紙を受け取ることは、十人の部従事に勝る」と言った。襄陽で卒去すると、男女ともに肉親を失ったかのように悲しみ悼んだ。父老たちの劉弘を追慕する有様は、召伯を詠った『甘棠』でさえもこれ以上ではないだろう。

(劉弘は)生まれつきのお香好きで、廁へ立つときはいつも香炉を設置していた。主簿張坦が「人々は公を俗人だと評判しておりますが、全く相違ないですなあ」と言うと、和季(劉弘)は「荀令君荀彧)が他人の家を訪れたとき、(彼の)座った席では三日も香り続けたという。私は荀令君ほどであろうか?君はどうして私の趣味を憎むのかね」と言った。張坦は「古い時代、美しい婦人(西施)がおりまして、病気のため心臓を押さえて眉をひそめますと、それを見た人々はみな愛らしく思ったものでした。隣家の不細工な女がそれを真似しますと、それを見た人々はとっさに逃げ出しました。公は部下を逃走させるおつもりなのですか?」と言った。

季和(和季)は大笑いして、それから張坦を認めるようになったのである。

皮初は劉弘の牙門将である。劉弘が張昌を討伐したとき、皮初は都戦帥を務め、忠勇は全軍でも随一であった。漢沔(漢水)が鎮静化したのは皮初らの功績なのである。劉弘は皮初を襄陽太守にされたいと上表したが、朝廷では皮初に功績があるとはいえ、襄陽は名のある郡であるから(皮初では分不相応である)と考え、そこで劉弘の女婿である夏侯陟を太守にしようとした。劉弘は「もし姻戚親類だけを任用するとしても荊州は十郡あるのだ。どうやって十人の女婿を手に入れられようか?」と言い、そこで夏侯陟とは姻戚関係にあるので(公正な目で)監督することができないし、皮初の勲功は報われてしかるべきですと上表した。詔勅によりそれが許可された。

桓宣

桓宣,監沔中諸軍事。石勒荊州刺史郭敬戍襄陽。陶侃使其子与宣倶攻樊城,抜之。敬惧,遁走。宣遂平襄陽,侃使宣鎮之。招懐初附,勧課農桑,簡刑罰,略威儀,或載鋤耒於軺軒,或親芸獲於隴畝。十余年間,綏撫僑寓,甚有称績。

鄧遐

鄧遐,字応遠。勇力絶人,気蓋当時。時人方之樊噲。治郡号為名将。

為襄陽太守,城北沔水中有蛟,常為人害,遐遂抜剣入水。蛟繞其足,遐揮剣截蛟,流血,江水為之倶赤。因名曰“斬蛟渚”,亦謂之“斬蛟津”。

朱序

朱序,字次倫,義陽人。(寧康)[太元]初,拝使持節・監沔中諸軍事・南中郎将,鎮襄陽。

(符)[苻]丕囲序,序母韓自登城覆行。謂西北角当先受弊,領百余婢幷城中女丁,於其角斜築二十余丈。賊攻西北,潰,便固新城。襄人謂之“夫人城”。

序累戦破賊。守備少懈,序陥於苻堅。後堅敗,得帰。拝征虜将軍,復還襄陽。太元十八年卒。