利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

討逆伝

孫策伯符という。孫堅が初めに義兵を起こしたとき、孫策は母を引き連れてに移住し、周瑜と友達となり、士大夫たちを集めたばねると、長江・淮水流域の人々はみな彼を頼っていった。[一]孫堅が薨じると、曲阿亡骸を移した。長江を渡ってからは江都に住まいした。[二]

[一] 『江表伝』に言う。孫堅は朱儁に上表してもらって佐軍となり、家族を寿春に残し(て、中央に出仕し)た。孫策は十歳余りだったが、早くも交わりを結んだりして名を知られ(?)、名誉名声は噂となって飛び出した。周瑜という者がいて孫策と同い年だったが、やはり英邁闊達で夙成しており、孫策の名声風聞を聞くと、舒から出てやってきた。すぐに推結分好し、信義を同じくして金をも断ちきるほどだった。孫策に舒に移住するよう勧め、孫策もそれに従った。

[二] 『魏書』に言う。孫策は(烏程)侯の爵位を(父孫堅から)嗣ぐべきであったが、弟孫匡に譲り与えた。

徐州牧陶謙はひどく孫策を嫌っていた。孫策の舅呉景が当時丹陽太守であったので、孫策はそこで母を車に載せて曲阿に移り、呂範・孫河とともに呉景に身を寄せ、伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。興平元年(一九四)、袁術に従属した。袁術は彼を非常に立派だと思い、孫堅の部曲を孫策に返してやった。[一]太傅馬日磾を杖突きながら関東を慰撫していたが、寿春にいたとき礼をもって孫策を招き、上表して懐義校尉の官職を授けた。袁術の大将喬蕤・張勲はみな心を傾けて(孫策を)尊敬した。袁術はいつも歎息して言っていた。「袁術に孫郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」孫策の騎士が罪を犯し、袁術の陣営に逃げ込んで陣中の廐に隠れた。孫策は指差しながら人をやって彼を斬らせた。事後、袁術のもとに出頭して謝罪した。袁術は言った。「兵士は叛逆を好むものだ。一緒になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして謝罪なぞするんだね?」このことから、軍中ではますます彼を畏れ憚った。袁術は初め孫策が九江太守になることを許諾していたが、あとになって後任に丹陽陳紀を登用した。のちに袁術は徐州を攻撃したいと思い、廬江太守陸康に米三万斛を求めたが、陸康が承諾しなかったので、袁術は大いに怒った。孫策はむかし陸康のもとに参向したことがあったが、陸康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。(そのため)孫策は常々恨みに思っていた。袁術は孫策をやって陸康を攻撃させ、告げて言った。「以前、って陳紀を登用したが、いつも本心を貫けなかったことを悔やんでいたものだ。今度もし陸康を捕らえられたなら、廬江は本当にのものだぞ。」孫策は陸康を攻撃し、それを陥落させた。袁術はまたもや彼の故吏劉勲を登用して太守としたので、孫策はますます失望した。それ以前、劉繇揚州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。寿春はすでに袁術に占拠されていたので、劉繇はそこで長江を渡って曲阿に治府を置いた。当時、呉景はなお丹陽におり、孫策の従兄孫賁もまた丹陽都尉であったが、劉繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。呉景・孫賁は立ち去って歴陽に宿営した。劉繇は樊能・于麋・陳横を派遣して長江の渡し場にさせ、張英には当利口に屯させ、そうして袁術をんだ。袁術は自分で登用して、故吏である琅邪恵衢を揚州刺史とし、さらに呉景を督軍中郎将とし、孫賁と一緒に軍勢を率いさせて張英らを攻撃させたが、何年ものあいだ勝つことができなかった。孫策はそこで袁術を説得し、呉景らを援助して江東を平定したいと請願した。[二]袁術は上表して孫策を折衝校尉とし、殄寇将軍を代行させたが、軍勢はわずか千人余り、騎馬は数十匹、賓客のうち従軍を願う者は数百人であった。歴陽に到達するころには、軍勢は五・六千人になっていた。孫策の母は先だって曲阿から歴陽に移っていたが、孫策はさらに母を阜陵に移動させた。長江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその鋭鋒にぶつかる者はなかった。しかしながら軍令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。[三]

[一] 『呉歴』に言う。はじめ孫策が江都にいたとき、張紘は母の喪に服していた。孫策は何度も張紘のもとを訪ね、世事の要務について質問して言った。「まさに今は漢の祚が衰微しつつあり、天下は騒擾し、英雄俊傑はおのおの軍勢を擁して私腹を肥やしておりますが、危難を救い混乱を治められる者は未だ現れません。先君は袁氏とともに董卓を打ち破りましたが、功業の未だ達成されぬうちに、黄祖の危害のために卒去いたしました。孫策は暗愚・幼稚であるとはいえ、ささやかながら密かに志を持っており、袁揚州(袁術)に先君のお遺しになった軍勢(の返還)を求め、丹陽の舅(呉景)のもとに馳せ参じて離散した者共を糾合し、東に行って呉会に拠り、を報じて恥をぎ、朝廷のために外の藩屏になろうかと思います。はいかがに思われますか?」張紘は答えて言った。「もともと空しく生を送る愚劣者であるうえ、ちょうど服喪中でもございまして、盛大なるご計画をお支えすることができませぬ。」孫策は言った。「君のご高名は他国まで広がり、遠きも近きも懐き慕っております。今日のことの計略は、君によって決定されるのです。どうしてご遠謀を啓示されて、高山のごとくご尊敬するのに沿うてはくだされないのですか。もしささやかな志が遂げられ、血縁の讎に報いることができますれば、それこそ君のご尽力によるものであり、孫策の心より望むところなのです。」そして涙をあふれさせて泣き、顔色を変えることはなかった。張紘は孫策の忠勇さが内心から発せられ、言葉遣いは慷慨としているのを見て、彼の志と言葉に感銘し、そこで答えて言った。「むかしの政道が衰えていったときは斉・晋がならんで勃興し、王室がすでに安定したときには諸侯は職務について(王室に)貢献いたしました。いま君は先代の道を引き継がれ、驍勇の武名がございます。もし丹陽に身を投じて呉会で軍勢を手に入れたなら、荊州・揚州を一つにすることもできますし、讎敵に報いることもできましょう。長江に拠って威徳を振るい、もろもろの穢れた者共を誅伐排除し、漢室を正しお助けするならば、功業は(斉の)桓公・(晋の)文公を窺うほどであり、どうしてただ外の藩屏に留まりましょう?ちょうど今は世が混乱して困難が多くございますが、もし功績が成し遂げられ事業が打ち立てられたならば、を同じくする者たちと南に行って(長江を)渡られるべきでしょう。」孫策は言った。「君と(意見が)一致して符合したからには契りを結び、永久に固い間柄を持ち同じくしたいと存じます。いますぐ出かけなければなりませんが、年老いた母と幼い弟を君に委ねられたなら、孫策はもう回顧する心配はなくなるのです。」『江表伝』に言う。孫策はただちに寿春に赴いて袁術に謁見し、涙ながらに言った。「亡き父はむかし長沙から(洛陽に)入って董卓を討伐し、明使君南陽で合流して同盟の好を結ばれましたが、不幸にして危難に遭遇し、功業は完成を見ませんでした。孫策は先人の(袁術に対する)旧恩に感じ思い、自らお頼りして結びつきたいと存じます。願わくば明使君、わが真心をご推察くださいませ。」袁術ははなはだ貴んで彼を評価したものの、そのくせ彼の父の軍勢を返してやることにはなかなか承知しなかった。袁術は孫策に告げて言った。「は初めに舅御(呉景)を起用して丹陽太守とし、従兄御の伯陽を都尉としたものだが、あれは精兵の地であるから、帰って身を寄せられ、募集をかけられるとよかろう。」孫策はついに丹陽の舅に身を寄せ、数百人を手に入れたが、県の大帥祖郎に襲撃されてしまい、ほとんど死にかけるところだった。こうして再び赴いて袁術に拝謁すると、袁術は孫堅の残した軍勢千人余りを孫策に返してやった。

