利用許諾契約書

このurlで示される文書はGFDLに基づいて利用することができます(GFDL日本語訳)。ただしこの利用許諾契約書そのものは改変できません。

原著作者:【むじん書院】

魏書十八 三国志十八 二李臧文呂許典二龐閻伝第十八

李典伝

李典曼成といい、山陽鉅野の人である。李典の伯父李乾は俠気のある人物で、食客数千家を結集して乗氏に住んでいたが、初平年間(一九〇~一九四)、人々を従えて太祖曹操)に帰服した。寿張黄巾賊を撃ち破り、従軍して袁術を攻撃し、徐州を征討した。呂布が叛乱を起こすと、太祖は李乾を乗氏に帰して諸県を慰撫させた。呂布の別駕薛蘭治中李封は、一緒に謀叛しようと李乾を誘ったが、李乾が聞き入れなかったので彼を殺した。太祖は李乾の子李整に李乾の軍勢を統率させ、諸将とともに薛蘭・李封を攻撃させた。薛蘭・李封が敗北したのち、兗州諸県の平定に従軍して武功を挙げたので、次第に昇進して青州刺史となった。李整が卒去すると、李典は潁陰県令に異動となり、中郎将に任じられて李整の軍勢を統率し、[一]離狐太守に転任した。

[一] 『魏書』にいう。李典は若いころから学問を好み、軍事を遠ざけていた。師について『春秋左氏伝』を読み、多くの書物に目を通した。太祖はこれを評価して、人民統治をさせて彼を試すことにした。

当時、太祖は官渡袁紹と対峙していたが、李典は一族郎党を動員して食糧や物資を運び、それを軍に提供した。袁紹が敗北すると李典は裨将軍となり、安民に駐屯した。太祖は黎陽袁譚・袁尚を攻撃したとき、李典・程昱らに船で兵糧を運漕させた。たまたま袁尚は魏郡太守高蕃を派遣し、軍勢を率いて黄河のほとりに駐屯させて航路を分断した。太祖は李典・程昱に「もし船が運航できなくなったら陸路を使うように」と述べていたが、李典は諸将と相談して「高蕃の軍勢は軽装で、水を頼みにしているので油断している。攻撃すれば必ず勝てるぞ。軍を制御するのは中央ではない。国家に利益があるならば、独断で動かしてもよいものだ。ただちに攻撃すべきだ」と言うと、程昱も賛成した。こうして黄河を北に渡り、高蕃を攻撃して破り、水上交通を回復した。劉表劉備に命じて北方に侵出させ、劉備はまで進んだ。太祖は李典を夏侯惇に従わせて劉備を防がせた。ある朝、劉備は陣営を焼いて撤退したので、夏侯惇は諸軍を率いて追撃しようとした。李典は「賊が理由もなく退くからには、必ず伏兵があるに違いありませんぞ。南への道は狭いうえに草木が深いので、追うべきではありません」と諫めたが、夏侯惇は聞き入れず、于禁とともに追撃し、李典を留守に残した。はたして夏侯惇らは賊の伏兵に囲まれ、戦闘は不利となったが、李典が到着して彼らを救ったので、これを見た劉備はちりぢりになって退却した。包囲戦に従軍し、鄴が平定されると、楽進とともに壺関高幹を包囲し、また長広管承を攻撃し、いずれも打ち破った。捕虜将軍に転任し、都亭侯に封ぜられた。李典の一族郎党三千余家は乗氏に住んでいたが、李典は自ら魏郡に移住させることを申し出た。太祖が笑いながら「耿純に倣うおつもりなのか」と言うと、李典は頭を垂れながら「李典はのろまで臆病、功績もわずかなのに、爵位も恩寵も過分に頂いておりますから、一族を挙げて力を尽くすのが当然です。それに征伐はまだ終わってませんから、まず首都圏(魏郡)を充実させて四方を制すべきで、耿純を倣うどころではありません」と答えた。こうして一族郎党一万二千余人を(魏郡の)鄴に移住させた。太祖はこれを嘉し、破虜将軍に昇進させた。張遼・楽進とともに合肥に駐屯したとき、孫権が軍勢を率いて彼らを包囲した。張遼は命令書を奉じて出撃しようと望んだが、楽進・李典・張遼は普段からみな仲が悪かったので、彼らが賛成しないのではないかと心配した。李典は慨然として「これは国家の大事です。君の計略がどうかを顧みるだけで、は私怨をもって公義を忘れることができましょうか!」と言った。こうして張遼とともに軍勢を率いて孫権を敗走させた。所領百戸を加増され、以前と合わせて三百戸になった。李典は学問を好んで儒学の雅を尊び、諸将と功を争わないで賢士大夫を尊敬し、うやうやしくすること限りなかったので、軍中はみな彼の長者ぶりを称えた。三十六歳で薨去し、子の李禎が嗣いだ。文帝曹丕)は践祚すると、合肥での彼の功績を思い起こし、李禎の所領に百戸を加増し、李典の一子に関内侯の爵位を賜って所領百戸とした。李典をして愍侯と言った。

李通伝

李通文達といい、江夏平春の人である。[一]俠気があったので(長)江・汝(水)地方で名を知られていた。同郡の陳恭とともに朗陵で挙兵すると、多くの人々が彼らに服従した。当時、周直という人物がいて、二千余家の人々を抱えて陳恭・李通と手を結んでいたが、表面的には協調しながら内心は裏切ろうとしていた。李通は周直殺害を計画しようとしたが、陳恭が難色を示したので、彼の決断力の無さを知って一人で計画を決め、周直と会合を約束し、酔いが回ったところで周直を殺した。人々は大騒ぎとなったが、李通は陳恭を連れて周直の幹部たちを殺し、彼の軍勢をみんな奪い取った。のちに陳恭の妻の弟陳郃が、陳恭を殺して彼の軍勢を我が物としたので、李通は陳郃の軍勢を攻撃し、陳郃の首を斬って陳恭の墓に祭った。また黄巾大帥呉霸を生け捕りにして、彼の手下たちを降伏させた。ちょうど大飢饉の歳にあたり、李通は家財をなげうって施しをし、兵士と糟糠を分け合ったので、みな争って彼のために用事をし、そのため盗賊たちも敢えて犯そうとしなかった。

[一] 『魏略』に言う。李通の小字万億といった。

建安年間(一九六~二二〇)の初め、李通は軍勢を連れて太祖曹操)に帰服した。李通は振威中郎将を授かり、汝南の西境に駐屯した。太祖が張繡を討とうとすると、劉表が兵を遣して張繡を助けたので、太祖は戦いに不利であった。李通が兵を率いて、夜になって太祖の元に駆け付けたので、太祖はふたたび戦うことができた。李通は先鋒となり、大いに張繡軍を破った。裨将軍を拝命し、建功侯に封ぜられた。汝南郡から二県が分割され、李通は陽安都尉に任じられた。李通の妻の伯父が法を犯し、朗陵県長趙儼が取り調べにあたり、大罪(死罪)に相当するとした。そのころ死刑執行の命令は州牧太守が出すことになっていたので、李通の妻子は号泣して命乞いをした。李通は言った。「曹公と力を合わせているからには、私情によって公務をおろそかにしないのが義理というものだ。」そして趙儼が法務に携わって阿諛迎合しないことを評価し、彼と付き合って親交を結んだ。太祖が官渡袁紹と対峙すると、袁紹は使者を派遣して李通を征南将軍に任じようとした。劉表も密かに李通を味方にしようとしたが、李通はいずれも拒絶した。李通の親戚や部下たちは涙を流しながら言った。「ただいま孤立して危険のなか一人で城を守っておりますが、救援の大軍はやって来ず、滅亡は立って待つばかりです。今すぐ袁紹に従うのが一番です。」李通は剣を押さえて彼らを叱りつけた。「曹公は明哲な人物であって必ず天下を平定できる。袁紹は強盛といっても任用にけじめがなく、しまいには捕虜になるだけだろう。わしは死んでも二心は持たないぞ。」そして袁紹の使者を斬り、(征南将軍の)印綬を送付して太祖に帰服することにした。羣賊の瞿恭・江宮・沈成らを攻撃し、彼らの軍勢を殺し尽くし、その首を(曹操に)送った。こうしてついに淮(水)・汝(水)地方を平定したので、改めて都亭侯に封ぜられ、汝南太守に昇進した。当時、賊の張赤らが五千余家を桃山に集めていたが、李通はこれを攻め破った。劉備周瑜とともに江陵城で曹仁を包囲し、別働隊として関羽に北道を分断させた。李通は軍勢を率いてこれを攻撃し、馬を下りて鹿角を抜き、包囲陣に入っては戦いながら突き進み、曹仁軍を救った。その武勇は諸将随一であった。李通は道中で発病して薨去した。時に四十二歳であった。所領二百戸を追増され、前と合わせて四百戸となった。文帝曹丕)が践祚すると、して剛侯とされた。詔に言う。「むかし袁紹の困難にあって、許・蔡より南では人々はみな異心を懐いていた。李通は義を守って顧みることなく、二心を懐く者たちを屈服させた。朕ははなはだこれを嘉する。不幸にして早く薨じ、子の李基がすでに爵位を継承したとはいえ、まだその勲功に酬いるには足りない。李基の兄李緒は以前、城に駐屯して功績があった。その功労は世に篤かったので、李基を奉義中郎将、李緒を平虜中郎将とし、この恩寵をもって差別する。」[一]

