利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

魯粛伝

魯粛子敬といい、臨淮東城の人である。生まれてすぐ父を失ったので、祖母と一緒に暮らした。実家は資産に恵まれており、(魯粛は)根っからの施し好きであった。当時、天下は混乱をきたしていたが、魯粛は家業を営もうとはせず、盛大に財貨をばらまいて田畑を売却するようし、そうして困窮した者を救い、士人と交わることに意を注いだため、大いに郷里の歓心が得られた。

周瑜居巣県長になると、数百人を引き連れてわざわざ魯粛を訪れて挨拶し、同時に軍糧提供を求めた。魯家には蔵二つ分の米があって、(蔵一つで)それぞれ三千であったが、魯粛は一方の米蔵を指差して周瑜に与えた。周瑜はますます彼の立派さを思い知り、ついに親しく交わり合って僑・札の契りを結んだ。袁術は彼の名声を聞いて東城県長に任命した。袁術に綱紀がなく、ともに事業を興すことはできまいと見て取った魯粛は、そこで老弱の手を引いて任俠者の少年百人余りを連れ、南進して居巣の周瑜に身を寄せた。周瑜が東岸に渡ったときは彼に同行し、[一]家族を曲阿に残した。ちょうどそのとき祖母が亡くなったので、帰郷して東城に葬った。

[一] 『呉書』に言う。魯粛の体躯は雄々しく立派で、若いころから壮士の節義を持ち、奇計を考えることを好んだ。天下が乱れんとしていたので、撃剣と騎射を学び、若者たちを招き集めて衣食を工面してやり、南方の山中を往来して狩猟を行い、密かに編成を組んで、武術の講義や軍勢の調練を行った。父老たちはみな言った。「魯氏は代を重ねるごとに衰えておったが、とうとうこんな気違い息子が生まれちまった!」のちに群雄たちが次々と立ち上がり、中州が混乱すると、魯粛は家族たちに言い聞かせた。「中国は綱紀を失ってしまい、盗賊どもが暴れ狂っている。淮水・泗水流域は子孫を残せる場所ではない。江東は万里に及ぶ沃野を抱え、民衆は豊かで軍勢は強いとは聞いている。避難するには充分だ。さあ、一緒に連れ立って楽土へ行き、時の変化を見定めようではないか?」彼の家族はみな言い付けに従った。そこで女子供を先に立て、強壮な者が殿軍となって、男女三百人余りで移動した。州庁から騎馬武者たちが追いかけてきたので、魯粛らは移動速度をゆるめて軍勢をまとめ、満を持して(迎撃の構えを取り)彼らに告げた。「卿らは丈夫であって天下の情勢を理解できるはずだ。今日、天下に兵乱が訪れており、功績はあっても褒賞はなく、追跡しなくとも処罰はない。どうして我らを追及するのか?」また自ら盾を立て掛けておき、弓を引いてそれを狙うと、矢は全て貫通した。騎馬武者たちは魯粛の言葉に感銘を受け、そのうえ制御できそうもないと考えられたため、互いに連れ立って帰っていった。魯粛は長江を渡って孫策に会いに行ったが、孫策の方でも彼を立派だと思った。

劉子揚劉曄)は魯粛の親友であったので、彼に手紙を書いて言った。「今や天下に豪傑どもが並び立っており、吾との才覚は今日にこそ相応しい。取り急ぎ帰って老母を迎えられ、東城に滞在して難を避けられますよう。いま近くに鄭宝という者が巣湖におり、軍勢一万人余りを擁して豊饒の地を占め、廬江一帯の人々の多くは彼に身を寄せております。ましてや(才覚ある)吾らならどうでしょうか?彼らの形勢を観察してみるに、ますます(人材を)手広く集められましょう。時機を失ってはなりません。足下も急がれよ。」魯粛はその計略の通りであると返答した。葬儀が済むと曲阿に戻り、北方へ行こうとしたが、ちょうどそのとき周瑜が魯粛の母を連れてに到着しており、魯粛は詳しい事情を周瑜に説明した。当時、孫策はすでに薨去していたが、(その弟)孫権がまだ呉に残っていた。周瑜は魯粛に言った。「むかし馬援は『いま世の中では、ただ君主が臣下を選ぶだけでなく、臣下もまた君主を選ぶのです』と光武劉秀)に答えています。いまご主君は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を入れ異能を取り上げておられます。また吾の聞くところでは、先哲の秘論として、天運を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興るとのことでしたが、情勢を占ってみるに、かのお方こそが暦数に合致しておるのです。最終的に帝業の基を築き、天の意志に適うことでしょう。これぞ烈士が龍鳳にしがみついて奔走するなのです。吾はその時機に出会いました。足下も子揚の言葉を意に介して躊躇なされぬよう。」魯粛は彼の言葉に従った。周瑜はそこで魯粛の才能は天命を補佐しうるものであり、彼のような人材を広く求めて功業を完成すべきです、立ち去らせてはなりませぬと(孫権に告げて魯粛を)推挙した。