[二] 『江表伝』に言う。孫策は袁術を説得して言った。「(我が)家は東方に(施した)旧恩がございます。願わくば舅を援助して横江を討ちたいと存じます。横江が陥落したのち、本土に身を投じて募集をかければ、三万の軍勢が得られるでしょう。それによって明使君をお助けし漢室を正しお救いしましょう。」袁術は彼が恨んでいることを知っていたが、しかし劉繇が曲阿に拠り、王朗が会稽にいたので、孫策はきっと平定することはできないだろうと思い、それを許可してやった。

[三] 『江表伝』に言う。孫策は長江を渡って劉繇の牛渚の陣営を攻撃し、邸閣の食糧・兵器をことごとく奪い取った。この歳は興平二年である。当時、彭城国の薛礼下邳国の相笮融は劉繇に身を寄せて(彼を)盟主とし、薛礼は秣陵城に拠り、笮融は県南に屯していた。孫策はまず笮融を攻撃したが、笮融が兵を出してきたので交戦となり、五百級余りの首を斬った。笮融はそこで陣門を閉ざして動こうとしなくなった。そこで(孫策は)長江を渡って薛礼を攻撃すると、薛礼は出し抜けに逃走した。ところが樊能・于麋らは再び軍勢をかき集め、牛渚の屯営を襲撃して奪った。孫策はそれを聞き、引き返して樊能らを攻め破り、男女一万人余りを生け捕りにした。またもや(長江を)下って笮融を攻めたが、流れ矢に当たって股を傷付けてしまった。馬に乗ることさえできなかったため、輿で担がれて牛渚の屯営に引き返した。ある者が叛逆して笮融に密告した。「孫郎(孫策)は箭に当たって死んでしまいました。」笮融は大喜びして、すぐさま将の于慈をやって孫策にかわせた。孫策は歩騎数百人を出して挑戦させ、伏兵を後方に設置させておいた。賊が出てきて攻撃を仕掛けてきたとき、矛先を交えないうちに偽って逃走すると、賊は追いかけてきて伏兵の中に飛び込んだ。そこで彼らを大いに撃破し、千級余りの首を斬った。孫策はそこで笮融の陣営のもとまで行き、左右の者に大声で叫ばせた。「孫郎は結局どうなんだろうね!」賊はそれに驚き恐れ、夜中に遁走した。笮融は孫策がなお健在であると聞き、さらに塹壕を深く城塁を高くして防御の備えを修繕した。孫策は笮融の駐屯地の地勢が険固であったので、そのままにして立ち去り、海陵において劉繇の別働隊の部将を攻め破り、湖孰・江乗に転戦して、それらを全て攻め下した。

孫策の人となりは、姿や顔は美しく談笑を好み、性質は闊達で聞き上手、人使いが上手かった。そのため士卒・民衆で(彼に)会った者は、心を尽くさない者がなく、彼のために死ぬことを願った。劉繇が軍勢を棄てて遁逃すると、もろもろの郡守はみな城郭を捨てて奔走した。[一]の人である厳白虎らの人数はおのおの一万人余りもおり、そこかしこに軍勢を屯させていた。呉景らはまず厳虎(厳白虎)らを撃破して、そのあとで会稽に行きたいと思った。孫策は言った。「厳虎らは烏合の盗賊であって、大それた野心なぞ持ってはおらぬ。やつらは生け捕りになるだけだろう。」そのまま軍勢を返して浙江を渡り、会稽を拠点として東冶り、そのあと厳虎らを攻め破った。[二]すべての長吏(県令・県長)を交替させ、孫策は自ら(任じて)会稽太守を領し、再び呉景を丹陽太守とし、孫賁を予章太守とし、予章郡を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟孫輔を廬陵太守とし、丹陽の朱治を呉郡太守とした。彭城の張昭広陵張紘・秦松・陳端らを謀主(幕僚長)とした。[三]そのとき袁術が帝号を僭称した。孫策は手紙を出して責め、彼と絶交した。[四]曹公曹操)は上表して孫策を討逆将軍とし、呉侯に封じた。[五]のちに袁術が死んだとき、長史楊弘・大将張勲らがその配下の人々を引き連れて孫策に身を寄せようとした。廬江太守劉勲は(彼らを)待ち伏せして攻撃し、彼らを全て生け捕りにし、その珍宝を手に入れて我が物にしてしまった。孫策はそれを聞き、(本心を)偽って劉勲と同盟を結んだ。劉勲は新たに袁術の軍勢を手に入れたのだが、当時、予章上繚宗民一万家余りが江東にいたので、孫策はそれを攻め取るよう勧めた。劉勲が出かけて行ったので、孫策は軽装軍にて朝から夜にかけて廬江を襲撃して陥落させ、劉勲の軍勢はことごとく降服し、劉勲はただ独り麾下数百人と一緒に自分から曹公に帰服した。[六]そのころは袁紹(の勢力)が強いときにあたり、その一方で孫策が江夏を併合したので、曹公の力はまだ思い通りにならず、(曹公は)まず彼(孫策)を手懐けようとした。[七]そこで弟のを孫策の末弟孫匡に嫁がせ、また子の曹彰のために孫賁の女を娶ってやり、みな礼をもって孫策の弟孫権・孫翊を招き、さらに揚州刺史厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。