[一] 王隠の『晋書』に言う。李緒の子李秉は字を玄胄といい、俊才があって、当時の人々に尊敬され、官は秦州刺史まで昇った。李秉はかつて司馬文王司馬昭)の問いに答えたことがあったが、それにより『家誡』を作って言った。むかし先帝の側にお仕えしたことがあるが、当時三人の長官が罷免された。(彼らが)退出しようとしたとき、(司馬昭)はおっしゃった。「官吏の長となったからには清潔であれ、慎重であれ、勤勉であれ。この三つを心がければ、どうして治まらないことを心配する必要があるだろう?」それぞれに詔を受けて、(彼らが)退出すると、上は振り返って我々におっしゃった。「戒めようとするならば、正にこうあるべきだと思うがどうか?」お側の知恵者たちのうち賛嘆しない者はなかった。上はまた問われた。「どうしても叶わないとすれば、この三つのうち何を第一とすべきだろうか?」ある者がお答えして申し上げた。「清潔こそ根本とすべきでしょう。」次ぎにまた私に問われたので、お答えして申し上げた。「清潔さと慎重さの道は、互いに助け合って成り立っておりますが、どうしても叶わないならば、慎重さの方が大切でしょう。清潔な者が必ずしも慎重とは限らず、慎重な者が必ず清潔であろうとすることは、ちょうど仁徳のある者には必ず勇気もあって、勇気のある者に必ずしも仁徳があるとは限らないようなものです。これを『易経』では『袋をくくってお咎めなし、敷物に白茅を用いる』と申します。みな慎重さの極致であります。」上はおっしゃった。「の言葉はもっともじゃ。近世でよく慎んだ者といえば誰であろうか?」人々がまだお答えすることができないうちに、私は太尉荀景倩尚書董仲連僕射王公仲の名を挙げて、みな慎重であったと言うべきです(と申し上げた)。上はおっしゃった。「そうした人々が温恭であることは朝夕ずっとで、仕事をするときも慎みを持っていた。おのおの慎重であった。しかし天下第一に慎重さを極めているのは、阮嗣宗阮籍)ではないだろうか!つねづね彼と語り合っておるが、言葉は幽玄の境地におよび、しかしながら、未だかつて時事を評論したり、人物を批評したりはしない。真に慎重さの極致と言うべきであろうか。」私はいつもこのお言葉を思い出すたび、これもまた明らかな戒めとするに充分だと考えるのだ。だいたい人が仕事を行うには、年少のころから身を立てて、慎まなければならない。軽々しく人物を論じてはならず、軽々しく時事を説いてはならない。このようにしていれば、どうして後悔などが生じるだろうか。災禍は訪れるすべもないだろう、と。李秉の子李重の字は茂曾といい、若いころから名を知られ、官位は吏部郎平陽太守を歴任した。『晋諸公賛』に言う。李重は清潔さ、高尚さを称せられた。相国趙王司馬倫は、李重に名声があったことから右司馬に招いた。李重は司馬倫が叛乱を起こそうとしていたので、病を理由に官に就かなかった。司馬倫は彼に迫って諦めなかったので、李重はついに生の望みを棄て、危篤に陥ってから参上し、助け起こされながら任命を受けたが、数日して卒去し、散騎常侍の官を追贈された。李重の二人の弟は、李尚の字を茂仲といい、李矩の字を茂約といったが、永嘉年間(三〇七~三一三)にいずれも郡を司り、李矩は江州刺史まで昇った。李重の子李式は字を景則といい、官は侍中まで昇った。

臧霸伝

臧霸宣高といい、泰山の人である。父の臧戒は県の獄掾となり、太守が私情で(被告人を)死刑にしようとしたが、法律を根拠にして命令を聞かなかった。太守は大いに怒って、臧戒を逮捕して役所に連行させた。このとき護送する者は百余人もいた。臧霸は十八歳であったが、食客数十人を引き連れ、ただちに県の西の山中で待ち伏せして父を奪い返すと、護送する者はあえて動こうとはしなかった。こうして父とともに東海国に亡命したが、この事件によって勇壮であるとの評判が立てられた。黄巾の乱が起こると、臧霸は陶謙に従って賊を撃破し、騎都尉の官を拝した。ついに徐州で兵を募集し、孫観・呉敦・尹礼らとともに軍勢を集め、臧霸は総帥となって開陽した。太祖曹操)が呂布を討伐することになると、臧霸たちは兵を率いて呂布を支援した。呂布が捕らわれると臧霸は身を隠した。太祖は公募して臧霸を探しあて、会ってみて彼を評価し、臧霸をやって呉敦・尹礼・孫観・それに孫観の兄孫康らを招かせると、みな太祖のもとにやって来た。太祖は臧霸を琅邪国のに任じ、呉敦を利城太守、尹礼を東莞太守、孫観を北海太守、孫康を城陽太守とし、青州と徐州を分けて臧霸に委任した。太祖は兗州にいたころ徐翕・毛暉を部将に取り立てていた。兗州が乱れると徐翕・毛暉はみな叛いた。のちに兗州が平定されると、徐翕・毛暉は亡命して臧霸のもとに身を寄せた。太祖は劉備と話をして、臧霸に二人の首を送るように話を付けさせることにした。臧霸は劉備に言った。「臧霸がよく自立できるのは、そのようなこと(見捨てること)をしないからです。臧霸は公(曹操)より命を全うできるようご恩を受けましたから、あえてご命令に背こうとは思いません。しかし王霸の君主に正義について述べることはよしとされています。将軍にお願いしたい。彼らのために弁明してやってください。」劉備は臧霸の言葉を太祖に告げると、太祖は歎息して臧霸に言った。「これは古人の行ったことだが、それを君がよく行うのは、の願いでもある。」そこで徐翕・毛暉をいずれも郡守(太守)とした。当時、太祖は袁紹と対峙していたが、臧霸はしばしば精兵を率いて青州に入ったので、太祖は袁紹のことに専念することができ、東方のことを心配しなかった。太祖が南皮袁譚を破ると、臧霸らは集まって祝賀を述べた。臧霸はこの機会に、自分の子弟や諸将の父兄家族をに移住させるよう申請した。太祖は言った。「諸君の忠孝は、もうこれほどであったのか!むかし蕭何が子弟を仕官させたのを高祖劉邦)は拒まなかった。耿純が家屋を焼いて棺をかついで従ったのを光武帝は反対しなかった。どうしてがそれを軽視するものか!」東方の州に騒擾が起こると、臧霸らは正義をかかげて暴悪を征し、海岱地方をすっかり平定してしまい、功績が莫大だったのでみな列侯に封ぜられた。臧霸は都亭侯となって威虜将軍の官を加えられた。また于禁とともに昌豨を討ち、夏侯淵とともに黄巾賊の残党徐和らを討って、功績があったので徐州刺史に栄転した。沛国公武周下邳県令となっていたが、臧霸は武周を尊敬して、みずから県令の役所を訪れた。部従事謥詷(軽薄)であったため法を犯したが、武周はその犯罪が発覚すると、すぐさま逮捕して捜査をやり終えた。臧霸はますます武周を評価した。(太祖に)従って孫権を討伐したとき、先鋒となって再び巣湖に入り、居巣を攻め、これを破った。張遼陳蘭を討つことになると、臧霸は別働隊として皖城に進出し、の将軍韓当を討って孫権の陳蘭救援を阻止しようとした。韓当は兵を派遣して臧霸に抵抗させたが、臧霸はこれと逢龍で戦い、韓当はまたも兵を派遣して夾石で臧霸を迎え撃ったが、(臧霸は)ともに戦ってこれを破り、帰還してに屯した。孫権は数万人を船に乗せて舒口に屯させ、軍勢を分けて陳蘭を救おうとしたが、臧霸の軍が舒にいると聞いて逃げ帰った。臧霸は夜中これを追って、夜が明けるころまでには百余里を行き、賊を迎えて前後から挟撃した。賊は慌てふためいて船に乗ることもできず、水に溺れる者がきわめて多かった。そのため賊は陳蘭を救うことができず、張遼はついにこれを破ることができた。臧霸は(太祖に)従って孫権を濡須口で討ったとき、張遼とともに先鋒となったが、途中で豪雨となり、大軍は先に着いていたが、水位が高まって賊の船が段々と進んで来たので、将士はみな不安になった。張遼は撤退しようとしたが、臧霸は引き留めて言った。「公は利鈍を計ることに明らかです。我々を見捨てるようなことがあるでしょうか?」翌日、はたして(撤退の)命令があった。張遼は到着すると(臧霸の言葉を)太祖に語った。太祖はこのことに感心し、(臧霸に)揚威将軍の官を授け、仮節とした。のちに孫権が降服を乞うたので、太祖は帰還し、臧霸と夏侯惇らに留守を任せて居巣に屯させた。

文帝曹丕)が王位に即くと鎮東将軍に昇進し、爵位は武安郷侯に進められ、都督青州諸軍事となった。(文帝が)践祚するに及んで開陽侯に進められ、良成侯に転封となった。曹休とともに呉の賊を討ち、呂範洞浦で破り、中央に召し返されて執金吾となり、特進の位を与えられた。軍事問題が起こるたび、帝はいつも(彼に)質問した。[一]明帝曹叡)が即位すると、領邑は五百戸に加増され、前と合わせて三千五百戸となった。薨去すると、して威侯とされた。子の臧艾が嗣いだ。[二]臧艾は青州刺史・少府の官まで昇った。臧艾が薨去すると、諡して恭侯とされた。子の臧権が嗣いだ。臧霸には前後して功績があったので、子三人は列侯に封ぜられ、一人は関内侯の爵位を賜った。[三]