孫権はすぐさま魯粛に会って語り合い、大いに満悦した。賓客たちが退出したとき魯粛も辞去したが、そのあと魯粛だけが呼び返され、を間に挟んで酒を飲んだ。そこで(孫権は)密かに諮った。「いま漢室は危殆に傾き、四方は群雲のごとく乱れておるが、孤は父兄の遺業を受け継ぎ、桓・文(春秋時代の桓公文公)の功績を思慕している。ありがたいことに君がいてくれるのだが、どうやって助けてくれるのかな?」魯粛は答えた。「むかし高帝劉邦)が微力だったとき、義帝にお仕えしようとして叶わなかったのは、項羽が害をなしたからでした。今の曹操がちょうど昔の項羽に当たります。将軍がどうして桓・文になりえましょうか?魯粛が密かに思料いたしまするに、漢室を復興することも、曹操を即座に除去することも不可能であります。将軍の御為にお計り申し上げますれば、ただただ江東に鼎足を構えて天下の隙を窺うのみであります。そのように基準を設けますれば、もう戸惑うことはございません。何故だかお分かりになりますか?北方はまことにもって多忙であるからです。その多忙に乗じて黄祖を滅ぼし、劉表を征伐し、最終的に長江を北限として割拠し、これを領有され、しかるのち帝王を称して天下を攻略する。これこそが高帝の事業なのであります。」孫権は言った。「今は一地方で手一杯。漢家をお助けできればと願うのみであって、そのようなことは及びもつかないよ。」張昭は魯粛の謙遜ぶりが足りないとけちを付け、しきりに彼を中傷し、魯粛は年若く粗忽者なので任用するのは時期尚早だと述べた。孫権は意に介することなく、ますます彼を尊重し、魯粛の母には衣服・幃帳を下賜し、住居の調度品の豊かさは元通りになった。

劉表が死去したので、魯粛は進み出て説いた。「そもそも荊楚荊州)は我が国と隣接しており、川の流れは北方に通じ、外は長江・漢水を帯び、内は山岳に阻まれ、金城のごとき堅固さ、万里に広がる沃野、富み栄えた士民を有しております。この地を占拠し、領有することができますれば、それが帝王の元手となるのです。いま劉表が死亡したばかりですが、二人の子は普段から仲が悪く、軍中の諸将はおのおのが両派に分かれております。しかも劉備は天下の梟雄であり、曹操と仲違いして劉表の元に寄寓しておりましたが、劉表は彼の才能を憎んで任用することができませんでした。もし劉備が彼らと心を合わせて君臣が一致団結しておれば、手懐けて同盟を結ぶのが宜しゅうございます。もし離違しておれば、彼らと手を切って征服し、大事業を完遂なさるのが宜しゅうございます。魯粛はご下命を奉じて劉表の二子に弔意を伝え、同時にその軍中で役立つ者を慰労したく存じます。劉備には劉表軍を手懐けて心を合わせ、共同して曹操を討伐するよう説得いたしますれば、劉備は必ずや喜んで言い付けに従うでありましょう。それがうまくいけば天下を平定することができるのです。いま急いで行かなければ、おそらく曹操に先手を打たれてしまいましょう。」孫権はすぐさま魯粛に出立させた。夏口に到達したとき、すでに曹公(曹操)が荊州に向かっていると聞き、(魯粛は)昼夜兼行で急いだ。南郡に到達したころには劉表の子劉琮はすでに曹公に降伏しており、劉備は慌てふためいて遁走し、長江を南へ渡ろうとしていた。魯粛は彼を出迎えるべく直行して当陽長阪に行き着き、劉備と会見して孫権の令旨を宣騰した。江東の強固さを述べ、孫権と協力するよう劉備に勧めると、劉備はいたく喜んで満足した。このとき諸葛亮が劉備に付き従っていたが、魯粛は諸葛亮に「子瑜(諸葛亮の兄諸葛瑾)の友人であります」と告げ、その場で結束を固めた。劉備はそのまま夏口に行き、諸葛亮を孫権への使者に立てたが、魯粛もまた復命した。[一]

