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原著作者:【むじん書院】

襄陽耆旧記 巻第二 人物

馬良

馬良は字を季常といい、襄陽宜城の人である。兄弟五人は揃って才能名声があったが、当時の人々は彼らについて「馬氏の五常のうち、白眉が最良である」と語っていた。馬良の眉には白い毛が混じっていたので、こう呼んだのである。

先主(劉備)は荊州を領したとき、馬良を召し寄せて従事とした。諸葛亮が蜀に入ると、馬良は手紙を送って言った。「雒城が陥落したのは、ほとんど天の賜り物と言えましょう。兄上は時期に呼応して治世を補佐され、偉業に従って国家を輝かせておられ、月の満ちゆく兆しが現れております。そもそも変化するにあたって用いるものは平素の配慮、審議するにあたって貴ぶものは明察の徹底であり、才能を選んでこそ、その時代に適合することができるのです。もし光を和らげて遠方を喜ばせ、恩徳を天地に馳せたなら、時代は命令に従い、世間は道義に服するでありましょう。神妙なる音楽に等しくなり、鄭・衛の音楽は正され、利益は事業に統合され、倫理は逸脱することがなくなりましょう。それこそが管弦の極致であり、(伯)牙・(師)曠の調べなのでございます。鍾期でない者とて、(節を)叩いて賞賛せずにおれましょうか!」諸葛亮はそれを聞いて、分別ある言葉だと思い、彼を深く尊重した。

先主は馬良を召し寄せて左将軍掾とした。のちに使者として呉へと東行させ、孫権と友好関係を結ばせた。馬良は諸葛亮に告げた。「ただいま国家のご命令を奉じて両家を和睦させることになりました。馬良を孫将軍にご紹介くだされば幸いに存じまするが、よろしゅうございますか?」諸葛亮が言った。「君が試しに自分で文章を書いてみなさい。」馬良はすぐさま草稿を作った。「わが君は掾の馬良を遣し、挨拶を通じて友好を継がせられ、昆吾・豕韋の功績を継承したいお考えです。この者はよき人物であり、荊楚の英才であります。瞬発する華やかさは控えめですが、貫徹する美しさを持っております。願わくば、御心を枉げてお受けくださり、使命を授かった者をお慰めくださいますよう。」

先主は尊号を称すると、(馬良を)侍中とした。東行して呉を征討するに際し、馬良を武陵に送り込んで、五渓の蛮夷を招き入れさせた。蛮夷の渠帥はみな官印・称号を拝受し、みな指図に従った。ちょうどそのとき先主が夷陵で敗北し、馬良もまた殺害された。

子の馬秉は騎都尉になった。馬良の弟が馬謖である。

馬謖

馬謖,字幼常。以荊州従事入蜀,歴緜竹・成都令・越巂太守。長八尺,才器過人,善与人交,好論軍旅。[諸葛]亮深[加]器異。先主臨(薨)[崩],謂亮曰:“馬謖言過其実,不可大用也。”亮猶謂不然,以為参軍;毎引見談論,自昼達夜。

建興三年,亮征南中。謖送之数十里,亮語曰:“雖共謀之歴年,今可更恵良規。”謖曰:“南中恃其険遠,不服久矣。雖今日破之,明日復反耳。今公方傾国北伐,以与強賊,彼知国勢内虚,其叛亦速。若尽殄遺類,以除後患,既非仁者之情,且又不可倉卒也。夫用兵之道,攻心為上,攻城為下,心戦為上,兵戦為下,願公服其心而已。”亮納其策,赦孟獲以服南方。[故]終亮之世,南方不敢復反。

建興六年,亮出軍向祁山,使謖統大衆向前。為魏将張郃所破,坐此下獄死,時年三十九。謖臨終,与亮書曰:“明公視謖猶子,謖視明公猶父,願深推殛鯀(興禹)[於羽]之義,使生平之交不虧於此。謖雖死,無恨於黄壌也。”于時,十万之衆為之垂泣。亮自臨祭,待其遺孤若平生。

蔣琬後詣漢中,謂亮曰:“昔楚殺得臣,然後文公喜可知也。天下未定,而戮智計之士,豈不惜乎?”亮流涕曰:“孫武所以能制勝於天下者,用法明也。是以楊干乱法,魏絳戮其僕。今四海分裂,交兵方始,若復廃法,何用討賊邪!”