[一] 『魏略』に言う。臧霸は別名を奴寇という。孫観は嬰子と名乗り、呉敦は黯奴と名乗り、尹礼は盧児と名乗った。建安二十四年(二一九)、臧霸は別働隊を派遣して洛陽に駐留させた。ちょうど太祖が崩御したとき、臧霸に所属する部隊と青州兵とは、天下が乱れそうだと思い、みな鼓を鳴らしながら勝手に立ち去った。文帝は即位すると、曹休を青州・徐州の都督とした。臧霸は曹休に告げて言った。「国家(天子)はまだ臧霸の意見を聞こうとはなさりません!もし仮に臧霸に歩騎一万人があれば、必ずや江表を行き来してみせましょう。」曹休はこれを帝に言上したが、帝は臧霸の軍兵が以前、勝手に立ち去ったことを疑っており、今このときも意志の雄壮さはこのような有様であった!ついに東方へ巡幸して、臧霸が参内するのを利用して彼の軍兵を取り上げた。

[二] 『魏書』に言う。臧艾は若いころから才能理論を称賛され、黄門郎となり、郡守の位を歴任した。

[三] 臧霸の一子臧舜は字を太伯といい、散騎常侍になったことが『武帝百官名』に見える。この『百官名』は誰が編集したのかわからない。(人物の)それぞれに題目があって、臧舜を「才気はまっすぐに伸びており、見識はよく時宜を助けた」と称えている。

孫観伝

そして孫観もまた青州刺史にまで昇り、仮節となって、太祖に従って孫権を討ったとき、戦ううち傷を負って薨去した。子の孫毓が嗣ぎ、やはり青州刺史にまで昇った。[一]

[一] 『魏書』に言う。孫観は字を仲台といい、泰山の人である。臧霸とともに挙兵し、黄巾を討って騎都尉に任じられた。太祖は呂布を破ったとき、臧霸をやって孫観兄弟を招かせ、彼らをみな厚遇した。臧霸とともに戦ったが、孫観はいつも先鋒となった。青州・徐州の羣賊を征伐し、功績は臧霸に次ぎ、呂都亭侯に封ぜらた。孫康もまた功績を立てて列侯に封ぜらた。太祖とともに南皮に集まったおり、子弟を鄴に移住させた。孫観は偏将軍を拝命し、青州刺史に昇進した。(太祖に)従軍して濡須口で孫権を征伐し、仮節となった。孫権を攻めているとき、流れ矢に当たって左足を負傷したが、戦いに力を尽くして顧みようとしなかった。太祖は彼をねぎらって言った。「将軍の怪我は重傷なのに、勇猛な気力はますます奮い立っている。お国のため我が身を惜しむべきではないかな?」振威将軍に栄転したが、傷が深く、そのまま卒去してしまった。

文聘伝

文聘仲業といい、南陽の人である。劉表の大将となり、北方の防御に当たらせられた。劉表が死んで、その子劉琮が立ったが、太祖曹操)が荊州を征伐すると、劉琮は州を挙げて降伏した。(太祖は)文聘を呼んで行動を共にしようと望んだが、文聘は言った。「文聘は州を全うすることができませんでした。罪に服するのを待つばかりです。」太祖が漢水を渡ると、文聘が太祖のもとに参詣したので、太祖は質問して言った。「なぜ来るのが遅れたのか?」文聘は言った。「先日は劉荊州(劉表)を補弼して国家を奉じることができず、荊州が没したとはいえ、漢川に拠って守り、領土の国境を保全し、生きては遺児(劉琮)に背かず、死んでは地下(劉表)に恥じないことをつねづね願っておりました。しかし計略はすでに失敗し、この有様になってしまいました。まことに悲しみと慚愧の思いを抱き、早くお目見えする顔もなかったのです。」ついに涙を流してむせび泣いた。太祖はそれに愴然となって言った。「仲業、は真の忠臣である。」礼を厚くして彼を待遇した。文聘に兵を授け、曹純とともに長阪劉備を追討させた。太祖は先に荊州を平定したが、江夏郡はと接していたので、民心は不安であった。そこで文聘を江夏太守とし、北方の兵を管轄させ、国境地帯の事を委任して、関内侯の爵位を賜った。[一]楽進とともに尋口関羽を討ち、戦功があったので延寿亭侯に進められ,討逆将軍の官を加えられた。また関羽の輜重を漢津で攻撃し、彼の船を荊城で焼いた。文帝曹丕)は践祚すると、爵位を長安郷侯に進めて仮節とした。夏侯尚とともに江陵を包囲したとき、文聘に別途、沔口に屯させた。石梵に宿泊して、みずから一隊に当たり、賊を防いで武功があり、後将軍に栄転して新野侯に封ぜられた。孫権は軍勢五万を率いてみずから石陽で文聘を包囲し、非常に激しい勢いであったが、文聘は堅く守って動揺しなかったので、孫権は二十日余りもすると包囲を解いて去った。文聘は追撃してこれを破った。[二]所領五百戸を加増され、以前と合わせて千九百戸となった。

[一] 孫盛は言う。父を助け君に仕える。忠孝の道は一つである。臧霸は若くして孝烈の評判があり、文聘は垂泣の誠心を表した。それによって魏武(曹操)は同じ態度で報い、彼らに二方面の任務を委ねたのである。ただ荒武者が騒動の中で認められただけではないのだ!

[二] 『魏略』に言う。かつて孫権が自ら数万の軍勢を率いて突然にやって来たことがある。時に大雨となって城柵は崩壊していたが、人民が田野に散在していたため、未だに補修されていなかった。文聘は孫権が来たことを聞いたが、なすすべを知らなかった。そして沈黙して彼に疑いを抱かせる以外にないと考えた。そこで城中の人に姿を見せないように戒め、また自分は官舎の中に横たわって立ち上がろうとしなかった。孫権は果たして疑念を持ち、彼の手下に語って言った。「北方ではこの人が忠臣であることから、彼にこの郡を委任したのだ。いまが来たのに動かないでいる。もし密計がないとすれば、必ず外から救援があるはずだ。」遂にあえて攻めることなく撤退した。『魏略』のこの言葉は本伝と反対である。

文聘は江夏にあること数十年、武威と恩徳があって、名は敵国にも震い、賊はあえて侵入しなかった。文聘の所領を分割して文聘の子文岱列侯に封じ、また文聘の従子文厚に関内侯の爵位を賜った。文聘は薨じ、して壮侯とされた。文岱はまた先に亡くなっていたので、文聘の養子文休が嗣いだ。卒去すると子の文武が嗣いだ。

嘉平年間(二四九~二五四)、譙郡桓禺が江夏太守となったが、清潔・倹約で武威・恩恵があり、名声は文聘に次いだ。

呂虔伝

呂虔子恪といい、任城の人である。太祖曹操)は兗州にいたとき、呂虔が大胆な策略を立てると聞いて従事とし、家子郎党を率いて湖陸を守らせた。襄陵校尉杜松の管轄下の住民炅毋らが叛乱を起こし、昌豨と結んで呼応した。太祖は呂虔を杜松の後任とした。呂虔は到着すると、炅毋と頭目たち、それに同調する数十人の者を招いて酒食を振る舞った。武勇の士を選んで側に潜ませており、呂虔は炅毋らがみんな酔ってしまったのを見て、伏兵たちに彼らを皆殺しにさせた。彼らの兵を慰撫したので、賊たちは静まった。太祖は呂虔を領泰山太守とした。その郡は山海(泰山と東海)に接しており、世が乱れると、人民の多くが隠れていると聞こえていた。袁紹が任命した中郎将郭祖公孫犢ら数十人が山に籠って不法を働き、百姓は彼らに苦しんでいた。呂虔は家子郎党を率いて郡に着任し、恩寵と信義を示したので、郭祖らの一味は皆降服し、山々に逃げ隠れていた者たちも全員出てきて生業に就いた。彼らのうち屈強の者を選んで戦士を補うと、それによって泰山は精兵を手に入れることができ、名声は州郡でも最高になった。済南黄巾賊徐和らは、至る所で地方高官を誘拐し、城邑を攻め立てていた。呂虔は夏侯淵とともに兵を率いて彼らと遭遇戦となり、前後数十度戦って、斬首と捕虜は数千人にもなった。太祖が青州諸郡の兵を率いて東萊の羣賊李条らを討たせると、(呂虔は)功を立てた。太祖の布令に言う。「志を抱いてそれを必ず成し遂げることは、烈士の念願することではないだろうか。は郡に着任して以来、悪党を逮捕して暴徒を討ち、百姓は安心することができた。みずから矢石をかいくぐり、征伐に出ればたちまち勝利を収めた。むかし寇恂汝・潁地方で高名を立て、耿弇青・兗地方で建策した。今もむかしも同じである。」茂才に推挙し、騎都尉の官を加え、郡を司ることは以前通りとした。呂虔は泰山にあること十数年、はなはだ威厳と恩恵があった。文帝曹丕)が王位に即くと、裨将軍の官を加えられ、益寿亭侯に封ぜられ、徐州刺史に遷り、威虜将軍の官を加えられた。琅邪王祥に要請して別駕とし、民事は彼に一任したので、世間の人々はよく賢者を任用したものだと評価した。[一]利城の叛乱者を討伐し、斬首したり捕虜にしたりして功があった。明帝曹叡)が即位すると万年亭侯へ転封となり、所領二百戸を加増され、前と合わせて六百戸となった。呂虔が薨じると、子の呂翻が嗣いだ。呂翻が薨じると、子の呂桂が嗣いだ。