[一] 臣裴松之は考える。劉備が孫権と協力して一緒に中国へ抵抗したのは、すべて魯粛の本来の計略であった。また諸葛亮に「我は子瑜の友人であります」と語っているのだから、諸葛亮もすでに魯粛の意見を聞いていたことになる。それなのに『蜀書』諸葛亮伝では「諸葛亮が連衡の計略を孫権に説くと、孫権は大いに喜んだ」と言っており、あたかもその計略は諸葛亮が創始したかのようである。両国の史官がおのおのの見聞を記し、自国の優位を称揚して競い合い、それぞれがその手柄を奪い合っているかのようだ。今この二書は一人物から同時に出たものなのに、これほどまで食い違っている。著述として体をなしていない。

そのころ孫権は曹公が東進しようとしているとの風聞を聞き、諸将たちと協議したが、みな彼を出迎えるよう孫権に勧めた。魯粛は一人だけ何も言わない。孫権が更衣に立つと魯粛が宇下まで追いかけてきたので、孫権は彼の意図を察知し、魯粛の手を取って言った。「には何か言いたいことがあるのかい?」魯粛は答えた。「先ほどの衆人の議を観察いたしますと、どれも将軍を誤らせるものばかりで、ともに大事を図るに足りません。いま魯粛は曹操を迎えても構いませんが、将軍にとっては宜しくありません。何故そう言えるのでしょう?いま魯粛が曹操を出迎えれば、曹操は魯粛を郷里に帰すことでしょうが、名望・位階を格付けすれば最低でも下曹従事を下回ることはなく、犢車に乗って官吏・士卒を従え、士林を交遊し、任官を重ねればまず州郡(の長官)を下回ることはないのです。将軍は曹操をお迎えするとして、どこに身を寄せるおつもりなのですか?どうか早く大計を定め、衆人の議を用いられませぬよう。」孫権は歎息しながら言った。「あの方たちの提議は随分とを失望させた。いま卿は大計を展開してくれたが、まさしく孤と一致するものである。これは天が卿を我に賜ってくれたのだ。」[一]

[一] 『魏書』および『九州春秋』に言う。曹公が荊州を征討すると、孫権は大いに恐懼した。魯粛は内心、曹公を防ぐよう孫権に勧めるつもりであったが、孫権を挑発するように説得した。「かの曹公なる者は実に手強い敵でありまして、新たに袁紹を併合したばかりのこととて兵馬はいたって精強、戦勝の勢いに乗じて混乱した国を伐ちますので勝利は万全なのであります。軍勢を派遣して彼を支援し、同時に将軍のご家族をへお送りするに越したことはございません。さもなくば危険がやって参りましょうぞ。」孫権は激怒して魯粛を斬ろうとした。魯粛はそこで言った。「いま事態は危急を告げておりますゆえ、すぐさま別の方策を講じねばなりません。どうして軍勢を派遣して劉備を支援しようともせず、我を斬りなさるのですか?」孫権はその通りだと思い、そこで周瑜をやって劉備を支援させた。孫盛は言う。『呉書』および『江表伝』には、魯粛が初めて孫権と会見したとき、すでに曹公を防ぐべきと説いて帝王の計略を論じており、劉表が死ぬと、またも使者を立てて情勢を観察するよう要請したとあり、今さら意見を変えて曹公の出迎えを勧めて挑発することなどありえないのである。しかも、このとき出迎えを勧める者は数多くいたのに、そのくせ魯粛一人を斬ろうとしたなどと言うのは、その論理に合わぬことである。

そのとき周瑜は使命を受けて鄱陽に行っていたので、魯粛は追って周瑜を徴し返すよう勧めた。かくて周瑜に軍務遂行を委任し、魯粛を賛軍校尉として戦略立案を補佐させた。曹公が敗走すると、魯粛はすぐさま一足早く帰国した。孫権は諸将を総動員して魯粛を出迎える。魯粛が門に入って拝礼しようとすると、孫権が立ち上がって彼に敬礼し、そして言った。「子敬よ、孤が鞍を手に下馬して出迎えたならば、卿を充分に顕彰したといえるだろうか?」魯粛は走り出て言った。「まだまだですな。」人々にそれを聞いて愕然としない者はない。座に着いたのち、(魯粛は)ゆっくりと鞭を挙げながら言った。「願わくば至尊よ、威徳を四海に加えて九州を総括され、よく帝業を打ち立て、改めて安車・軟輪をもって魯粛を徴されよ。そうして初めて顕彰したことになるのでございます。」孫権は手を叩いて愉快げに笑った。