[一] 『江表伝』に言う。孫策はこのとき年若く、(そのため)官位称号があったのに兵士・民衆はみな彼を「孫郎」と呼んだ。(敵地の)百姓たちは孫郎がやってくると聞いて、みな魂魄を失い、長吏も城郭を棄てて山草のあいだに隠れ伏した。到着してからは、兵士は軍令を遵守して誘拐・略奪を働くことはなく、鶏でも犬でも菜も茹も、一つとして被害に遭うものはなかった。民衆はそこで大喜びし、競い合って牛酒をもって軍に参上した。劉繇が逃走したのち、孫策は曲阿に入城して将兵をねぎらい賞賜し、部将陳宝を阜陵に行かせて母および弟を出迎えさせた。恵み深い布令を発行し、諸県に布告した。「劉繇・笮融らの故郷の部曲のうち、降服してきた主だった者は、一切詰問してはならぬ。従軍を志願する者には、一人が軍属になれば門戸からは免除せよ。志願しない者にも強要してはならぬ。」十日の間に四方から雲集し、軍勢二万人余り、騎馬千匹余りを手に入れ、威信は江東に震い、形勢はいよいよ盛んになった。

[二] 『呉録』に言う。当時、烏程には鄒他・銭銅および前の合浦太守の嘉興王晟らがいて、おのおの軍勢一万人余り、あるいは数千人を集めていた。軍勢を引率して討伐し、すべて彼らを攻め破った。孫策の母氏は言った。「王晟はの父とは座敷に上がって妻と会う間柄でした。いま彼の子息兄弟たちはみな晒し首となり、ただ一人の老翁が残っているだけです。どうして恐れるに足るでしょう?」そこで彼のことは捨て置き、残りは一族あげて誅殺した。孫策は自ら厳虎を討伐したが、厳虎が塁壁を高くして堅守しつつ、弟厳輿を使者として和睦を請うたので、それを許してやった。厳輿は一人で孫策に対面したいと申し入れた。会談中、孫策は白刃を抜いてった。厳輿の体は震えていた。孫策は笑いながら言った。「卿が坐った姿勢からよく飛び上がり、敏捷さは人並みならぬと聞いておりましたので、いささか卿をからかっただけです!」厳輿は言った。「は刃物を見るとそうなるのです。」孫策は彼が(そのように)できないと悟り、そこで手戟を彼に投げ付けると(厳輿は)即死した。厳輿は勇気・武力があり、厳虎の軍勢は彼が死んだことにより、非常に恐怖した。(孫策は)進軍して彼らを攻め破った。厳虎は余杭に遁走し、許昭の奴隷のなかに身を投じた。程普は許昭を攻撃したいと請うたが、孫策は言った。「許昭は旧主に信義を立てており、旧友に誠実を尽くしている。これこそ丈夫たる者の志だ。」そこで彼を放置しておいた。臣裴松之は考える。許昭が旧主に信義を立てたというのは、盛憲を救ったことを言うのである。そのことは後の注に見える。旧友に誠実を尽くしたというのは、厳白虎を受け入れたことである。