[一] 孫盛の『雑語』に言う。王祥は字を休徴という。性質はいたって孝行で、継母が(彼を)いじめ、いつも王祥に危害を加えようとしたが、王祥はおこたりなく孝養をつくす様子だった。寒さの厳しい月日、継母が「は生魚を食べたいよ」と言うと、王祥は着物を脱いで、氷を割って魚を探そうとしたが、しばらくして堅い氷は解けだし、下から魚が躍り出てきた。そこで持ち帰って差し出した。当時の人々は孝心によって起こったことだと思った。孝養をつくすこと三十余年、母が臨終を迎えたあとはじめて出仕した。当時、誠実さ・純粋さによって重んじられた。王隠の『晋書』に言う。王祥が初めて出仕したとき、年齢五十歳を過ぎていたが、次第に昇進して司隷校尉になり、高貴郷公が入学すると、王祥を三老とし、司空太尉に昇進させた。司馬文王司馬昭)は初めて晋王に昇ったとき、司空荀顗は王祥に敬意を尽くすよう要請したが、王祥は従わなかった。『二少帝紀』に記載がある。武帝司馬炎)が践祚すると、王祥を太保とし、睢陵公に封じた。泰始四年(二六八)、年齢八十九歳で薨じた。王祥の弟王覧は字を玄通といい、光禄大夫である。『晋諸公賛』は王覧を「率直で素朴、行いは最高であった」と称えている。王覧の子孫は繁栄し、多くの賢者・才子を相継いで輩出し、代々の繁栄ぶりは、古今に例が少ないものであった。

許褚伝

許褚仲康といい、譙国の人である。身の丈八尺余り、腰回りは十囲もあって、容貌は雄々しく毅然として、武勇は絶倫であった。漢末、若者や宗族を数千家も集め、みんなで砦を固めて敵を防いだ。当時の汝南葛陂の賊一万人余りが、許褚の砦壁を攻めたとき、許褚の軍勢は少なかったため敵わず、奮戦のすえ疲労は極みに達した。武器も矢玉も尽き果てたので、砦の中の男女に命じ、ほどの石を集めて四隅に置かせた。許褚は石を彼らに向かって投げると、当たるところはみな打ち砕かれた。賊はあえて進もうとしなくなった。食糧が乏しくなったので、賊と偽りの和睦を結び、牛を賊に与えて食糧に交換してもらった。賊が牛を引き取りに来ると、牛はすぐさま逃げ戻ってきた。許褚は陣地の前に出て、片手で牛の尾を後ろから引っ張って、百歩余りも連れてきた。賊軍は驚き、とうとう牛を引き取らずに逃げて行ってしまった。こうして淮・汝・陳・梁の地方では、噂を聞いて、みな彼を恐れ憚るようになった。

太祖曹操)が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて太祖に帰服した。太祖は会見して、彼の雄壮さに「これは樊噲である。」と言った。その日のうちに都尉の官を授け、引き入れて宿衛とした。許褚に従っていた俠客たちを、みな虎士(親衛隊)とした。張繡征伐に従軍して、先登となり、一万ばかりも首を斬り、校尉に昇任した。官渡袁紹討伐にも従軍した。当時の常従士徐他らは謀叛しようと企てていたが、許褚がいつも(太祖の)左右にっていたので、彼を憚って事を起こすことができなかった。許褚が仕事を休んで帰る日を窺って、徐他らは刀を懐にして入っていった。許褚は宿舎まで来たところで心が動き、すぐに引き返して近侍した。徐他らがそうとは知らずに入り、許褚を見て大いに驚愕した。徐他の気色が変じたので、許褚はそれを悟り、すぐさま徐他らを打ち殺した。太祖はますます彼を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さなかった。包囲に従軍し、力戦して武功があり、関内侯の爵位を賜った。潼関韓遂馬超討伐に従軍した。太祖は(黄河を)北に渡ろうとしたが、黄河を渡るまえに兵を先に渡し、自分は許褚と虎士百人余りとともに南岸に留まって後詰めした。馬超が歩騎一万人余りを率い、太祖の軍に殺到し、雨のように矢を降り注がせた。許褚は太祖に申し上げた。「賊が多く来ています。今は兵たちは全て渡りましたから去るべきです。」そこで太祖を支えて船に乗せたが、賊の攻撃が激しく、軍は競って渡ろうとしたので、船は重さのため沈没しそうになった。許褚は船によじのぼろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて太祖を(矢から)庇った。船頭が流れ矢に当たって死ぬと、許褚は右手で船を遡上させ、辛うじて渡ることができた。この日、許褚がいなければ危ないところだった。そののち太祖は韓遂・馬超らとただ一騎で馬上で語り合い、左右の者はみな従うことは許されず、ただ許褚だけを連れて行った。馬超は自分の強力を頼りに、ひそかに太祖に近付いて突き刺そうとしていたが、もともと許褚の勇敢さを聞いていたので、(太祖の)従騎がこれぞ許褚ではないかと疑った。太祖に問うて言った。「公がお持ちの虎侯はいるのか?」太祖は振り返って許褚を指差したが、許褚は目を怒らして彼をにらみつけた。馬超は敢えて動かず、結局おのおの引き返した。のち数日して会戦となり、馬超らを大破し、許褚は自ら首級を挙げ、武衛中郎将に転任した。武衛の称号はこれより始まったのである。軍中では許褚の力が虎のようで、ただ痴(智慧がにぶい)であったので、「虎痴」と呼んでいた。それで馬超が虎侯はと問うたのであるが、今になって天下の称賛を浴びることになり、みな(虎痴が)彼の姓名だと思っている。

許褚の性質は慎み深く法を遵守し、誠実かつ重厚で言葉少なかった。曹仁荊州から来朝して拝謁することになったが、太祖がまだ出てこなかったので中に入ろうとしたところ、宮殿の外で許褚に出会った。曹仁は許褚を呼んで中に座ってくつろいで語ろうとしたが、許褚は「王はお出ましになります。」と言って、すぐ宮殿内に引き返してしまったので、曹仁は彼を恨めしく思った。ある人が許褚を責めて言った。「征南(曹仁)は宗室(皇族)の重臣なのに、へりくだって君をお呼びになったのだ。君はなぜ断ったのだ?」許褚は言った。「彼の人はご一族の重鎮といえども外の諸侯です。許褚は内の臣下の端くれで、大勢で話し合うので充分です。部屋に入ってどんな私的なことをするのでしょう?」太祖は聞いて、いよいよ愛して彼を厚遇し、中堅将軍に転任させた。太祖が崩ずると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝曹丕)が践祚すると万歳亭侯に進められ、武衛将軍に転任し、中軍宿衛禁兵を都督(総轄)し、(文帝とは)非常に親密であった。はじめ許褚が率いて虎士になった者は征伐に従軍し、太祖はみな勇者であると考え、同じ日に部将に取り立て、そののち武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、都尉・校尉は百人余りになり、みな剣客であった。明帝曹叡)が即位すると、牟郷侯に進み、所領は七百戸、子に爵を賜って一人を関内侯とした。許褚は薨じ、壮侯された。子の許儀が嗣いだ。許褚の兄許定も軍功によって振威将軍になって封ぜられ、王道巡回の虎賁を都督した。太和年間(二二七~二三三)、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下して褒めたたえ、また許褚の子孫二人に関内侯の爵を賜った。許儀は鍾会に殺された。泰始年間(二六五~二七五)のはじめ、子の許綜が嗣いだ。

典韋伝

典韋陳留已吾の人である。容貌は巨体であり、膂力は人並み外れ、節義と任俠心を持っていた。襄邑氏は睢陽李永と仇敵となったが、典韋は彼のために報復した。李永はむかし富春県の県長だったので、警護は非常に厳重であった。典韋は鶏酒を載せて車に乗り、訪問者になりすました。門が開くと匕首を懐にして入り、李永を殺して、あわせてその妻も殺し、ゆったりと出てきて車上の刀戟を取り、歩いて出ていった。李永の屋敷は市場に近かったので、市場中はことごとく驚いた。追っ手は数百人いたが、敢えて近付く者はなかった。四・五里も行くと彼らの仲間に遭遇したが、転戦して脱出することができた。これによって豪傑たちに知られるようになった。初平年間(一九〇~一九四)、張邈が義兵を挙げると、典韋は兵士となり、司馬趙寵に属した。牙門旗は長大で掲げられる人がいなかったが、典韋が片手でこれを立てたので、趙寵は彼の才力を異とした。のちに夏侯惇に属し、しばしば首級を挙げて功を立てたので司馬に任じられた。太祖曹操)が濮陽呂布を討伐したとき、呂布は濮陽の西四・五十里のあたりに別働隊を屯させていた。太祖は夜襲をかけて、夜明けごろにはこれを破った。まだ帰り着かないうちに、ちょうど呂布が救援に来て、三方からゆさぶりをかけて攻撃してきた。そのとき呂布は自ら素手で戦い、日の出から午後に至るまで数十合に及び、たがいに激しかった。太祖は突撃隊を募ると典韋が真っ先に進み出たので、募集に応じた者数千人を率いさせ、みな着物を重ね着して鎧を二つ身に着け、楯を棄てて、ただ長矛だけを持って戦闘に参加した。そのとき西方で窮地に陥っていたので、典韋は突き進んでこれにぶつかったが、賊は弓弩を乱発し、矢は雨のように降り注いだ。典韋は視力を失ったので等人に言った。「敵が十歩まで来たら、それを言え。」等人は言った。「十歩です。」また言った。「五歩で言え。」等人は恐怖のため早口で言った。「敵が来ました!」典韋は手に十本余りの戟を持って、叫びながら立ち上がった。立ち向かう者で手応えとともに倒れぬ者はなく、呂布の兵は後ずさりした。ちょうど日暮となり、太祖は撤退することができた。典韋に都尉の官を授けて左右に引き連れ、親衛隊数百人を率いさせて常に大帳の周りを固めさせた。典韋も雄壮であったうえ、彼が率いた兵も全て士卒からの選りすぐりだったので、戦闘になるたび、常に先登となって敵陣を陥れた。昇進して校尉となった。性質は忠義かつ謹厳を極め、いつも昼は日没まで立ち侍り、夜はの左右で眠り、自分の屋敷に帰って寝ることは稀であった。酒食を好み、飲み食いすることは人一倍で、御前で食膳を賜るたび、大きく飲んで長くり、左右から酒を注ぎ、数人増やしてやっと釣り合った。太祖はこれを雄壮だと思った。典韋は大きな双戟と長刀などを愛用したので、そのため軍中は語って言った。「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤をぐ。」

太祖が荊州を征討してまで来ると、張繡が出迎えて降伏した。太祖は非常に喜び、張繡や彼の将帥を招いて、酒を振る舞って大宴会を催した。太祖が盃を配っているとき、典韋は大斧を持って後ろに立ったが、刃渡りは一尺もあり、太祖が配っていく先では、そのつど典韋が斧を持ち上げて彼(張繡ら)を睨みつけた。酒宴が終わるまで、張繡や彼の将帥で敢えて顔を上げて見る者はいなかった。十日余り後、張繡は謀叛し、太祖の陣営を襲った。太祖は陣営を出て戦ったが不利となり、軽装のまま馬に乗って逃げ去った。典韋が門の中で戦ったので、賊は入ることができなかった。兵はばらばらになり他の門から入ってきた。そのとき典韋の将校はまだ十人余りいて、みな死に物狂いで戦い、一人で十人を相手にしない者はなかった。賊は前後から来て次第に数も増え、典韋は長戟を振るって左右に撃ち、戟の枝が入るごとに十本余りの矛が打ち砕かれた。左右にいて死傷した者もほとんどいなくなってしまった。典韋は数十ヶ所の傷を被ったが、短い武器を取って接戦となり、賊が進み出て彼に立ち向かうと、典韋は両脇に二人の賊を抱えて撃ち殺したので、ほかの賊は進み出ることができなかった。典韋はまた進んで敵に突きかかり、数人を殺したが、深手を負って傷口は開き、目を怒らせて大声で罵りながら死んだ。賊は恐る恐る近付いて彼の首を斬り、それを回し合って見せ物とし、軍を覆して彼の躯を見物した。太祖は舞陰まで退却して落ち着いたが、典韋の死を聞いて涙を流し、彼の棺を盗み取ってくる者を募った。自ら親しく立ち会って彼のために哭し、襄邑に送り返して葬らせ、子の典満に官を授けて郎中とした。車駕が通りかかるたび、いつも中牢の生け贄でった。太祖は典韋を思い出し、典満を司馬に任じて身近に引き寄せた。文帝曹丕)は王位に即くと、典満を都尉として関内侯の爵位を賜った。

龐悳伝

龐悳令明といい、南安狟道の人である。「狟」の音は「桓」である。若くして郡吏・州従事となった。初平年間(一九〇~一九四)、馬騰に従い、叛乱した羌族・氐族を撃ち、しばしば功を立てたので、次第に昇進して校尉になった。建安年間(一九六~二二〇)、太祖曹操)が黎陽袁譚・袁尚を討伐すると、袁譚は郭援・高幹らを遣して河東郡を攻略させた。太祖は鍾繇関中の諸将を率いて彼らを討たせた。龐悳は馬騰の子馬超に従い、平陽で郭援・高幹と対峙したが、龐悳は軍の先鋒となり、進んで郭援・高幹を攻め、大いに彼らを破り、自ら郭援の首を斬った。[一]中郎将の官を授かり、都亭侯に封ぜられた。のちに張白騎弘農で叛逆すると、龐悳はまた馬騰に従って彼を征伐し、両殽の間で張白騎を破った。戦闘のたび、常に敵陣に突入したり敵軍を撃退して、武勇は馬騰軍でも随一であった。のちに馬騰は朝廷に召されて衛尉となり、龐悳は留まって馬超に属した。太祖が渭南で馬超を破ると、龐悳は馬超に従って漢陽郡に亡命し、城を守った。のちにまた馬超に従って漢中に出奔し、張魯に従った。太祖が漢中を平定すると、龐悳は人々とともに降伏した。太祖はもともと彼の驍勇を聞いていたので、立義将軍の官を授け、関門亭侯に封じ、所領三百戸とした。

[一] 『魏略』に言う。龐悳は自ら首一級を斬ったが、それが郭援であることを知らなかった。戦いが終わったあと、人々はみな郭援が死んだのに彼の首がないと言った。郭援は鍾繇の甥であった。龐悳が遅れて来ての中から首一つを出すと、それを見た鍾繇は大声で泣いた。龐悳が鍾繇に謝罪すると、鍾繇は言った。「郭援は我が甥だが国賊である。はなぜ謝るのだ?」

侯音・衛開らが城で叛逆すると、龐悳は配下を率いて、曹仁とともに宛城を攻め落として侯音・衛開を斬り、そのまま南に進んで城にし、関羽を討伐した。樊城にいた諸将は龐悳の兄が漢中にいたので、彼をすこぶる疑った。[一]龐悳はつねづね言っていた。「は国恩を受けており、義は死を顕すことにある。我は自ら関羽を撃ちたいと思う。今年中に我が関羽を殺さなければ、関羽が我を殺すだろう。」のちに自ら関羽と交戦し、関羽を弓で狙って額に射当てた。そのころ龐悳はいつも白馬に乗っていて、関羽の軍中では彼を白馬将軍と呼んで、みな恐れ憚った。曹仁は龐悳を樊城の北十里に屯させていたが、ちょうど十日余りも続く長雨となり、漢水は氾濫し、樊城の平地は五・六丈も水没したので、龐悳は諸将とともに堤に登って水を避けた。関羽が船に乗って攻め寄せ、大船で四方から堤の上に矢を降らせた。龐悳は甲冑を身に付けて弓を持ったが、放った矢が当たらぬことはなかった。将軍董衡部曲将董超らが降服しようとしたので、龐悳は彼らを捕まえて斬り捨てた。日の出から力戦を尽くして正午を過ぎたが、関羽の攻撃はますます激しくなるばかりだった。(龐悳の手元の)矢が尽き果てたので、刀剣を手にして接近戦をした。龐悳は督将成何に言った。「は聞く。良将は死に怯えて逃げ延びず、烈士は節を損なって生を求めず、と。今日が我の死ぬ日だ。」戦いながらますます憤怒し、気迫はいよいよ壮烈になった。しかし浸水がひどくなり、軍吏や兵士はみな降服してしまった。龐悳は麾下の将一人、五伯(伍長)二人とともに、弓を引き絞りながら矢の雨をかいくぐり(?)、小船に乗って曹仁の陣営に帰ろうとしたが、水の勢いで船が転覆して弓矢を失った。転覆した船につかまって一人で水中にいたところ、関羽の捕虜になったが、立ったまま跪こうとしなかった。関羽は言った。「卿の兄は漢中にいる。我は卿を将に取り立てたく思っていたが、なぜ早々に降服しなかったのだね?」龐悳は関羽を罵って言った。「小僧め、なぜ降服を言うのか!魏王(曹操)には武装兵百万があって、威信を天下に振るわせておられる。劉備は凡才に過ぎぬ。どうして敵うものか!我は国家の鬼となるとも、賊将にはならぬぞ。」とうとう関羽に殺されてしまった。太祖は聞いて悲しみ、彼のために涙を流した。彼の二人の子を列侯に封じた。文帝曹丕)は王位に即くと、龐悳の墓前に使者をやってを賜った。その(辞令書)に言う。「むかし先軫は首を失い、王蠋を絶たれた。身を棄てて節義を求めること、前代はそれを美挙としている。思うに侯は戦いにおいて果毅を明らかにし、困難を踏み越えて功名を成し遂げた。名声は当時に溢れ、義心は往昔よりも高かった。寡人は哀悼し、諡して壮侯とする。」また子の龐会ら四人に関内侯の爵位を賜り、所領をおのおの百戸とした。龐会の勇烈は父の面影があり、官は中衛将軍まで昇り、列侯に封ぜられた。[二]

[一] 『魏略』に言う。彼の従兄は名を龐柔といい、このときにいた。

[二] 王隠の『蜀記』に言う。鍾会は蜀を平定したとき、前後で鼓吹させ、龐悳の遺体を迎え入れて弔い、に送って葬らせたが、墓の中の首と体は生きているようであった。臣裴松之が案ずるに、龐悳は樊城で死んでおり、文帝が即位すると、また使者を龐悳の墓所にやっている。つまり彼の遺体は蜀にあるはずがない。これは王隠の虚説である。