のちに劉備がに参詣して孫権にまみえ、荊州を都督(監察)したいと求めたとき、(諸将は反対したが)魯粛だけは彼に貸してやって共同して曹公に対抗せよと孫権に勧めた。[一]曹公は孫権が土地でもって劉備を支援したと聞くや、ちょうど手紙を書いていたところであったが、筆を地べたに落としてしまった。

[一] 『漢晋春秋』に言う。呂範は劉備を足止めするよう勧めたが、魯粛は言った。「なりませぬ。将軍は神武命世のお方とはいえ、曹公の威力は実に重大でございますし、まだ荊州に臨んだばかりで恩寵信義はまだ広まっておりません。劉備に貸してやって慰撫させるのがよろしゅうございます。曹操の敵を増やす一方、こちらで仲間を作るのが上計なのであります。」孫権はすぐさまそれを聞き入れた。

周瑜は病気にかかり、そこで上疏して言った。「いま天下に事変が起ころうとしており、それが朝から晩まで周瑜の心底憂慮していることです。どうか至尊におかれましては、まず事態の勃発せぬうちに備えられ、それからのちお楽しみ遊ばしませ。いま既に曹操と敵対なさっており、劉備は近く公安に駐在して国境を接しており、百姓たちはまだ懐いておりませぬから、良将を手に入れてその地を鎮撫されるべきです。魯粛の智略は任務を遂行するに充分でございますので、なにとぞ周瑜の後任としてくださいますよう。(さすれば)周瑜の死んだ日でも思いを残すことはないのでございます。」[一](孫権は)すぐさま魯粛を奮武校尉に任じ、周瑜の後任として軍勢を宰領させた。周瑜の将兵は四千人余りおり、奉邑は四県であったが、すべて彼に属すことになった。程普には南郡太守を領させた。魯粛は初め江陵に着任し、のちに引き揚げて陸口に屯したが、威信恩恵は大いに広まり、軍勢は一万人余りも増えた。漢昌太守・偏将軍を拝受する。十九年、孫権に従軍して皖城を破り、横江将軍に転任した。

[一] 『江表伝』は、むかし周瑜は病気が重くなったとき、孫権に送った手紙を載せている。「周瑜は凡才でありながら、むかし討逆(孫策)さまより特別待遇をお受けし、腹心のごとく用いられ、とうとう栄誉と任務を授かって兵馬を統御することになりました。(それゆえ)鞭とを手にして軍務で手柄を立てたいものと念願したのでございます。巴蜀を平定し、続いて襄陽を奪うことは、ご威光を奉ずるならば手中にあるも同然でありますが、不養生がたたって道中で病気にかかる羽目となり、先日より医療を受けているものの、日に日にひどくなって快復いたしません。人生には死というものがあって長短は運命なのでありますから、誠に惜しむに足りません。ただ一つ、ささやかな志を遂げて、再びご命令を奉ずることができないことだけが恨めしく思われるのです。今まさに曹公が北方にいて国境地帯は静謐ならず、劉備が寄寓して虎を養うかのような風情であり、天下のことは、未だどう決着するとも知れません。これこそ朝廷の人士が食事をらす秋、至尊の叡慮を垂れたまう日なのでございます。魯粛は忠烈にして、職務に臨んでは手加減をいたしませんから、周瑜の後任になさるべきであります。人の死せんとするや、その言や善し(と申します)。もし(周瑜の言葉を)お取り上げ頂けたならば、周瑜は死すとも不朽でございます。」思うに、この手紙は本伝に載せるものと主旨が同じで、その言葉遣いが乖離しているだ。