楊顒

楊顒,字子昭,襄陽人也。[入蜀]為[巴郡太守・]丞相[諸葛]亮主簿。

亮[嘗]自校簿書。顒直入諫曰:“為治有区分,則上下不可相侵。請為明公以家主喩之:今有人於此,使奴執耕種,婢主炊爨,鶏主(引)[司]晨,犬主吠盗,牛負重載,馬渉遠路,私業無曠,所求皆足,雍容高拱,飲食而已。忽一旦尽欲[以]身親其役,不更付任,労其体力,為此砕務,形疲神耗,終無一成。豈其智不如奴婢・鶏犬哉?失為家主之法也。故古人称坐而論道(為)[謂之]三公,作而行之謂之卿大夫。丙吉不問横尸而憂牛喘;陳平不肯対銭穀[之数],云自有主者。彼誠達於(徳)[位]分之体也。今明公為(理)[治],親自校簿書,流汗竟日,不亦労乎!”亮謝之。

後嘗為東曹属,典選挙。

及顒死,亮泣三日,与蔣琬書曰:“天奪吾楊顒,則朝中(多)[少]損益矣。”

向朗

向朗,字巨達,襄陽宜城人。少師事司馬徳操,与徐元直・韓徳高・龐士元皆親善。劉表以為臨沮長。

表卒,帰先主,為巴西・牂牁・房陵太守。及後主立,為歩兵校尉・丞相長史。

朗素与馬謖善,謖(既)[逃]亡,(明)[朗]知情不挙,遂因之免官。[丞相]亮卒後,徙左将軍;追論前功,封顕明亭侯。

朗少時雖渉猎文学,然不治素撿,以吏能見称。自去長史,優游無事垂(三)[二]十年,乃更潜心典籍,孜孜不倦。年逾八十,猶手自校書,刊定謬誤,積聚篇巻,於時見称。上自執政,下至童冠,皆敬重焉。

延(禧)[煕]十年卒,遺言戒子曰:“《伝》称‘師克在和不在衆’。此言天地和則万物生,君臣和則国家平,九族和則動得所求,静得所安。是以聖人守和,以存以亡也。吾,[楚国之小子耳,而]早喪所天,為二兄所誘養,使其性行不随禄利以堕。今唯貧耳,貧非人之患也,唯和為貴。汝其勉之!”

向条

向条文豹といい、やはり博学多識であった。父の爵位を継いで、景耀年間(二五八~二六三)、御史中丞になった。代に入ると江陽太守南中軍司馬となる。

向寵

向寵先主劉備)の時代、牙門将になった。秭帰の敗北のおり、ただ向寵の陣営だけが完璧であった。のちに中部督となり、宿営の兵をつかさどる。

諸葛亮は北方へ出陣するに際し、上表して述べた。「将軍の向寵は、日ごろからの行いが従順公正であり、軍事に通暁しております。むかし試験的に任用してみたところ、先帝(劉備)は彼を有能であるとお褒めになりました。それゆえ衆議に従い、向寵をに推挙したのでございます。愚考いたしまするに、陣営の事柄は、一切、彼にお訊ねくだされば、きっとうまく陣中を和睦させつつ、優劣に従って然るべき位置に就けるでありましょう。」

弟は向充である。

向充

向充,歴射声校尉・尚書。

諸葛亮初亡,所在各求為立廟,朝議以礼秩不聴,百姓遂因時節私祭之於道陌上。言事者或以為可聴立廟於成都者,後主不従。充時為中書郎,与(部)[歩]兵校尉習隆[等]共上表曰:“臣聞周人懐召伯之徳,甘棠為之不伐;越王思范蠡之功,鋳金以存其像。自漢興以来,小善小徳而図形立廟者多矣。況亮徳范遐邇,勛蓋季世,(興)王室之不壊,実斯人是頼。而烝嘗止於私門,廟像闕而莫立,使百姓巷祭,戎夷野祀,非所以存徳念功,述追在昔[者]也。今若尽順民心,則瀆而無典,建之京師,又逼宗廟,此聖懐所以惟疑也。臣愚以[為]宜因近其墓,立之於沔陽,(使所親属)以時賜祭。凡其[親属・](臣)故吏欲奉祠者,皆限至廟,断其私祀,以崇王礼。”於是始従之。