龐淯伝

龐淯子冀といい、酒泉表氏の人である。はじめ涼州従事をしながら破羌県長を務めていた。そのころ武威太守張猛が叛逆し、刺史邯鄲商を殺害したが、張猛は布令を出して「あえて邯鄲商の遺体に臨む者があれば、死んでも赦さないぞ」と言った。龐淯はそれを聞いて官を棄て、昼夜走り続け、遺体のある場所で号泣した。張猛の門に参上し、匕首をばせ、お目見えして張猛を殺そうとした。張猛は彼が義士であることを知り、殺さないよう命令した。これによって忠烈をもって知られるようになった。[一]太守徐揖が請願して主簿としたが、のちに郡の人黄昂が叛逆し、城を包囲した。龐淯は妻子を棄て、夜中城壁を乗り越えて包囲を脱出し、張掖・燉煌の二郡に急を告げた。(二郡は)はじめ疑って軍勢を出すことを承知しなかったが、龐淯が剣に伏せ(て、自殺し)ようとしたので、二郡は彼の義心に感心し、ついに軍勢を催した。軍勢がまだ到着しないうちに郡の城邑はすでに陥落し、徐揖は死んだ。龐淯は徐揖の遺体を引き取って本郡に送り届け、三年の喪に服したのち帰った。太祖曹操)はこれを聞き、招いて掾属とした。文帝曹丕)が践祚すると駙馬都尉の官を拝し、西海太守に遷り、関内侯の爵位を賜った。のちに召し返されて中散大夫を拝し、薨じた。子の龐曾が嗣いだ。

[一] 『魏略』に言う。張猛の兵は龐淯を捕縛して連れてこようとした。張猛はそれを聞いて歎いた。「張猛は刺史を殺して罪悪を為し、この人は忠誠を極めて功名を為す。もし彼を殺すならば、どうして州内の律義の士を導くことができようか!」ついに喪に行って服させた。『典略』に言う。張猛は字を叔威といい、もともと燉煌の人である。張猛の父張奐は、桓帝の時代に出仕して郡守・中郎将・太常を歴任し、そのまま華陰に居住し、臨終を迎えて葬られた。建安年間(一九六~二二〇)の初め、張猛は(弘農?)郡に出仕して功曹となった。このころ黄河西岸の四郡は涼州の役所から遠く離れていて、海賊に遮断されていたので、上書して別に州を設置するよう求めていた。詔勅によって陳留の人邯鄲商が雍州刺史となり、別の四郡を司った。当時、武威太守が欠員となっており、張猛の父が昔、黄河西岸で威名を馳せていたことから、詔勅によって張猛を補任し、邯鄲商・張猛は一緒に西方に赴いた。むかし張猛と邯鄲商は同い歳であったので、いつもふざけて馬鹿にしあっていた。ともに官職に就くことになると、道すがらますますなじりあって相手を怨んだ。任地に着くと邯鄲商は張猛を誅殺しようとしたが、張猛はそれを悟り、ついに兵を率いて邯鄲商を攻撃した。邯鄲商の政庁は張猛の政庁のすぐ側にあった。邯鄲商は兵が来たと聞くと恐怖して屋根に登り、張猛の字を呼んで「叔威よ、を殺そうというのか?しかし我が死者となって知覚があれば、汝を皆殺しにするぞ。和解しよう。まだ可能だろう?」と言った。そこで張猛は呼んだ。「来い。」邯鄲商は屋根を乗り越えて張猛のもとへやって来た。そこで張猛は彼を責めなじり、言葉が終わると邯鄲商を督郵に引き渡した。督郵は邯鄲商を取り調べ、庁舎に勾留したが、のちに邯鄲商が逃げようとしたのが発覚し、ついに彼を殺してしまった。この歳は建安十四年である。翌十五年になると将軍韓遂が自ら言上して張猛を討とうとしたので、張猛は軍勢を動員して東方を防がせた。その官吏・民衆は韓遂を畏怖し、寝返って韓遂とともに張猛を攻撃した。はじめ張奐が武威太守になったとき張猛は母胎にいた。母は張奐の印綬を持って矢倉に登り、歌を歌っている夢を見た。朝になって張奐に語った。張奐は夢占いの者に尋ねると「夫人は男の子をご出産されるでしょう。(その子は)のちに再びこの郡に戻り、必ず在官のまま死んでしまわれます!」と言う。張猛は攻められるに及び、自分が必ず死ぬことを知って言った。「死者に知覚が無ければそれまでのことだ。もし知覚が有るならば、吾が頭を東方の華陰に行かせて先君の墓に参るとするか?」そして矢倉に登り、自焼して死んだ。

趙娥伝

むかし龐淯の外祖父趙安は同県の李寿に殺され、龐淯の兄弟三人も同時に病死してしまったので、李寿の家は喜んだ。龐淯の母趙娥は父の仇敵に報いることができないことを悲しみ、車に幔幕を付け剣を袖に隠し、白昼、李寿を都亭の前で刺した。事を終えると、おもむろに県に出頭したが顔色は変わらず、「父の仇敵には既に報いました。刑罰を受けるのが望みです」と言った。禄福県長尹嘉は印綬を外して(官を棄て)趙娥を釈放しようとしたが、趙娥が承知しなかったので、力づくで車に乗せて家に帰した。たまたま大赦令があって免じられたが、州郡は讃歎し、(趙娥の義挙を)石に刻んで村の門に置いた。[一]

[一] 皇甫謐の『烈女伝』に言う。酒泉の烈女龐娥親というのは、表氏の龐子夏の妻で、禄福の趙君安である。君安は同県の李寿に殺された。娥親には男の弟が三人いて、みんな復讐を誓ったので、李寿は深く用心した。たまたま流行病にかかり、三人はみな死んでしまった。李寿は聞いて大喜びし、一族を宴会に招き、ともども慶賀しあった。「趙氏の強壮(三~四十代の男)はもういなくなってしまい、ただ女子供がいるだけだ。何をまた心配することがあるだろう!」と言い、防備を怠るようになった。娥親の子龐淯は出て行って、この李寿の言葉を聞き、帰って娥親に告げた。娥親はもともと復讐心を持っていたので、李寿の言葉を聞き、感情を激することいよいよ深く、涙をこぼし愴然として言った。「李寿よ、は喜ぶな。汝を活かしてはおかぬぞ!天を戴いて地を踏み、の門戸と(して暮らしを平穏に)するのは、吾の三人の子の恥なのだ。どうして娥親が手に刃を持って汝を殺さないことを僥倖だと思っているのか?」密かに名刀を買い、長い刃を抱えて短い刃を手に取り、昼も夜も哀しんで、志は李寿を殺すことだった。李寿の人となりは凶暴であったが、娥親の言葉を聞くと、また馬に乗り刀を帯びるようになったので、郷の人はみな彼を畏れ憚った。その近隣に氏のがおり、娥親が仕損ずることを心配し、逆に殺されてしまうのではないかと恐れ、いつも諫止して言っていた。「李寿は男子です。もともと凶悪な性質ですし、しかも今は防備に身を固めています。趙さんに猛烈の志があると言っても、強弱はありますからかないっこありません。もし遭遇しても仕損じてしまえば、またもや李寿から害を受けて門戸は絶滅してしまうでしょう。痛みと屈辱は軽くはありませんよ。よくよく行動には気を配って、門戸のためを考えてください。」娥親は言った。「父母の仇敵とは天地と月日を共同にしないものです。李寿が死ななければ、もし娥親が世間で生計を立てたとしても、何を求めて活きていられるのでしょうか!いま三人の弟が早死して門戸は泯滅(滅亡)したとはいえ、まだ娥親がおります。どうして他人の手を借ることがありましょう!もしのお心でを比較すれば、李寿を殺すことはできないでしょう。我の心で考えれば、李寿は必ず我に殺されるのが明らかです。」夜になるとしばしば所持している刀を研ぎ、切歯扼腕しては涙を流して歎息したが、家人や郷里ではみな笑っていた。娥親は左右の人に言った。「卿がたは笑っておりますが、それは我がひ弱な女なので李寿を殺せないと思っているからです。必ずこの刀の刃を李寿の頸の血で汚し、汝たちにこれを見せつけてやりましょう。」ついに家事を棄て、鹿車に乗って李寿を付け狙った。光和二年(一七九)二月上旬にいたり、白昼の清らかなとき、都亭の前で李寿に遭遇した。すぐに車を下り、李寿の馬を叩いて彼を叱りつけた。李寿は驚愕し、馬を返して逃げようとした。娥親は刀を振るって彼を切った。同時に彼の馬も傷付けたので、馬は驚いて李寿を道端の溝に振り落とした。娥親は彼が落ちたあたりを探して切ったが、樹蘭の木に深く当たって、所持していた刀が折れてしまった。李寿は傷を負ったがまだ死んでいなかった。そこで娥親は突き進んで李寿の佩刀を奪って李寿を殺そうとした。李寿は刀を護りながら目を怒らせて大声で叫び、跳梁して立ち上がった。娥親は体を投げ出して手を振り回し、左手で彼の額を押さえ、右手で彼の喉を突き刺した。ぐるぐると何度も繰り返したすえ手応えがあって(李寿は)倒れた。その刀を抜いて李寿の頭を切断し、それを持って都亭に行き、自首した。おもむろに牢獄へ歩いて行き、言葉も顔色も変えなかった。当時の禄福の県長、寿陽の尹嘉は娥親を裁くことに忍びず、印綬を外して官を去り、法をゆるめて釈放しようとした。娥親は言った。「仇敵を討って身は死ぬのがの本望です。獄を治めて刑を制するのが君の常道です。どうして官の法律を枉げてまで生を貪りましょう?」郷の人はこれを聞き、城内総出で駆け付け、見物する者で人垣を作った。悲喜慷慨して歎かない者はなかった。守尉(官名)もあえて公式に釈放しなかったが、立ち去るように密かに告げて、隠れるのに便宜をはかってやった。娥親は抵抗して大声で言った。「法を枉げて死を逃れるのは妾の本心ではありません。仇敵に報復したからには死ぬのが妾の本分です。法律に帰服して国体を全うさせてください。一万回死んだとしても娥親は満足です。生を貪ってまで裁決に背きたくありません。」はわざと聞こえないふりをして取り合おうとしなかったが、また娥親は言った。「匹婦は賎しい身ですが、それでも法律を知っています。殺人は法律が許さない罪です。いまそれを犯してしまったのですから、公正さからいって逃れることはできません。死刑にしてください。朝市で身体を斬られ、王法を明らかにすることが娥親の願いです。」語気はいよいよ激しく、そして恐れる様子はなかった。尉はその信念を変えるのが難しいと知ると、力づくで車に乗せて家に帰した。涼州刺史周洪・酒泉太守劉班らはともども上表して、その烈義を称え、村の門に石を刻んで碑を立てて顕彰した。太常の弘農の張奐はその行動を尊び、束帛二十端をもって礼とした。海内でそれを聞いた者で、その義挙を尊重し、姿勢を正して褒めない者はなかった。黄門侍郎安定梁寛は後に娥親のことを記述し、彼のために伝を作った。玄晏先生(皇甫謐)は思う。父母の仇敵とは天地を共にしないものだが、それは男子のすることである。それなのに娥親はひ弱な女の身でありながら、父の受けた屈辱の苛酷さを思い、仇敵どもの凶暴な言葉に憤激し、剣を奮って頸を狙い、人馬ともども打ち砕き、亡き父の怨めしく思う魂を充足させ、三人の弟の永い恨みを雪いだ。近世以来、未だなかったことである。詩に言う「我が戈矛を修めて、と仇を同じくしよう」とは娥親のことである。