話はさかのぼる。益州牧劉璋の綱紀が緩みきっていたため、周瑜・甘寧は口を揃えてを攻略せよと孫権に勧めたことがあるが、孫権がそれを劉備に相談すると、劉備は内心、我が物にしたく思っていたので偽りの返答をした。「劉備と劉璋とは宗室の努めとして、英霊におすがりして漢朝を正したいと念願しておりました。いま劉璋は畏れ多くも罪を犯し奉り、劉備はひとり震え上がっており、あえて奏聞いたすわけでもございませぬが、ご寛恕を加えられればと願っております。もしご宥免いただけぬなら、劉備は髪をほどいて山林に帰らねばなりませぬ。」のちに劉備は西進して劉璋を陥れ、関羽を守りに残した。孫権は言った。「狡猾な奴め、詐術を弄しおったわ!」さて関羽と魯粛が境界を接するようになると、しばしば疑念が生じ、国境地帯でごたごたが起こったが、魯粛はつねに友好的な態度でそれを鎮めた。劉備が益州を平定したとき、孫権は長沙・零・桂を要求したが、劉備は申し入れを承諾しなかった。孫権は呂蒙をやって軍勢を率いて奪いに行かせた。劉備は(それを)聞き、自身は公安に引き返し、関羽を派遣して三郡を競わせた。魯粛は益陽に布陣して関羽と対峙した。魯粛は関羽を招いて会見し、おのおの兵馬は百歩後ろに控えさせ、ただ将軍だけが刀一振りを帯びて会談に臨むよう申し入れた。魯粛はそこで関羽を責めなじり、言った。「もともと国家が心を砕いて卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思し召されたからである。いま益州を手に入れたにもかかわらずご奉還なさろうとの意志もなく、ただ三郡を要求しただけでもやはりご命令に応じられないとは。」言葉がまだ終わらぬうち、坐中の一人が言った。「そもそも土地というものは徳のあるところに行き着くのだ。恒久的な所有権なぞあるものか!」魯粛は声を荒げてその者を叱りつけ、言葉も顔色もきわめて厳しかった。関羽は刀を取って立ち上がりながら「これはもとより国家のこと。これなる人物の分かることではない!」と言い、睨みつけてその者を追い出した。[一]劉備は結局、湘水を区切って境界とし、それが済んでから軍勢を収めた。

[一] 『呉書』に言う。魯粛が関羽と会談しようとしたとき、諸将は変事が起こるのを懸念して赴くべきでないと提言した。魯粛は言った。「今日の事態については、お互い腹を割って話し合わねばならん。劉備は国事を背負っていて、いまだに是非も定められぬのに(?)、どうして関羽がまた重ねて命令に楯突いたりできようか!」そこで関羽のところへ出向いていった。関羽は言った。「烏林の戦役では、左将軍(劉備)は軍中に身を置いて、寝るときも具足を解かず、協力してを打ち破ったものでした。どうして無駄骨を折って一塊の壌地もなく、そのうえ足下が来られて土地を搾取しようとなさるのか?」魯粛は言った。「左様ではござるまい。もともと長阪において予州(劉備)に参観したとき、予州の軍勢は一校(一部隊)にも満たず、計略思慮は尽き果てて戦意気勢は打ち砕かれ、遠くへ逃げ隠れすることを考えておって、到底そこまでは望んでおられなかった。主上は予州が身の置き場もないのを憐れみ賜い、土地や士人の力を惜しまれず、落ち着きどころを持たせて庇護を加え、その困難を救済されたのである。しかるに予州は私独して気持ちを偽り、恩義に背いて好意をりになさる。いま既に西州(益州)を(我が身の)支えとなさったのに、そのうえ荊州の地までも切り取ろうとは。こんなことは凡夫ですら忍びがたい行為であって、ましてや人物を統率する主のなさることでしょうか!貪欲を働いて義を棄てるのは、必ずや災禍を招く前段階だと魯粛は聞いております。吾子は重任を担当されながら、分を弁えて道義を守り、義を奉じて御代を輔弼することもおできにならず、そのくせ軟弱な軍勢を頼りにして力比べをしようと思っておいでだが、部曲が腰砕けになっておるのに、どうやって成果を出すおつもりか?」関羽はそれに答えなかった。

魯粛は齢四十六で、建安二十二年(二一七)に卒去した。孫権は哀悼を捧げ、また親しく彼の亡骸に対面した。諸葛亮もやはり彼のために哀悼を捧げた。[一]孫権は尊号を称えて壇上に昇ろうとしたとき、公卿たちを振り返って言った。「むかし魯子敬はいつもここへと導いてくれていた。時勢に明らかであったと言えるだろうな。」

[一] 『呉書』に言う。魯粛の人となりは謹厳で着飾ることは少なく、公私にわたって倹約に努め、低俗な趣味には手を染めなかった。軍勢を統率してもよくまとまり、禁令は必ず施行され、陣中にあっても巻物を手放すことはなかった。また談論が得意で文章が巧く、思慮は遠大で人一倍の聡明さを持っていた。周瑜以後の世代では魯粛が随一の人物であった。

魯粛の遺腹の子魯淑が壮年に達すると、濡須督張承は、最終的に(魯淑が任命を受けてこの地に)到来するだろうと言った。永安年間(二五八~二六四)になって昭武将軍・都亭侯・武昌督となり、建衡年間(二六九~二七二)にはされ、夏口督に昇進した。任地では厳正で要領を弁えていた。鳳皇三年(二七四)に卒去し、子の魯睦が爵位を襲い、兵馬を拝領した。