魏咸煕元年六月,鎮西将軍衛瓘至成都,得璧・玉印各一枚,[文]似“成信”字。魏人宣示百官,蔵(之)於相[国]府。充聞之曰:“吾聞譙周之言:[昔]晋穆侯名太子曰‘仇’,弟曰‘成師’。[師服曰:]始兆乱矣,兄其替乎!後果如言。先帝諱‘備’,其訓具也;安楽公諱‘禅’,其訓授也。如言劉已具矣,当授与人也。今中撫軍名‘炎’,而漢年極於‘炎興’;瑞出成都,而蔵之於相[国]府。此殆天意也。”[是歳,拝充為梓潼太守。]明年十二月,晋武即尊位,“炎興”於是応焉。孫盛曰:昔公孫述自以起成都,号曰“成(氏)”,二玉之文,殆述所作(乎)[也]。

廖化

廖化はもとの名をといい、中盧の人である。代々、沔南地方では筆頭の名族であった。

前将軍関羽主簿であったが、敗戦のおりの手に落ちた。先主劉備)のもとへ行きたく思い、死んだと嘘をつき、それから老母を連れて昼夜かまわず西方へ行き、秭帰にいた先主のもとへ駆け込んだ。先主は大喜びして、彼を宜都太守とした。

のちに諸葛亮参軍となり、次第に昇進して右車騎将軍・仮節・領幷州刺史まで昇り、中郷侯に封ぜられた。果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等、宗預より右であった。

咸煕元年(二六四)春、内地の洛陽へ移住することになったが、道中で病気のため卒去した。

董恢

董恢休緒といい、襄陽の人である。先主劉備)に仕えて宣信中郎となった。

費禕への使者に立ったとき、董恢がその副使を務めた。ある日、孫権が泥酔して訊ねた。「楊儀・魏延は牧童のごとき小人だ。一時的な状況によって鶏か犬くらいの役には立つこともあったのだろうが、そうした事態が収束してもなお任用しつづけた以上、もう軽んずるわけにはいかなくなる。もし諸葛亮がいなくなれば、かならず災厄を起こすことになろう。諸君はぼやぼやしているものだから、それに対して予防することすら知らない。それでも『よき手立てを伝える』と言えるのだろうか?」費禕はびっくりして四方を振り返るばかりで、返答することができなかった。董恢が言った。「楊儀と魏延の不仲は私憤より起こったもので、黥布・韓信のような御しがたい心を持っているわけではありません。ただいま強敵を退治して中華を一統しようとしているところですが、功績は才能によって成り、事業は才能によって広められるのです。彼らを捨ておいて任用せず、それによって後日の患いを防ぐというのは、ちょうど風や波の起こるに備えて舟の楫をあらかじめ捨てるようなもので、先々を見通した計略ではありません。」孫権は大声で笑い、楽しんだ。諸葛亮はそれを聞いて、機微に通じた言葉であると思い、(董恢の)帰国から三日もせぬうちに召し寄せて丞相府属とし、巴郡太守に昇進させた。

それより先のこと、侍中董允らは遠出して酒宴を開こうと約束していたが、董恢が董允のもとへ挨拶にやってくると、すぐさま(馬車から)副馬を外させた。

張悌

張悌,字巨先,襄陽人。少有名理。孫休時,為屯騎校尉。孫晧時,為丞相,封山都侯。

魏伐蜀,呉人問悌曰:“司馬氏得政以来,大難屢作,智力雖豊,而百姓未服也。今又竭其資力,遠征巴蜀,兵労民疲,而不知恤,敗於不暇,何以能済?昔夫差伐斉,非不克勝,所以危亡,不憂其本也。況彼之争地乎!”悌曰:“不然。曹操雖功蓋華夏,威震四海,崇詐杖術,征伐無已,民畏其威,而不懐其徳也。丕・叡承之,系以惨虐,内興宮室,外惧雄豪,東西馳駆,無歳獲安,彼之失民,為日久矣。司馬懿父子自握其柄,累有大功,除其煩苛而布其平恵,為之謀主而救其疾,民心帰之,亦已久矣。故淮南(之)[三]叛,而腹心不擾,曹髦之死,四方不動,摧堅敵如(朽)[折]枯,蕩異同如反掌,任賢使能,各尽其心,非智勇兼人,孰能如之?其威武張矣,本根固矣,群情服矣,奸計立矣。今蜀閹宦専朝,国無政令,而玩戎黷武,民労卒弊,竟於外利,不修守備。彼強弱不同,智算亦勝,因危而伐,殆其克乎!若其不克,不過無功,終無退北之憂・覆軍之慮也,何以不可哉?昔楚剣利而秦昭惧,孟明用而晋人憂,彼之得志,故我之大患也。”呉人笑其言,而蜀果降於魏。