[三] 『江表伝』に言う。孫策は奉正都尉劉由五官掾高承を派遣し、上表文を掲げてに参内させ、地方の物品を献上させた。

[四] 『呉録』に記載する孫策が張紘に書かせた手紙に言う。「上天が司禍の星を掲げ、聖王が敢諫の鼓を立てて、非道誤謬への備えを設け、欠点を戒める言葉をいたのはなぜでしょうか?おおよそ長所があれば、必ず短所もあるからです。昨冬、大それた計画があると伝え聞き、恐れおののかぬ者はありませんでしたが、うってかわって献上物を奉納されたと聞き、万民は困惑を解消いたしました。近ごろの提言を聞きますと、ふたたび以前の計画に追従しようとされ、事業の日程は月単位まで決定されているとか。いよいよ憮然とさせられるのですが、思うにこれは流言なのでありましょう。もしそれがその通りだとすれば、民衆は何を希望にすればよいのでしょうか?昔日、義兵を挙げられたとき、天下の士が響くように呼応したのは、董卓が(天子の)廃立を専断して太后・弘農王を殺め、の宮人を誘拐し、御苑・陵墓を発掘し、暴虐はここまで至ったからです。それゆえ諸州郡の豪傑たちは(将軍の)ご声望を聞きご信義を慕ったのです。神秘的な武勇が外部で振るわされると、董卓はついに内部で滅びました。元凶が倒されると、ご幼主は東方を顧みられて保傅に命令を出させ、諸軍を凱旋帰国させようとなさいました。河北においては黒山と謀略を通じ、曹操は東方の国で毒気を放出し、劉表は南方の荊州でえて叛乱し、公孫瓚は北方の幽州で吼えたけり、劉繇は長江のほとりで力を振るい、劉備は淮水の片隅で盟主の座を争っております。こうしたことから、ご命令を承って弓を焼き、戈を棄てることができないでいるのです。いま劉備・劉繇はすでに敗れ、曹操らは飢餓しており、思いますに、天下と計略を合致させて醜悪な輩を誅伐すべきなのです。(その機会を)捨て去って考えようとせず、自分から奪取せんとの野心をお持ちになるとは、海内の希望するところではございません。(それが)第一です。むかし(の)成湯は(の)桀王を討伐したとき、夏が多くの罪を犯したと称し、(の)武王が(の)紂王を討伐したとき、殷の犯した罪は重いと言っておりました。この二王は聖徳がございまして、世に君主たるべき人物でございましたが、もしその時機に巡り会わなければ勃興することはなかったのです。幼主には天下に対する悪事があるわけではなく、ただ御年がまだお若いため強力な臣下に脅迫されているだけなのです。もし罪過なくしてそれを奪ったなら、湯・武の事業に合致せぬのではないかと心配しております。第二です。董卓は狂乱狡猾ではありましたが、主君を廃して自分から(新しい王朝を)興すまでには至りませんでした。それでも天下は彼の暴虐を聞き、腕を振るって心を同じくして彼を憎み、中原の戦いに慣れぬ兵をもって辺境の精悍な賊にぶつかり、たちまち魂をさすらわせることになりました。いま四方の人々はみな敵に慣れ戦闘に巧みになっております。対抗して勝つことができるのは、彼らが混乱して我らが治まっているとき、彼らが叛逆して我らが順当なときです。当世の紛争を目の当たりにして(武力を)大挙してこれに対処しようとしても、災禍に足を向けることができるだけです。第三です。天下の神器はむやみに犯すことはできず、必ず天の賛同と人の協力が必要になります。殷の湯王には白鳩の吉祥があり、周の武王には赤烏の瑞兆があり、高祖には星の集合する符瑞があり、世祖には神々しい光の徴候があり、いずれの場合も民衆は桀・紂の政治によって憔悴し、秦・王莽の役務に苦労しておりまして、それゆえ上手く無道を取り除き、その志を達成することができたのです。いま天下はご幼主におかれて苦しめられているわけでもなく、天命を授かる霊験も現されておりません。それなのに一朝にして突然にも尊号に即位せんとなさっております。未だこのようなことはありませんでした。第四です。天子の貴さ、四海の富を誰が望まないものでしょうか?(しかし誰も天子の位を窺おうとしないのは)道義において許されず、情勢においてできないからなのです。陳勝・項籍・王莽・公孫述の輩は、みな南面して「孤」(帝王の謙称)と称しましたが、よく全うできた者はありません。帝王の位はむやみに欲しがってはならないのです。第五です。ご幼主はご聡明であらせられ、逼迫するものを取り除き、心配事を取り去り、必ずや中興のご業績を成し遂げられるでしょう。周の成王のごとき盛徳で主君に尽くし、(周公)旦(召公)奭のごとき美名を自ら受けることこそ、まこと尊明に所望いたすところなのです。たといご幼主を他の者に改めるにしても、なお宗室の系譜家族から推薦し、近親の賢良を論考し、それによって劉氏の皇統を継続させて漢朝の宗室を固められますよう。(以上のことは)すべて(あなたのためであり)金石をもって功績が書き込まれ、丹青をもって姿が描かれ、余慶は尽きることなく受け継がれ、管絃により名声が伝えられるのであります。(それを)捨てて実行されようとせず、災難を招くことなど、(あなたの)ご賢明な素質を想起すれば、きっと忍びがたいことでしょう。第六です。(あなたの御家は)五世代にわたって宰相となり、権威の重さ、勢力の盛んさは、天下に比肩しうる者がございません。(御一門のうち)忠貞なる者はきっと『朝も夜も思惟にふけり、国家のきをお助けして社稷の危機を思い、父祖の志を奉じて漢室の御恩に報いるべきだ。』と言うでしょうし、践むべき節義をないがしろにして、奪おうとする欲望を逞しくする者は、おそらく『天下の人々のうち、我が家の執事でない者は門生である。だれか我に従わぬ者がおろうか?四方の敵のうち、我が同僚でなければ我が使用人である。誰が我に背くことができようか?代々の勢力に乗じて決起し、それを奪取しない手があるか?』と言うことでしょう。両者の方法論を区別し、詳しく観察しないではいられない者です。聖者哲人が貴ばれるのは、その時々になすべきことを弁え、挙動措置を慎んでいるからであります。計画しがたき事業、信頼しがたき威勢によって、もろもろの敵の気持ちを激昂させ、多くの人の心を生起させようとするのは、公的な道義においてもより許されず、私的な計算においてもやはり不利であり、賢明なる哲人の実行しようとしないことです。第八です。世の人々の多くは図緯(予言書)に惑わされて無関係なことにまでこじつけ、文字を並べたりくっつけたりして上司を喜ばせておりますが、まったく目上の者におもねって民衆をたぶらかし、最後になって後悔する者は、昔から今まで、未だかつて無くなることはありませんでした。慎重に選び取り、よくよく考えずにはいられません。第九です。(以上の)九つの点は、尊明がご存じのことの付け足しに過ぎませんが、事前の備えとし、ご失念の足しになさって頂きますよう。忠言は耳に逆らうものですが、ご神聴にあずかれば幸いです!」『典略』では張昭の言葉であると言っている。臣裴松之が思うに、張昭の名声は重々しかったとはいえ張紘の文章には及ばなかった。この手紙はきっと張紘が作ったものだろう。

