利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

蔡瑁

蔡瑁徳珪といい、襄陽の人である。性格は豪壮で自負心が強かった。

若いころは魏武曹操)に可愛がられた。劉琮が敗北すると、武帝(同上)は彼の邸宅を訪れて蔡瑁の私室に入り、彼の妻子を呼んでから蔡瑁に言った。「徳珪よ、覚えているかい。むかし一緒に梁孟星梁鵠)に会いに行ったのに孟星が会おうとしなかったことを。今ここに来ているそうだが、何の面目あってに顔を合わせられるんだろうね!」当時、蔡瑁の邸宅は蔡洲のほとりにあり、造りは非常に立派で、四方の垣根はみな青石でもって角を作っていた。婢妾は数百人もおり、(田地は)別に四・五十ヶ所もあった。

漢末は、蔡氏たちの最盛期である。蔡諷は姉を太尉張温に嫁がせ、長女を黄承彦の妻とし、末女を劉景升劉表)の後妻とした。(末女は)蔡瑁の姉にあたる。蔡瓚は字を茂珪といい、国のとなり、蔡琰は字を文珪といい、巴郡太守となった。(彼らは)蔡瑁の従兄弟にあたる。永嘉年間(三〇七~三一三)の末期、彼らの子孫はまだ裕福、一族は大変強力で、一緒に蔡洲のほとりに立て籠もっていたが、草賊の王如に殺されて一族は全滅した。現在ではもう蔡を姓とする者はいなくなっている。

蔡瑁は、劉表の時代に江夏・南郡・章陵太守鎮南大将軍軍師となった。そして魏武の従事中郎司馬長水校尉・漢陽亭侯となる。魏武は旧知として彼を待遇したのであるが、当時の人々には蔑まれた。彼が劉琮を助けて劉琦を貶めたのが咎められたのである。

魏文曹丕)は『典論』を作り、蔡瑁を引き合いに出して結びの言葉とした。「劉表の長子を劉琦と言った。劉表ははじめ彼を愛し、自分に似ていることを褒めていた。しばらくして、末子劉琮のために後妻として蔡氏の姪を娶り、ついに劉琮を愛して劉琦を憎むようになった。蔡瑁および外甥張允はそろって劉表の寵愛を手に入れ、また劉琮とも仲が良かった。劉琮に善行があれば、どんなに些細なことでも必ず知らせ、過失があれば、どんなに深刻なことでも必ず隠した。蔡夫人は室内にいて美挙を称え、張允・蔡瑁は室外にいて人徳を唱えた。愛情と憎悪はそれが基準になり、劉琦はますます遠ざけられていった。そこで江夏太守に出向させて、外部にあって軍事を監督させたのだ。蔡瑁・張允はこっそり彼の過失を探り、事あるごとに彼を貶めた。美点はそれが顕著であっても掩蔽しないことはなく、欠点はそれが微少であっても暴露しないことはなかった。こうしたことから(劉表の劉琦に対する)憤怒の顔色は日ごとに表れ、難詰の言葉は日ごとに届けられた。そして結局、劉琮が後継者になったのである。昔から『受難は仲違いから生まれ、寵愛は近習から出てくる』というのは、このことではないか!穆公の側に人がいなければ、泄柳・申詳はその身の安全を得られなかった。君臣でさえそうした有様だったし、父子もまたこの通りだ!」

のちに劉表が病気にかかったとき、劉琦は慈悲孝行の人だったので、病気見舞いのために帰還した。蔡瑁・張允は、彼を劉表に会わせてしまうと、(劉表が)父子の情を起こし、改めて後事を託すのではないかと恐れ、「将軍は貴君に江夏を鎮撫させて、東方の藩塀となさいました。その責任はいたって重いものです。いま軍勢を放って来られたからには、必ずやお怒りを蒙ることになりましょう。父親としての愛情を傷付けて、その病気を悪化させることは親孝行ではありませぬぞ」と言い、(劉琦を)戸外へ押しとどめて会わせないようにした。劉琦は涙を流しながら立ち去ったが、人々はそれを聞いて痛ましく思った。劉表が卒去すると劉琮が後継者に立ち、侯の印を劉琦に授けた。劉琦は怒って(印を)投げ捨て、葬儀への参列を口実に蔡瑁・張允を討ちはたそうと考えた。ちょうどそのとき官軍が郊外まで迫ったので、劉琮は一州をこぞって降服し、劉琦は江南へと出奔した。

蔡瑁

蔡瑁,字德珪,襄陽人,性豪自喜。

少為魏武所親。劉琮之敗,武帝造其家,入瑁私室,[呼]見其妻﹑子,謂[瑁]曰:“德珪,故憶往昔共見梁孟星,孟星不見人時否?聞今在此,那得(百)[面]目見卿耶!”是時,瑁家在蔡洲上,屋宇甚好,四墻皆以靑石結角。婢妾數百人,別業四五十處。

漢末,諸蔡最盛。蔡諷,姊適太尉張溫;長女為黃承彥妻,小女為劉景升後婦,瑁之姊也。瓚,字茂珪,為鄢相,琰,字文珪,為巴郡太守,瑁同堂也。永嘉末,其子猶富,宗族甚強,共保於洲上,為草賊(張)[王]如所殺,一宗都盡,今無復姓蔡者。

瑁,劉表時為江夏﹑南郡﹑(竟)[章]陵太守,鎭南大將軍軍師。[遂為]魏武從事中郞﹑司馬﹑長水校尉﹑漢陽亭侯。魏武雖以故舊待之,而為時人所賤,責其助劉琮﹑譖劉琦故也。

魏文作《典論》,以瑁成之,曰:“劉表長子曰琦。表始愛之,稱其類己。久之,為少子琮納後妻[蔡氏之](子)侄,遂愛琮而惡琦。瑁(又)[及]外甥張允,幷得幸於表,又睦於琮。琮有善,雖小必聞;有過,雖大必蔽。蔡氏稱美於內,允﹑瑁誦德於外。愛憎由之,而琦益疏。乃出為江夏太守,監兵於外。瑁﹑允陰伺其過闕,隨而毀之。美無顯而不掩,闕無微而不露。於是忿怒之色日發,誚讓之言日至。而琮竟為嗣矣。故曰,‘容刃生於身疏,積愛出於近習’,豈謂是邪!泄柳﹑申詳,無人乎穆公之側,不能安其身。君臣則然,父子亦猶是乎!”

後表疾病,琦慈孝,[還省疾。]瑁﹑允恐其見表,父子相感,更有託後之意,謂曰:“將軍令君撫臨江夏,為國東藩,其任至重。今釋眾而來,必見譴怒。傷親(親)之(嘆)[歡心]以增其疾,非孝敬也。”遂遏於戶外,使不相見,琦流涕而去,士民聞而傷焉。表卒,琮竟嗣立,以侯印與琦。[琦]怒而投之,僞辭赴喪,有討瑁﹑允之意。會王師已臨其郊,琮擧州請罪,琦遂奔於江南。