晋来伐呉,晧使悌督沈瑩・諸葛靚率軍三万,渡江逆之。至牛渚,瑩曰:“晋治水軍於蜀久矣,今傾国大挙,万里斉力,必悉益州之衆浮江而下。我上流諸軍,無有戎備,名将皆死,幼少当任,恐辺江諸城,尽莫能御也。晋之水軍,必至於此矣!宜畜衆力,待来一戦,若勝之日,江西自清,上方雖壊,可還取之。今渡江(力)[逆]戦,勝不可保,如或摧喪,則大事去矣。”悌曰:“呉之将亡,賢愚所知,非今日也。吾恐蜀兵来至此,衆心必駭惧,不可復整。今宜渡江,可用決戦力争。如其(喪敗)[敗喪],則同死社稷,無所復恨;若其克勝,則北敵奔走,兵勢万倍便当乗威南上,逆之中道,不憂不破也。若如子計,恐行散尽,相与坐待敵至,君臣倶降,無復一人死難者,不亦辱乎!”

遂渡江戦,呉軍大敗。諸葛靚与五・六百人退走,使過迎悌。悌不肯去,靚自往牽之,謂曰:“(且夫)[巨先],天下存亡有大数在,豈卿一人所支,如何故自取死[為]?”悌垂泣曰:“仲思,今日是我死日也。且我作児童時,便為(君)[卿]家丞相所抜,常恐不得其死,負名賢知顧。今以身殉社稷,復可遁邪?莫牽(拽我)[曳之如是]。”靚(収涙)[流涕]放之;去百余歩,已見為晋軍所殺。

李衡

李衡,字叔平,襄陽卒家子也。漢末入呉,為武昌庶民。聞羊道有人物之鑑,往干之。道曰:“多事之世尚書劇曹郎才也。”習竺以女英習配之。

是時,校(書郎)[事]呂壱操弄権柄,大臣畏逼,莫有敢言。道曰:“非李衡無能困之者。”遂共薦為郎。権引見,衡口陳壱奸短数千言,権有愧色。数月,壱被誅,而衡大見顕擢。

後嘗為諸葛恪司馬,干恪府事。恪被誅,求為丹楊太守。時孫休在郡治,衡数以法繩之。英習毎諫曰:“賤而凌貴,疏而間親,取禍之道!”衡不従。会孫亮廃,休立,衡従門入,英習逆問曰:“何故有惧色?琅琊王立耶?”衡曰:“然。不用卿言,已至如此。”遂(曰)[白]其家客欲奔魏。英習固諫曰:“不可!君本庶民耳,先(君)[帝]相抜過重。既数作無礼,而不遠慮,又復逆自猜嫌,逃叛求活,以此北帰,何面目見中国人乎?”衡曰:“計何可出?”英習曰:“琅琊王素好善慕名,博学深広,多見以徳報怨之義;今初立,方欲自達於天下,終不以私嫌殺君明矣。君意自不了者,可自囚詣獄,表列前失,顕求其罪。如此,乃当反見優饒,非[但]直活而已也。”衡従之。果下令曰:“丹(陽)[楊]太守李衡,以往事之嫌,自拘有司。夫射鉤・斬袪,在古為忠。遣衡還郡,勿令自疑。”加威遠将軍,授以棨戟。

衡毎欲治家事,英習不聴。後密遣客十人,往武陵龍陽泛洲上作宅,種[柑]橘千株。臨死,勅児曰:“汝母毎(怒)[悪]我治家事,故窮如是。然吾州里有千頭木奴,不責汝[衣]食,歳上[一]匹絹,亦当足用爾。”衡既亡,後二十余日,児以白[母],英習曰:“此当是種柑[橘]也。汝家失十客(来)七・八年,必汝父遣為宅。汝父恒称太史公言:‘江陵千樹橘,当封君家。’吾答云:‘士患無徳義,不患不富。若貴而能貧,方好爾。用此何為!’”呉末,衡柑[橘]成,歳得絹数千匹,家道富足。晋咸康中,其宅(上)[址]枯(藁)[樹]猶在。[武陵人以衡家武陵,遂記録云是其郡人,非也。]