[五] 『江表伝』に言う。建安二年夏、漢朝は議郎王輔を派遣して戊辰の詔書を奉って言う。「董卓は叛乱し、国家に仇をなし人民を害した。さきに将軍孫堅は征伐を思っおり、日ごろの心がけは未だ遂げられないまま(亡くなったの)であるが、その計略は著名である。孫策は善道を遵守し、幸福を求めて右顧左眄しない。いま孫策をもって騎都尉とし、烏程侯の爵位を襲封させ、会稽太守を領させる。」また詔勅に言う。「左将軍袁術は朝恩を顧みず、いながらにして凶逆をなし、虚偽を捏造して兵乱を欲し、百姓をたばかり騙した。その報告を聞いたとき事実でないと思われた。使持節平東将軍領徐州牧温侯呂布の上表によって、袁術が民衆を惑わして妄りな振る舞いをしていることがはっきりし、袁術の鴟梟のごとき性質と、その無道を遂げ、王宮を建設して公卿を配置し、天を郊して地を祀り、民衆を殺して器物を損壊し、極めてひどい禍をなしていることが判明した。呂布は前後して上表し、孫策が本朝に心を寄せ、帰還して袁術を討伐し、国家のために忠節を尽くしたいと願っておるゆえ、顕著な引き立てを加えるように請願してきた。そもそも恩賞を掲げて功績を待つのは、ただ忠勤に対してこれを与えるためだ(?)。ゆえに寵愛授与し、前代の食邑を受け継がせ、大郡(の太守の任)をもって尊重する。栄耀がもたらされたこと、これこそ孫策が力を尽くし命を投げ出すである。すみやかに呂布および行呉郡太守安東将軍陳瑀と協力同心し、時を同じくして征討に出立せよ。」孫策は自分が兵馬を統領することについて、ただ騎都尉の官職では郡を宰領するのに軽すぎると思い、将軍号が得られるようにと、人をやるに及んで王輔にほのめかした。王輔はそこで詔書に従って、仮の措置として孫策を明漢将軍とした。このとき陳瑀が海西に駐屯しており、孫策は詔勅を奉じて厳を治めると、呂布・陳瑀とともに協力しあう形勢を取ることになった。行軍して銭塘に到着したとき、陳瑀は孫策襲撃を密かに計画し、都尉万演らをやって密かに長江を渡らせ、印章を持たせて三十余りの細賊どもに届けさせ、丹陽・宣城・涇・陵陽始安の険阻な諸県の大帥祖郎・焦已、及び呉郡烏程の厳白虎らとともに内応させ、孫策の軍勢が進発する機を窺って諸郡を攻め取ろうと考えた。孫策はそれを察知し、呂範・徐逸を派遣して海西で陳瑀を攻撃させ、大いに陳瑀を撃破して、その官吏・兵士の妻子四千人を捕獲した。『山陽公載記』に言う。陳瑀はただ一騎で冀州に逃走し、自ら袁紹に帰服した。袁紹は故安都尉とした。『呉録』に記載する孫策の感謝する上表に言う。「臣は頑固な性質で、一人で辺境で身を守っておりました。陛下におかれては崇高なご恩沢を広く布かれ、ささやかな節義も見落とされることなく、臣に爵位を襲わせ、名郡の統治を兼ねさせることになさいました。賜りました栄誉・恩寵は顧みて、(感謝に)堪えないところでございます。興平二年十二月二十日、呉郡曲阿において袁術の上表文を読みましたが、(それによると)臣をもって殄寇将軍を行わせるとのことでしたが、(今になって)詔書を被ることになり、(その任命が)身勝手な偽りであると分かりました。すぐさま捨て去ったとはいえ、それでも恐れと胸騒ぎがいたします。臣は十七歳のとき頼りとする人(父)を喪失し、父の仕事を継ぐほどの些事すら担うこともできず、薪割りの戒めを汚してしまうのではないかと恐れました。(霍)去病は十八歳で功績を立て、世祖(光武帝)の居並ぶ将領たちは弱冠にして天命の君主を補佐しましたが、まことに(そのような功績が臣には)ございませんでした。臣が初めて軍勢を宰領することになったとき、年齢は弱冠にも満たず、無能臆病で勇気もありませんでしたが、それでも(王室の)微かなる天命が尽きんとしているのを懸念いたしておりました。思うに、袁術は発狂惑乱し、悪事をなすことは深刻でございます。臣はご威霊の加護を蒙り、正義を奉って罪人を討伐し、願わくば必ずや捷報を献じ、ご授与に報いる所存でございます。」臣裴松之は考える。『本伝』では孫堅は初平三年に卒去し、孫策は建安五年に卒去したとあり、孫策は死んだとき二十六歳だったと言っている。計算すると孫堅の死亡時、孫策は十八歳だったはずだ。それなのにこの上表では十七歳だったと言っており、符合しない。張璠の『漢紀』および『呉歴』は、いずれも孫堅が初平二年に死んだとしているが、こちらが正しく、『本伝』が誤っているのである。『江表伝』に言う。建安三年、孫策はまた使者を派遣して地方の特産物を献上したが、元年に献上したものの二倍であった。その年、詔書によって討逆将軍に転任し、改めて呉侯に封ぜられた。

[六] 『江表伝』に言う。孫策は詔勅を被り、司空曹公・衛将軍董承益州牧劉璋らとともに力を合わせて袁術・劉表を討伐することになった。軍勢が進発しようとしたとき、ちょうど袁術が死んだ。袁術の従弟袁胤女壻黄猗らは曹公を恐れ、あえて寿春を守ろうとはせず、袁術の棺を一緒にいて、彼の妻子および部曲の男女の手を支えつつ、皖城の劉勲に身を寄せた。劉勲の糧食は少なく、救済してやることができなかった。そこで従弟劉偕を派遣し、予章太守華歆に食糧を買いたいと申し込ませた。華歆の郡でももともと穀物が少なかったので、役人を派遣して、劉偕を連れて海昬・上繚に行かせ、もろもろの宗帥たちに三万斛の米を供出させて劉偕に手渡すことにした。劉偕は一ヶ月をかけて行ったが、わずか数千斛しか得られなかった。そこで劉偕は劉勲に報告したが、つぶさに状況を説明し、劉勲にこの地を襲撃奪取するようにと促した。劉勲は劉偕からの手紙を受け取ると、軍勢を潜ませて海昬の城下に進駐した。宗帥たちはそれを知ると、城内を空っぽにして逃げ隠れたので、劉勲は結局何も得られなかった。そのとき、孫策は西進して黄祖を討伐し、行軍して石城に及んでいたが、劉勲が自ら海昬に赴いていると聞き、すぐさま手分けし、従兄孫賁・孫輔に八千人を率いさせて彭沢で劉勲を待ち受けさせ、自分は周瑜とともに二万人を率いて歩行で皖城を襲撃し、すぐさまこれを落とし、袁術の百官および鼓吹、部曲三万人余り、ならびに袁術・張勲(?)の妻子を手に入れた。上表して汝南李術を用いて廬江太守とし、兵三千人を注ぎ込んで皖城を守らせ、手に入れた人々を東に移して呉に行かせた。孫賁・孫輔もまた彭沢で劉勲を撃破していた。劉勲は逃走して楚江に入り、尋陽からは徒歩で登って置馬亭まで行ったが、孫策らが既に皖城を落としたと聞き、そこで西塞に入った。まで行って、防塁を築いて守備を固め、危急を劉表に告げつつ、黄祖に救援を求めた。黄祖は太子黄射の船軍五千人を派遣して劉勲を援助させた。孫策は再び攻勢に移り、劉勲を大破した。劉勲は劉偕とともに北へ行って曹公に帰服し、黄射もまた遁走した。孫策は劉勲の軍勢二千人余り、船千艘を手に入れ、そのまま夏口まで前進して黄祖を攻撃した。当時、劉表は従子劉虎と南陽の韓晞を派遣して長矛隊五千人を率いさせており、(劉虎・韓晞は)来着すると黄祖の先鋒となった。孫策は戦って、大いに彼らを撃破した。『呉録』に所載する孫策の上表に言う。「臣は黄祖を討伐するにあたって、十二月八日をもって黄祖の屯する沙羨県に着到いたしました。劉表が部将を遣して黄祖を援助いたし、ともども臣に立ち向かって参りました。臣は十一日の明け方をもって部下の領江夏太守行建威中郎将周瑜、領桂陽太守行征虜中郎将呂範、領零陵太守行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当行武鋒校尉黄蓋らと同時に並進いたしました。我が身は馬に跨って陣に臨み、我が手は軍鼓を激しく撃ち、戦闘の気勢を整えました。官吏兵士は奮い立って勇躍すること百倍し、一心に、かつ勇敢に、おのおの競って命を投げ出しました。幾重にも重なる塹壕を飛び越え、迅速たること飛ぶが如きでございました。火が風上から放たれ、戦闘は煙の中で激しくなり、弓弩は一斉に発射され、振る矢は雨のように密集いたしました。辰刻に差しかかるころ、黄祖はようやく潰滅し、鋒刃の切るところ、焱火の焼くところ、それを前にして生き延びた賊はありませんでしたが、ただ黄祖だけが逃走いたしました。彼の妻子男女七人を生け捕りとし、虎狼韓晞以下二万人余りの首級を斬りました。彼らのうち水に飛び込んで溺れた者は一万人余りになり、(戦利品は)船六千艘余りと山積みの財物でございます。劉表はいまだ捕らえられておりませんが、黄祖が長らく狡猾な真似をしており、劉表の腹心として、外に出ては爪牙ともなっており、劉表が勢力を伸ばしたのは黄祖の息吹によるものでした。しかし黄祖の家族部曲は、地面を掃き清めたように残っておらず、劉表は孤立した捕虜でございますから、亡者となり死体となるばかりです。まことに皆もって聖朝の神武の遠く振るわれたお陰をもち、臣は罪人を討伐するにあたって、微力ながらの忠勤に成果を得られたのでございます。」

