利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

李典伝

李典曼成といい、山陽鉅野の人である。李典の伯父李乾は俠気のある人物で、食客数千家を結集して乗氏に住んでいたが、初平年間(一九〇~一九四)、人々を従えて太祖曹操)に帰服した。寿張黄巾賊を撃ち破り、従軍して袁術を攻撃し、徐州を征討した。呂布が叛乱を起こすと、太祖は李乾を乗氏に帰して諸県を慰撫させた。呂布の別駕薛蘭治中李封は、一緒に謀叛しようと李乾を誘ったが、李乾が聞き入れなかったので彼を殺した。太祖は李乾の子李整に李乾の軍勢を統率させ、諸将とともに薛蘭・李封を攻撃させた。薛蘭・李封が敗北したのち、兗州諸県の平定に従軍して武功を挙げたので、次第に昇進して青州刺史となった。李整が卒去すると、李典は潁陰県令に異動となり、中郎将に任じられて李整の軍勢を統率し、[一]離狐太守に転任した。

[一] 『魏書』にいう。李典は若いころから学問を好み、軍事を遠ざけていた。師について『春秋左氏伝』を読み、多くの書物に目を通した。太祖はこれを評価して、人民統治をさせて彼を試すことにした。

当時、太祖は官渡袁紹と対峙していたが、李典は一族郎党を動員して食糧や物資を運び、それを軍に提供した。袁紹が敗北すると李典は裨将軍となり、安民に駐屯した。太祖は黎陽袁譚・袁尚を攻撃したとき、李典・程昱らに船で兵糧を運漕させた。たまたま袁尚は魏郡太守高蕃を派遣し、軍勢を率いて黄河のほとりに駐屯させて航路を分断した。太祖は李典・程昱に「もし船が運航できなくなったら陸路を使うように」と述べていたが、李典は諸将と相談して「高蕃の軍勢は軽装で、水を頼みにしているので油断している。攻撃すれば必ず勝てるぞ。軍を制御するのは中央ではない。国家に利益があるならば、独断で動かしてもよいものだ。ただちに攻撃すべきだ」と言うと、程昱も賛成した。こうして黄河を北に渡り、高蕃を攻撃して破り、水上交通を回復した。劉表劉備に命じて北方に侵出させ、劉備はまで進んだ。太祖は李典を夏侯惇に従わせて劉備を防がせた。ある朝、劉備は陣営を焼いて撤退したので、夏侯惇は諸軍を率いて追撃しようとした。李典は「賊が理由もなく退くからには、必ず伏兵があるに違いありませんぞ。南への道は狭いうえに草木が深いので、追うべきではありません」と諫めたが、夏侯惇は聞き入れず、于禁とともに追撃し、李典を留守に残した。はたして夏侯惇らは賊の伏兵に囲まれ、戦闘は不利となったが、李典が到着して彼らを救ったので、これを見た劉備はちりぢりになって退却した。包囲戦に従軍し、鄴が平定されると、楽進とともに壺関高幹を包囲し、また長広管承を攻撃し、いずれも打ち破った。捕虜将軍に転任し、都亭侯に封ぜられた。李典の一族郎党三千余家は乗氏に住んでいたが、李典は自ら魏郡に移住させることを申し出た。太祖が笑いながら「耿純に倣うおつもりなのか」と言うと、李典は頭を垂れながら「李典はのろまで臆病、功績もわずかなのに、爵位も恩寵も過分に頂いておりますから、一族を挙げて力を尽くすのが当然です。それに征伐はまだ終わってませんから、まず首都圏(魏郡)を充実させて四方を制すべきで、耿純を倣うどころではありません」と答えた。こうして一族郎党一万二千余人を(魏郡の)鄴に移住させた。太祖はこれを嘉し、破虜将軍に昇進させた。張遼・楽進とともに合肥に駐屯したとき、孫権が軍勢を率いて彼らを包囲した。張遼は命令書を奉じて出撃しようと望んだが、楽進・李典・張遼は普段からみな仲が悪かったので、彼らが賛成しないのではないかと心配した。李典は慨然として「これは国家の大事です。君の計略がどうかを顧みるだけで、は私怨をもって公義を忘れることができましょうか!」と言った。こうして張遼とともに軍勢を率いて孫権を敗走させた。所領百戸を加増され、以前と合わせて三百戸になった。李典は学問を好んで儒学の雅を尊び、諸将と功を争わないで賢士大夫を尊敬し、うやうやしくすること限りなかったので、軍中はみな彼の長者ぶりを称えた。三十六歳で薨去し、子の李禎が嗣いだ。文帝曹丕)は践祚すると、合肥での彼の功績を思い起こし、李禎の所領に百戸を加増し、李典の一子に関内侯の爵位を賜って所領百戸とした。李典をして愍侯と言った。