閻温伝

閻温伯倹といい、天水西城の人である。涼州別駕をしながら上邽県令を守った(兼務した)。馬超が上邽に逃亡したとき、郡の人任養らは軍勢を挙げて彼を迎えた。閻温はそれを止めようとしたが、制することができなかったので州(の治所)に走り帰った。馬超は州治である城を包囲して極めて危機的だったが、州では閻温を密かに脱出させ、夏侯淵に危急を告げさせた。賊の包囲は幾重にも及んだが、閻温は夜中に水中に潜って脱出した。翌日、賊はその痕跡を見付け、人をやって彼を追わせ、(追っ手が)顕親の県境で閻温を見付けると、捕まえて馬超のもとに帰った。馬超はその縛を解いて言った。「いま勝負の行方が見えるぞ。足下は孤立した城の救援を要請しようとして人の手に捕らえられたが、義心を発揮する余地があるだろうか?もしの言葉に従うならば、帰って城中に東方からの救援はないと言いなさい。これがを転じて福とすの計だぞ。さもなくば今殺してやろう。」閻温が偽って承諾したので、馬超は閻温を車に乗せて城下に行かせた。閻温は城に向かって大声で言った。「大軍が三日以内にやってくる。がんばれ!」城中ではみな泣いて、万歳を唱えた。馬超は怒って彼を責めた。「足下は命のことを考えないのか?」閻温は答えなかった。このとき馬超は長いあいだ城を攻めたのに陥落させられなかったので、おもむろに閻温を誘って彼が意志を改めることを期待したのである。また閻温に言った。「城中の縁故で、吾に同調しようとしている者はいるのかいないのか?」閻温はまた答えなかった。ついに厳しく彼を責めたてたが、閻温は言った。「丈夫が君に仕えるとき死んでも二心は持たぬもの。それなのには長者に不義の言葉を出させようとする。吾はかりそめに生きる者ではないぞ?」馬超はとうとう彼を殺してしまった。

張恭・張就伝

これより先、河右が混乱して交通が隔絶されたとき、燉煌太守馬艾が在官のまま卒去したが、役所ではを置いてなかった。功曹張恭はもともと学問と善行があったので、郡の人は行長史事(長史の職務を行う)に推したが、恩愛・信義ははなはだ顕著であった。子張就を東方の太祖曹操)のもとに遣し、太守(の派遣)を要請した。当時、酒泉黄華張掖張進がおのおの郡に割拠し、張恭・馬艾の勢力と合流しようと考えていた。張就は酒泉に来たところで黄華に勾留され、刃物で脅された。張就は最後まで態度を変えず、密かに張恭に手紙を送って言った。「大人は燉煌を率いて励まし、忠義は顕著です。どうして張就が困窮しているからといって忠義と交換することがありましょう?むかし楽羊は子を食らい、李通は家を覆しました。国を治める臣下たるもの、どうして妻子のことを考えるでしょう?いま大軍が到着しようとしています。ただ兵を促して彼らをする(牽制する)だけのことです。願わくは下流の愛をもって黄泉路の張就に恨みを抱かせないでください。」そこで張恭は従弟の張華をやって酒泉の沙頭・乾斉の二県を攻めさせ、張恭も兵を連ねて張華のあとに続き、前後で助け合う形を作った。同時に鉄騎二百騎を派遣して官吏を出迎えさせ、(鉄騎は)酒泉の北の要塞に沿って東進し、まっすぐ張掖の北の黄河に出て、太守尹奉に会って迎え入れた。このとき張進は黄華の援助を頼りにしていたが、黄華は救援しようと思っても、西を見れば張恭の兵がいたので、背後を奇襲されないかと恐れ、けっきょく金城太守蘇則のもとに来て降服した。張就は最後まで無事で、尹奉も官に就くことができた。黄初二年(二二一)、お褒めの詔勅が下され、張恭は関内侯の爵を賜り、西域戊已校尉に任命された。数年後に中央に召され、(朝廷では)侍臣の位を授けて、子張就に交替させようとしたが、張恭は燉煌まで来たところで、重病を理由に固辞した。太和年間(二二七~二三三)に卒去し、執金吾の官を追贈された。張就はのちに金城太守となり、父子の名声は西方の州で顕著であった。[一]