[七] 『呉歴』に言う。曹公は孫策が江南を平定したと聞き、心中ではそれを非常に厄介だと思い、いつも「猘児というやつは、矛先を争うことはできないものだ」と言っていた。

建安五年、曹公と袁紹は官渡で対峙した。孫策は密かに許を襲撃して漢帝を迎えんと企て、[一]密かに軍勢を整え、諸将を編制任命した。まだ進発しないうち、そのときの呉郡太守許貢の食客に殺害された。それ以前、孫策が許貢を殺したとき、許貢の末子は食客とともに長江の川辺に身を隠していた。孫策はただ一騎で外出していると、突然、食客と遭遇し、食客が孫策に襲いかかって傷を負わせた。[二]傷は重く、張昭らに請願して言った。「中国はいまや混乱の真っ只中にある。呉越の軍勢、三江の堅固さを用いれば、成功失敗を観望することもできよう。公ら、よくよく吾が弟をけてくだされよ!」孫権を呼び寄せて印綬をまとわせ、告げた。「江東の軍勢を挙げ、両陣のあいだで勝機を決し、天下とを争うことにかけては、卿は我に敵うまい。賢者を抜擢して能吏を任用し、おのおのにその心を尽くさせ、それによって江東を保つことにかけては、我は卿に敵わないよ。」夜になって卒去した。時に二十六歳であった。[三]