胡宜

胡宜叔方といい、江夏・南郡太守となった。清潔にして節義があり、妻は絹織物を身に着けなかった。朝ではその清廉さを天下の手本とした。

王昌 昌母

王昌公伯といい、東平国の散騎常侍となった。早くに卒去した。妻は任城王曹子文曹彰)のである。王昌の弟王式は字を公儀といい、度遼将軍長史となった。妻は尚書令桓階の女である。

王昌の母は聡明で、礼儀作法に厳しかった。二人の嫁たちが門に入るときも、みな衣服を着替えてから車を降りさせたほどだから、大それた贅沢などはできなかった。のちに桓階の子桓嘉公主(皇女)を降嫁された。公主が金糸の着物で王式の妻に会いに行こうとすると、桓嘉がそれを引き止めて言った。「あそこの婆さんは怖いんだ。許してくれないだろうから、そんな格好はするなよ!あっちの家法に触れずにはおられまい。」

羅憲

羅憲,字令則,襄陽人也。父蒙,避乱於蜀,官至広漢太守。

憲少以才学[知]名,年十三能属文。師事譙周,周[門人]称為子貢。性方亮厳整,待士無倦,軽財好施,不営産業。後主立太子,為太子舎人,遷庶子・尚書吏部郎。以宣信校尉再使於呉,呉人称(羨)[美]焉。時黄皓預政,衆多附之,憲独与不同;皓恚,左遷巴東太守。時右[大]将軍閻宇都督巴東(為領軍),後主拝憲[領軍]為宇副弐。

魏之伐蜀,召宇西還,留二(干)[千]人,令憲守永安城。尋聞成都敗,城中擾動,辺江長吏皆棄城走,憲斬称成都乱者一人,百姓乃安。得後主委質問至,乃帥所統臨於都亭三日。呉聞蜀敗,起兵西上,外托救援,内欲襲憲。憲曰:“本朝傾覆,呉為唇歯,不恤我難,而徼其利,背盟違約。且漢已亡,呉何得久,吾寧能為呉降虜乎!”於是繕甲完聚,告誓将士,厲以節義,莫不用命。呉聞鍾・鄧敗,百城無主,有兼蜀之志;而巴東固守,兵不得過。呉使歩協率衆而西。憲臨江拒射,不能御;遣参軍楊宗突囲北出,告急安東将軍陳騫,又送文武印綬詣晋王。協攻城,憲出与戦,大破其軍。孫休怒,復遣陸抗等率三万人増憲之囲。被攻凡六月日,而救援不到,城中疾疫大半。或勧南出牂牁,北奔上庸,可以保全。憲曰:“夫為人主,百姓所仰,危不能安,急而棄之,君子不為也。畢命於此矣!”陳騫言於晋王,遣荊州刺史胡烈救憲,抗等引退。晋王即委前任,拝憲陵江将軍,封万年亭侯。会武陵四県挙衆叛呉,以憲為武陵太守・巴東監軍。

泰始元年,改封西鄂県侯。憲遣妻子居洛陽,武帝以其子襲為給事中。三年冬,入朝,進位冠軍将軍・仮節。四年三月,従帝宴於華林園,詔問蜀大臣子弟後,問先輩宜時叙用者。憲薦蜀郡常忌・杜軫・寿良,巴西陳寿,南郡高軌,(高)[南]陽呂(稚)[雅]・許国,江夏費恭,琅琊諸葛京,汝南陳裕。即皆叙用,咸顕於世。憲還,襲取呉之巫城,因上伐呉之策。六年薨,贈安南将軍,謚曰烈侯。

子襲,以陵江将軍領部曲,早卒,追贈広漢太守。襲子徽,順陽内史,永嘉五年為王如所殺。兄子尚。

羅尚

羅尚太康年間(二八〇~二九〇)の末期、(尚書右丞となった。そのころ、左丞が職務上のことで武帝司馬炎)の機嫌を損ねたため、武帝は激怒し、(左丞を)投獄して厳罰に処そうとした。その事件が羅尚まで及び、こうして羅尚は百叩きの刑を受けるはめになった。当時の議論では(彼が言い逃れをしなかったことが)立派なことだとされた。

