利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

黄蓋伝

黄蓋公覆といい、零陵泉陵の人である。[一]はじめ郡の役人となり、孝廉に推挙されて公府からお召しを受けた。孫堅が義兵を挙げると黄蓋はこれに従う。孫堅は南方で山賊を破り、北方では董卓を走らせ、黄蓋を別部司馬に任じた。孫堅が薨去すると、黄蓋は孫策および孫権に従い、甲冑に身を固めて駆けずりまわり、白刃をかいくぐって城を屠った。

[一] 『呉書』に言う。(黄蓋は)南陽太守黄子廉の子孫である。その子孫が枝分かれして、(黄蓋の)祖父の代で零陵に移り、そのままそこへ居を構えたのである。黄蓋は若いころ父を失い、赤子から二十歳になるまで不幸続きで、辛苦を舐め尽くした。それでも壮大な志を抱き、貧賤の身にあっても凡庸な輩とは同調しようとせず、いつも薪を背負っている時間を利用して手紙の書き方を学び、軍事を研究した。

山越たちが服従せず、その被害に遭っている県があれば、そのつど黄蓋が守長太守・県長)に任用された。石城県の役人はとりわけ始末に負えなかったので、黄蓋は二人のを任命し、諸曹(もろもろの部署)をそれぞれに分担させて、こう命じておいた。「令長(黄蓋)は不徳にして、ただ武功のみをもって官に就き、文吏として評価されることはなかった。いま賊徒どもはまだ平定されておらず、軍旅の仕事があるゆえ、(郡政については)ひとまず文書をもって両掾に委託することとし、諸曹の取り締まりに当たらせて過失の摘発をさせたい。両掾の担当において支出入に誤魔化しがあれば、絶対に鞭や杖を食らわせる(だけで済ませる)ことはないので、おのおの心を尽くして人々の(悪しき)前例とはならぬようにいたせ。」はじめはみな威光を怖れて朝から夜まで職務に慎んでいたが、長らくすると、役人たちは黄蓋が文書を確認していないことに気付き、次第に私事を差し挟むようになっていった。黄蓋の方でも(彼らの)怠慢が目に付くようになってきたので、ときどき視察を行い、二人の掾がそれぞれに法令をないがしろにしている事実を多数つかんだ。そこで各部署の役人を全員集めて酒食を振る舞い、その場で事実を発表して詰問したところ、二人の掾は弁解に詰まり、みな土下座して謝罪した。黄蓋は「絶対に鞭や杖を食らわせたりはしないと事前に言っておいたはずだ。欺いたわけではないぞ」と言って彼らを殺したので、県内は戦慄した。のちに春穀の県長、尋陽県令に転任した。合わせて九つの県を守ったが、至るところで鎮まった。丹陽都尉に昇進し、強きを抑えて弱きを助けたので、山越たちも心服した。

黄蓋は威厳ある面持ちで、よく兵士たちを養育したので、征討に向かった先々では、士卒たちがみな先を争った。建安年間(一九六~二二〇)、周瑜に従って赤壁曹公曹操)を防ぎ、策略を立てて火攻めを行った。記載は『周瑜伝』にある。[一]武鋒中郎将を拝命した。武陵の蛮民どもが反乱を起こして城邑を攻め取ったので、黄蓋に太守を領させた。このとき郡兵はわずかに五百人しかおらず、敵対できないと思われたため、城門を開き、賊軍の半数が侵入したところで攻撃をかけて首級数百を挙げた。残りはみな遁走し、全てが(本来の)部落に帰っていった。頭立った者を誅殺して、(彼らに)付き従っただけの者は赦免した。春から夏にかけて反乱軍はことごとく平定され、はるか遠く巴・醴・由・誕といった地のもろもろの邑侯君長たちも、みな態度を改め、礼を尽くして拝謁し、郡境はすっかりと清められた。のちに長沙益陽県が山賊の攻撃を受けたので、黄蓋がまた平定にあたり、偏将軍の号を加増された。病気のため在官のまま卒去した。

[一] 『呉書』に言う。赤壁の戦役において黄蓋は流れ矢に当たり、寒い時期であるのに川へ墜落した。呉軍の人に拾われたが、それが黄蓋であるとは分からず、廁牀内に寝かされた。黄蓋が自分を励ましてただ一声、韓当を呼ぶと、韓当はそれを聞いて「これは公覆の声だ」と言い、顔を合わせると涙を流しながら衣服を替えてやった。こうして生き延びることができたのである。

黄蓋は職務にあたって決断力があり、仕事が滞留することはなく、人々は彼を思慕したものである。[一]孫権が践祚するに及び、その功績をさかのぼって取り上げ、子の黄柄関内侯の爵位を賜った。

[一] 『呉書』に言う。また黄蓋の姿を描き、季節ごとに祭祀を行った。