[一] 『呉録』に言う。当時、高岱という者が余姚に隠棲していたが、孫策は出仕を命じ、会稽陸昭を使者として彼を出迎えさせ、孫策は己を虚しゅうして伺候した。彼が『左伝』を得意としていると聞いたので、自分も熟読して議論をしようと考えた。ある人が彼に言った。「高岱は将軍がただ武勇に秀でているだけで、文学の才能を持っていないと思っております。もし『(左)伝』について議論してみて『存じ上げません』と言うようなことがあれば、それはの言葉通りだということです。」また高岱にも告げた。「孫将軍の人となりは、自分より優れた者を憎まれます。もし質問を受けるたび『存じ上げません』とお答えになれば、ご好意を得られるでしょう。全てにわたって正論をご開陳なさるようなことがあれば、きっと危険な目に至りますぞ。」高岱はその通りだと思い、『(左)伝』の議論になったとき「存じ上げません」と答えることもあった。孫策は果たして怒り出し、自分を軽蔑しているのだと思って彼を収監してしまった。知人友人および居合わせた人々は地べたに座って赦免を請願した。孫策は矢倉に登り、(彼の赦免を請う人々が)数里にわたって充満しているのを眺めた。孫策は彼が民衆の心をつかんでいることを憎み、ついに彼を殺してしまった。高岱は字を孔文といい、呉郡の人である。天性の聡明通達さで、財貨を軽んじて義心を貴んだ。彼が士人と付き合うときは奇矯な人物を選び、まだ有名にならぬうちから見出した。友達付き合いをした八人は、みな一世代の英傑ばかりであった。太守盛憲が(彼を)上計とし、孝廉に推挙した。許貢が来て郡を宰領するようになると、高岱は盛憲の手を引いて許昭の邸宅に避難し、陶謙に(会いに行って)救援を求めた。陶謙はなかなか救援しようとはしなかったが、高岱は憔悴しきって血の涙を流し、飲み物も喉を通らなかった。陶謙は、彼の忠義雄壮さには申包胥の義心があると感動し、軍勢を進発させることを許諾し、(高岱に危害を加えないようにと)手紙を書いて許貢に送った。高岱は陶謙の手紙を携えて帰還したが、許貢はすでに彼の母を収監していた。呉の人々は君子小人の区別なくみな危険だと思い、許貢はかねがね怒りを抱いているため、行けば必ず殺されてしまうだろうと言った。高岱は言った。「主君を持ったらば主君のために。そのうえ母上が牢獄に繋がれていて、行ってあげるのをお待ちなんだ。もし(役所に)入って(許貢に)会うことができれば、ことは自ずと解決するはず。」そのまま手紙を差し出して自分から申し出た。許貢がすぐに会ってみると、才能言辞は敏捷であり、自分から陳謝する様子も慇懃であった。許貢はその場で彼の母を解放してやった。高岱は許貢に会いに行くとき、友人の張允ビンに語り、あらかじめ船を用意させ、許貢はきっと後悔して後を追ってくるはずだと言っていた。(役所を)出るとすぐさま母を引き連れて船に乗り、道を変えながら逃走した。許貢はしばらくして人をやって彼を追わせ、追っ手には、もし船上で追い付いたら長江の上ですぐさま彼を殺すように、すでに渡り終えていたら諦めろと命じていた。追っ手が高岱とは違う道を取ったので、(高岱は)逃れることができた。誅殺されたとき三十歳余りだった。『江表伝』に言う。当時、道士である琅邪の于吉という者があり、以前は東方に寓居していたが、呉会(呉郡・会稽)に往来し、精舎を立て、香を焚いて道術の書物を読み、掟を定め、呪符や神水を作って病気を治療した。呉会の人々の多くが彼に師事した。孫策がかつて郡の城門矢倉の上で諸将賓客を集めて宴会を催したとき、于吉は美々しく着飾って小箱を杖にし、漆でこれに絵を描いて仙人鏵と名付け、城門の下を走り過ぎようとした。諸将賓客のうち三分の二は矢倉を下りて彼に拝礼して出迎え、賓客のまとめ役が叱りつけて禁止しても止めさせることはできなかった。孫策はすぐさま命令を下して彼を収監させた。彼に師事する多くの者たちは、みながみな妻女を孫策の母のもとに行かせて彼の助命を請うた。母は孫策に告げた。「于先生は軍を助けて福をなし、将帥兵士を治療看護しています。彼を殺してはいけませんよ。」孫策は言った。「こいつは怪しげなやつで、民衆の心を幻惑させ、遠くにいて諸将に君臣の礼を顧みることを忘れさせ、みながみな孫策を捨てて矢倉を下り彼に拝礼したのです。排除しない訳にはいかないのです。」諸将はまた連名で(手紙を書き)事情を説明して彼の命乞いをした。孫策は言った。「むかし南陽の張津交州刺史だったとき、過去の聖人たちの経典教訓を捨て去り、漢家の法律を廃し、いつも赤い帕頭け、鼓を撃ち琴を掻き鳴らして香を焚き、邪悪な道術の書物を読み、それで教化の手助けにするのだと言っていた。(ところが)突如、南夷に殺されてしまった。これこそ無益の極み(の証拠)であり、諸君らはまだ気付いていないだけなのだ。いまこいつは鬼籍に名を刻まれた。これ以上紙筆を費やさないように。」すぐに彼を斬り捨て、市場に首を掲げた。彼に師事する多くの者たちは、それでも彼が死んだと思わず、尸解したのだと言って、またもや祭祀を行って御利益を求めた。『志林』に言う。むかし順帝の御代、琅邪の宮崇が殿上に参り、師の于吉が曲陽の泉のほとりで得たという神書を献上した。白い絹に朱の罫線を引いており、『太平青領道』と号し、およそ百巻余りであった。順帝の御代から建安年間まで五・六十年は経っていて、于吉は当時、百歳に近かった。老人・幼児には礼によって刑罰を加えないことになっている。また天子は狩りに出たとき、百歳の者がいるかを訊ね、その人に会いに行くことになっており、齢を重ねたことを敬い親愛する。聖王の教化の極致である。于吉の罪過は死刑に相当するものではないのに、むやみに酷刑を加えてしまった。これは誤った誅戮であり、褒められたことではない。(虞)喜が推考するに、桓王(孫策)が薨じたのは建安五年四月四日である。このとき曹(操)・袁(紹)は攻撃しあっていて、まだ勝敗が付いていなかった。夏侯元譲夏侯惇)が石威則に手紙を与えたのを調べると、(時期は)袁紹が敗れたあとである。手紙では「孫賁に長沙を授け、張津に零(陵)・桂(陽)を営業させる」と言っており、これからすると桓王が先に亡くなり、張津が後に死んだのであり、張津の死を引き合いに出して難詰することなどできないのである。臣裴松之は考える。太康八年(二八七)、広州大中正王範が『交広二州春秋』を献呈した。(それによると)建安六年、張津は依然交州牧のままだった。『江表伝』の虚偽は『志林』の言う通りである。『搜神記』に言う。孫策は長江を渡って許を襲撃せんと企てたとき、于吉を随行させていた。そのころ大旱になっており、至るところで猛暑に苦しんだ。孫策は将帥兵士を急き立てて、速やかに船を進めさせ、ときには朝早く出かけて自ら督促したりもしていた。将帥官吏の多くが于吉のもとにいるのを見ると、孫策はそのことで激怒した。「我が于吉に及ばないとでも言うのか。それで真っ先に彼のもとに走って仕えておるのか?」と言い、すぐさま于吉を逮捕させた。(于吉が引き出されて)来ると、彼を叱り飛ばしながら「日照りつづきで雨が降らず、道路は渋滞していてなかなか通過できないでいる。それゆえ朝早く自ら出かけているのだ。それなのに卿は憂慮を共にせず、安閑と船中に居座って鬼の態をなし、吾が隊伍をぶち壊してしまう。今度こそ排除してやるぞ」と責め立て、人に命じて縛ったまま地上に置いて日に晒し、雨乞いをさせ、もし天を感応させて真昼までに雨を降らせれば赦免してやろう、さもなくば誅殺するぞといった。にわかに雲気が立ち上り、たちまち合し、真昼になるころには大雨が一斉に降り下り、谷間に満ちあふれた。将士は大喜びして、于吉はきっと赦されるだろうと思い、みんなで見舞いに行った。孫策はついに彼を殺してしまった。将士は哀惜し、一緒に彼の亡骸を隠した。夜になると、忽然としてまたもや雲が湧き起こって彼(の亡骸)を覆い、翌朝行ってみると、(亡骸が)どこにあるか分からなくなっていた。『江表伝』『搜神記』を調べてみると、于吉の記事が同じでなく、どちらが正しいのか分からない。