のちに平西将軍・益州刺史になった。そのころ、李特で挙兵した。羅尚は貪欲で決断力がなく、(彼が)任用したのはその職務に相応しい人物でなく、ついに大敗するにいたった。蜀の人々は租税の取り立てにたえられず、数万もの人々が一斉に太傅・東海王司馬越)のところへ行って訴えた。「羅尚の愛するのは悪党でなければおべっか使い、羅尚の憎むのは忠臣でなければ正直者、財産は魯・衛猗頓・子貢)に匹敵し、門前に市をなす有様です。虎か狼のような貪欲さは、とどまるところを知りません。」また童謡でも、「蜀の賊ならまだましだ。羅尚はわれらを殺しちまう。平西将軍だというに、かえって悩みの種になる!」李特が成都において羅尚を攻撃してきたので、羅尚はこれを打ち破り、李特を斬った。李特の子李雄郫城において帝号を僭称した。羅尚が卒去すると、李雄はついに蜀の地を占拠したのである。

蒯欽

蒯欽

むかし恵帝司馬衷)が即位したとき、子供たちが童謡を歌って言った。「二つのは地に落ちて、哀しきことかな秋の蘭、を戻すよ街郵に、しまいは人に嘆かれる。」また河内郡の県に気違いじみた者がいて、このような字句を書いた。「光光たり文長、戟をもってとなす。毒薬すなわち行われ、刃かえって自ら傷す。」(楊駿文長の弟の)楊済が蒯欽に訊ねると、蒯欽は涙を流しながら言った。「皇太后はを『季蘭』とおっしゃる。二つの火というのは、武皇帝司馬炎)のである『炎』という字のことだ。」これは、武皇帝が崩御したのち太后が権威を失い、大きな災厄と屈辱に見舞われ、最後まで無体な扱いを受けつづけ、帝陵に納められることもなく、あらぬ場所に葬られることを言っているのである。(楊駿の娘である)楊太后が滅ぼされたとき、街郵亭に葬られ、みな彼の言葉通りになった。

蒯欽の大叔父蒯祺の妻は、諸葛孔明諸葛亮)の上の姉である。

習嘏

習嘏臨湘県令征南将軍山簡功曹となった。職務にあたっては要綱を掲げるだけで、(細かな)法の条文にはこだわらなかった。当時の人々は(彼の物腰の柔らかさをみて)「習新婦」と呼んだ。

(鄧攸)

(鄧攸,為呉郡太守,刑政清簡。後称疾去職,百姓数千人留牽攸船,不得進。攸乃少停,夜中発去。呉人歌之曰:“紞如打五鼓,鶏鳴天欲曙。鄧侯挽不留,謝令推不去。”)

黄穆

黄穆,字伯開。博学,養門徒。為山陽太守,有徳政,致甘露・白兎・神雀・白鳩之瑞。弟奐,字仲開,為武陵太守,貪穢無行,[朝廷以黄受代之]。武陵人歌曰:“天有冬夏,人有二黄。”言不同也。

(大中正)

(晋朝以江表始通,人物未悉,使江南別立大中正。)

韓系伯

斉韓系伯,襄陽人也。事父母謹[孝]。

[襄陽土俗,]隣居種桑樹於界上為志,系伯以桑枝蔭妨他地,遷数尺。隣畔随復侵之,系伯輒更改種。隣人慚愧,還所侵地,躬往謝之。

郭祖深

梁郭祖深,襄陽人也。武帝溺情内教,朝政縦弛。祖深輿櫬詣闕上封事。

蔡道貴

斉蔡道貴,襄陽人。拳勇秀出,当時以比関羽・張飛。

魚弘

梁魚弘,襄陽人。白皙,美姿容。凡五為太守,卒。

尹怦

唐尹怦父嗣宗,居喪逾礼。(子)怦侍養弥篤;父卒,廬墓,墓産紫芝。子恭先・孫仁恕,皆有孝行,倶被旌表。於是一門四闕。

辛宣仲

辛宣仲居士截竹為罌以酌酒,曰:“吾性甚愛竹及酒,欲令二物幷耳。”