[二] 『江表伝』に言う。広陵太守陳登射陽で統治を執っていた。陳登は陳瑀の従兄(陳珪)の子で、孫策が以前西征に出たとき、陳登は再び密かに間者を遣し、印綬を厳白虎の残党に与え、背後から侵害させようと計画し、それによって陳瑀が彼に破れた恥辱を晴らそうとした。孫策は帰還すると再び陳登を討伐した。軍勢が丹徒に到達したところで、軍糧の補給を待つことになった。孫策は根っからの狩猟好きで、歩騎を引き連れて何度も出かけた。孫策は馬を駆って鹿を追いかけたが、乗っていた馬は精悍駿逸であり、随従していた騎兵たちはまったく追い付くことができなかった。むかし呉郡太守許貢は漢帝に上表して「孫策の驍勇雄図は項籍(項羽)に瓜二つでございます。貴職恩寵を加えられ、京邑に召還すべきと存じます。詔勅を被れば還らざるを得ないでしょう。もし外部に放っておけば、必ずや御世の患いとなりましょう」と言ったが、孫策の斥候が許貢の上奏文を手に入れて孫策に見せた。孫策は許貢に面談を申し入れ、許貢を責めなじったところ、許貢が上表なぞしておらぬと言い訳をしたので、孫策はその場で武士に命じて彼を絞め殺させた。許貢の奴客は民衆の間に潜み、許貢のために復讐しようと考えていた。狩猟に出た日、に三人の者が現れたが実は許貢の奴客であった。孫策が「たちは何者か?」と質問すると、「これらは韓当の手兵であります。ここにいて鹿を射ておりました」との答えだった。孫策は言った。「韓当の手兵ならば吾はすべて見知っておるが、未だかつて汝たちを見たことはないぞ。」そこで一人を射ると、弦に応じて倒れた。残りの二人は恐れ慌てて、すぐに弓を掲げて孫策を射ち、頬に命中させた。後続の騎兵が続々とやってきて、みなで彼ら(許貢の奴客)を刺殺した。『九州春秋』に言う。孫策は曹公が柳城に北征したと聞き、江南の軍勢を残らず動員し、自ら大司馬を号し、北進して許を襲撃せんとしたが、その武勇をたのみとして行軍中も準備を設けなかったため、遭難するはめになったのである。孫盛の『異同評』に言う。およそこの数点の書物には、おのおの至らぬ点がある。孫策は威信を長江の彼方に行き渡らせ、ほぼ六郡を領有していたとはいえ、しかし黄祖がその上流で水運を利用し、陳登はその心腹にあって隙を窺い、そのうえ深く険しい地には強力な宗民があり、まだ全てが帰服したわけではなかった。曹(操)・袁(紹)は虎のごとく争い、山海をも傾けるほどの勢いであった。孫策がどうしてはるばる汝(南)・潁(川)まで出征し、そのうえ帝を呉・越に遷座させる余裕があろうか?こういったことは、思うに凡人なみの観察であろう。ましてや孫策ほど時勢に通達した者ではどうだろうか?また考えるに、袁紹は建安五年に黎陽に着陣しており、そして孫策は四月に遭害している。それなのに『(三国)志』では、孫策は曹公と袁紹が官渡において対峙したことを聞いたと言う。誤謬である。陳登討伐の記述の方に根拠があると言うべきだ。また『江表伝』の説では、孫策が韓当の手の兵士をすべて見知っていたといい、彼らが嘘を吐いていると疑い、即座に一人を射殺したとする。そもそも三軍の将帥兵士のなかには新附の者もあろうに、孫策は大将でありながら、どうしてすべて見知ることなどできようか?見知らぬ者だからといって即座に射殺するなど、それは論外というものだ。また孫策が殺されたのは(建安)五年のこと、柳城の戦役は十二年のことであり、『九州春秋』の乖離倒錯は最もひどいものだ。臣裴松之は考える。『傅子』でも、曹公が柳城に出征したとき許を襲撃しようとしたと言っている。このようなことを記述するとは、なんとお粗末なことであろうか!しかしながら、孫盛の非難もまだ全部が正しいとは言えない。黄祖は初めて孫策に破られたところで魂魄を取り戻すことができず、し劉表と君臣であったがもともと兼有併合の志なく、上流を抑えていたとはいえ、どうして呉会を企図していたとして扱うことができようか?孫策のその挙動は、理屈からいってまず陳登を企図したはずだ。ただし挙兵の理由は陳登だけに留まるものではない。当時、強力な宗民の驍悍な将帥、祖郎・厳虎の一党などは、捕虜となり滅亡してすでに姿を消し、残りは山越などがいたが、思うにどうして憂慮となりえようか?だとすれば、孫策の企図について、余裕がなかったと言うことはできないのである。もし孫策が志を得て大権を手に入れたならば、淮水・泗水の流域のどこにでも都にできるのであって、どうして長江の彼方で志を終わらせ、帝を揚・越の地に遷座させる必要があろうか?『魏武帝紀』を調べてみると、武帝は建安四年にはすでに官渡に進駐しており、孫策が死去する以前から、長く袁紹と交戦していたのであり、すなわち『(三)国志』の言うのも誤謬ではないのである。許貢の奴客は無名の小人であったが、よく恩愛寵遇を感じ認識し、義挙に臨んでは生命を忘れ、卒然として奮い立ったのは古代の烈士のおもかげがあった。『詩(経)』に言う。「君子に立派な計画があれば、小人も参与帰属する」、と。許貢の奴客がそれであった。

[三] 『呉歴』に言う。孫策が負傷したのち、医者は「よくよく我が身を大切に守り、百日のあいだ体を動かさなければ治りますよ」と言った。孫策は鏡を取り寄せて自分自身を映すと、左右の者に言った。「こんな顔になったというのに、それでもまた功績を挙げて事業を立てることができようか?」牀几を推しのけて大昂奮したので、傷口はみな分かれ裂けてしまい、須臾にして卒去した。『搜神記』に言う。孫策は于吉を殺したのち、いつも一人で座っているときは、ぼんやりと左右に于吉がいるのを見ていた。心中ひどくそれを憎らしく思い、すこぶる常軌を逸していた。のちに傷が治りかけたとき、鏡を取り寄せて自分自身を映すと、鏡の中に于吉がいるのが見えた。振り返っても(彼の姿は)見えず、こうしたことが二・三度あって、ついに鏡を殴りつけて大声で叫び、傷口はみな崩れ裂けてしまい、須臾にして死去した。

孫権は尊号を称すると、孫策に追諡して長沙桓王と言い、子の孫紹を封じて呉侯とし、のちに改めて上虞侯に封じた。孫紹が卒去すると、子の孫奉が後を嗣いだが、孫皓の時代、孫奉が擁立されるという出鱈目な噂が立ち、誅殺された。