[一] 『世語』に言う。張就の子張斅は字を祖文といい、度量があって意志が強く、厳正な人物であり、武帝司馬炎)の時代に広漢太守となった。王濬益州にいて、兵を募ってを討つように命令を受けたが、虎符を持っていなかった。張斅は王濬の従事を逮捕して上表したが、そのために張斅は召還された。帝は張斅を問責した。「なぜ密かに告げず、すぐさま従事を逮捕したのか?」張斅は言った。「蜀漢の地は絶遠で、かつて劉備はこれを利用しました。(王濬の叛逆を懸念して、)すぐに逮捕したとはいえ、はまだ軽いと愚考いたしております。」帝は彼を評価した。官は匈奴中郎将まで昇った。張斅の子張固は字を元安といい、張斅の風格があり、黄門郎となったが、早くに卒去した。張斅は、ある本では張勃と作っている。『魏略勇俠伝孫賓碩・祝公道・楊阿若・鮑出ら四人を載せる。賓碩は漢代の人だが、魚豢が編纂した『魏書(魏略)』に入れられているのは、おそらく彼が魏代に近く、事績が似通っているからだろう。その行動・節義を論じれば、みな龐淯・閻温と同類である。そのうち祝公道一人はすでに『賈逵伝』に見える。今ここで賓碩ら三人を後ろに列挙する。孫賓碩は北海の人である。家はもともと貧しかった。桓帝の時代にあたって、常侍左悺・唐衡らの権力は人主と対等であった。延熹年間(一五八~一六七)、唐衡の弟が京兆虎牙都尉となり、俸禄は比二千石で、郡の管轄下に置かれた。唐衡の弟は着任したさい、京兆尹に表敬訪問せず、門に入っても版(名刺?)を持たなかった。郡の功曹趙息は廊下で叱って言った。「虎牙の扱いは属城と同じである。どうして放臂して(臂をぶらぶらさせて)役所の門に入ることができるのだ?」彼の主簿を逮捕するよう命じた。唐衡の弟は振り返って版を持ってくるように命令し、入って京兆尹に謁見した。京兆尹は主人として振る舞おうとし、(部下に)外出して市場で買い物をさせた。趙息はまた申し上げた。「左悺の子弟が来て虎牙になりましたが、徳行によって選ばれたのではありません。特別に酒を買ってくるまでもなく、官舎の菜食に従って済ませればよいでしょう。」彼(唐衡の弟)が官職に就くと、官吏に手紙を持たせて京兆尹に挨拶をさせたが、趙息はまた門(の官吏)に命令して言った。「この去勢者連中の子弟といつまでも会うわけじゃないんだ邪。そんな手紙で通すことができるか?」晩になって通したが、またすぐさま報告することをさせなかった。唐衡の弟はこれを全て知って非常に怒り、趙氏一族を滅ぼそうと考えた。手紙を唐衡に送って京兆尹にしてもらい、まる一ヶ月のあいだに実現した。趙息は以前の咎を自分で知っていたので、すぐに逃走した。当時、趙息の従父趙仲台は涼州刺史になっていたが、このとき唐衡が詔勅を出して趙仲台を召し寄せた。そのまま中都官と郡の督郵に詔勅を下し、趙氏のうち身長一尺の子供から上は逮捕し、趙仲台とともに全て殺し、かくまう者があれば同罪とした。当時、趙息の従父趙岐皮氏県長であったが、家に禍が及ぶと聞いて、そのまま官舎から逃げ出し、河間に去り、姓と字を変え、また場所を変えて北海に行った。綿の頭巾に麻の袴を着て、いつも市場で胡餅を売っていた。孫賓碩は当時二十歳余りだったが、犢車(子牛に牽かせる車)に乗り、騎馬の従者を引き連れて市場に入った。趙岐に出会い、彼が普通の人間ではないと疑いを持った。そこで質問して言った。「餅をお持ちですが、それを売っているのですか?」趙岐は言った。「お売りしますよ。」孫賓碩は言った。「いくらで買ったのですか?いくらで売るのですか?」趙岐は言った。「三十銭で買って、やはり三十銭でお売りしています。」孫賓碩は言った。「処士の様子を見てみると、餅売りに似つかわしくない。きっと訳ありなのでしょう!」そこで車の後ろの扉を開き、二人の騎馬従者を振り返って、馬を下りて彼を車に乗せるように命じた。このとき趙岐は彼が唐氏の耳目(間者)だと思い、非常に恐れて顔色を失った。孫賓碩が車の後ろの扉を閉め、帳を下ろして彼に言った。「処士の顔や態度を見ると餅売りのものではないうえ、加えて今顔色が変わりました。深い恨みを持たれているのでなければ、亡命でしょう。は北海の孫賓碩です。一族は合わせて百人いて、また百歳の老母が表座敷におります。助けることができる状勢で、最後まで背くことはありません。ぜひ真実を我にお話しください。」そこで趙岐はつぶさに告げた。孫賓碩はそのまま趙岐を車に載せて帰った。車を門外に停め、先に入って母に言った。「今日、外出したとき死友(刎頸の友)を得て、外に待たせております。入って挨拶してもらいましょう。」退出して趙岐を連れて入り、牛をつぶして酒を呑ませ、気持ちよく楽しみあった。一・二日して、車に乗せて別の田舎に連れて行き、二重壁の中に隠し置いた。数年後、唐衡と弟はみな死んだ。趙岐はようやく出ることができ、本郡に帰った。三公の役所はいずれも招き、転属を繰り返して昇進し、郡守・刺史・太僕まで昇進した。孫賓碩もまたこれによって東国で高名を挙げ、官は予州刺史まで昇った。初平年間(一九〇~一九四)の末期、孫賓碩は東方が飢饉になったので、南に行って荊州に仮住まいした。興平年間(一九四~一九六)になって、趙岐は太僕のままを持って天下を慰撫する使者となり、南に行って荊州を訪ね、そこで再び孫賓碩と対面し、向かい合って涙を流した。趙岐が劉表に一部始終を話すと、それからますます孫賓碩は礼遇されることになった。しばらくして孫賓碩は病気で亡くなり、趙岐は南方にいて彼の喪に服した。楊阿若は後の名を楊豊、字は伯陽といい、酒泉の人である。若いころから遊俠で、いつも復讐して恨みを晴らすことをして生業としていた。そこで当時の人々は彼を呼んで言った。「東市で相る楊阿若、西市で相斫る楊阿若。」建安年間(一九六~二二〇)になると、太守徐揖は郡の豪族黄氏を誅殺した。このとき黄昂は脱出して外に逃げることができたので、黄昂の家の粟や金数斛をもって軍勢を募って千余人を手に入れ、徐揖を攻めた。徐揖は籠城して守った。楊豊(阿若)はそのとき外にいたが、黄昂が不義をなしたので、そこで徐揖に告げて、妻子を棄てて張掖に走り、救援を求めた。たまたま張掖も叛逆し、太守を殺害した。黄昂もまた城を陥落させて徐揖を殺し、二郡は軍勢を合わせた。黄昂は楊豊が自分に同調しないことを怒り、手厚い賞金を懸けて楊豊を捕まえさせ、張掖郡に命令して、彼の頭を麻縄で繋いで生け捕りにしようとしたが、楊豊はついに逃げおおせた。武威太守張猛は楊豊を仮の都尉とし、檄を授けて酒泉に報告させ、楊豊が徐揖のために復讐することを許可した。楊豊はただ一騎で南の羌中に入り、軍勢を集めて一千騎余りを手に入れ、楽浪の南の山中から出て、郡城を目指して走った。まだ三十里を残したところで、みなに騎馬から下馬させ、柴を引きずって埃を立てるように命令した。酒泉郡の人は埃が立つのを遠くから眺め、東から大軍が到着したと思い、とうとうばらばらに散った。黄昂は独りで脱走したが、人が黄昂を逮捕した。楊豊は黄昂の為に言った。「卿は先に我の首を生きながら繋ごうとしたが、いまは逆に我に繋がれている。どういうことだ?」黄昂は謝って恥じ入ったが、楊豊は彼を殺した。このとき黄華は東方にいたが、また領郡に帰ってきた。楊豊は黄華を畏れて、また燉煌を頼って亡命した。黄初年間になって黄河西岸が復興されると、黄華は降服し、楊豊も郡に帰った。郡は(楊豊を)孝廉に推挙し、州も彼の義勇を上表したので、詔勅が下って駙馬都尉の官を授かった。二十年余り後、病で亡くなった。鮑出は字を文才といい、京兆新豊の人である。若くして遊俠であった。興平年間に三輔地方が混乱したとき、鮑出は老母と兄弟五人で本県に家を構えて住んでいたが、飢餓に苦しみ、母を家に残し、連れ合って蓬の実を採りに行き、合わせて数升を得ることができた。彼の兄鮑初・鮑雅、弟鮑成に持たせて帰し、母に食べさせることにし、自分は末弟と一緒に残って蓬を採った。鮑初らが家に着くと、人食いの賊数十人が彼らの母をさらい、その手のひらに縄を突き通して走り去ったあとだった。鮑初らは恐怖のあまり追いかけることができなかった。しばらくして鮑出は後から帰って、母が賊にさらわれたことを知り、賊を追いかけようとした。兄弟はみな言った。「賊は大勢いるが、どうすればいいのだろう?」鮑出は怒って言った。「母がいて、その手を賊に貫かれている。(賊が)去ってそれを煮て食おうとしているのに、生き延びたところで何になるのだ?」そこで袖をまくり裾をからげ、一人で追いかけ、行くこと数里で賊に追い付いた。賊は遠くから鮑出を眺め、ともに一列に布陣して彼を待ち受けた。鮑出はやってくると、一方の端に回って四・五人の賊を斫った。賊は逃走し、また人数を合わせて鮑出を包囲したが、鮑出は包囲を飛び越えて彼らを斫り、また十人余りを殺した。このとき賊は二手に分かれて、(一手は)鮑出の母を急き立てて先を行っていた。賊は繰り返し鮑出を攻撃したが勝てず、逃走して先行部隊に合流した。鮑出はまたもやこれを追撃し、彼の母と近所の老婆が数珠繋ぎになって連れ去られているのを見付け、鮑出はまた奮闘して賊を攻撃した。賊は鮑出に質問した。「卿は何が目的なのですか?」鮑出が賊を責めなじり、母を指差して彼らに示したところ、そこで賊は鮑出の母を釈放して帰らせた。近所の老婆だけは釈放されず、遠くから鮑出を見つめて哀れみを請うた。鮑出がまた賊を斫ると、賊は鮑出に言った。「もう卿の母は返しましたのに、なぜ止めようとしないのです?」鮑出はまた哀れみを請う老婆を指差した。「これは我のなのだ。」賊はまた釈放して帰らせた。鮑出は母を取り戻して帰り、そのまま手を取り寄り添いあって、南陽に仮住まいした。建安五年(二〇〇)、関中が初めて開通したので、鮑出は北方に帰ることにしたが、彼の母は歩くことができなかったので、兄弟はみんなで車に載せようとした。鮑出は車に載せて山の難所を通過する危険は、背負っていく安全には及ばないと思い、そこで籠の中に母を入れて一人でそれを背負った。郷里に着くと、郷里の士大夫は彼の孝心・熱烈さを評価して、州郡に推薦しようと思い、郡も鮑出を招聘したが、鮑出は「田舎者なので冠や帯に堪えられません」と言った。青龍年間(二三三~二三七)になって、母は百歳余りで臨終を迎え、鮑出はそのとき七十歳余りだったが、作法通りに葬式を行った。今年八・九十歳になるが、(若々しさは)やっと五・六十歳になった者のようである。魚豢は言う。むかし孔子顔回に感歎し、三ヶ月のあいだ仁に違わない者だと言った。それは彼の心を観察したに過ぎず、孫・祝が市場で顔色を採取し、牢獄を転倒させたのと比べて、どちらが事実に基づいているだろうか?それに、そもそも濮陽氏があえて(季布を)かくまわず、家が実情を尋ねなかったのは、どうしてなのだろう?禍が及ぶことを恐れ、なおかつ安心できなかったからである。それでも太史公(『史記』を編纂した司馬遷)は彼らが最後まで季布を免れさせたことを貴んだのである。二賢(孫・祝)のごときは、なんと義を尽くすことに多大であろうか?そこで今は遠くは孫・祝を収め、近くは楊・鮑を録し、彼ら(の記憶)が泯滅しないようにし、なおかつ軽薄な風潮を正すのである。鮑出に至っては礼教に染まっていなかったが、心を痛めて意を発動させ、自然と立ち上がったのであり、跡は編戸(編成された家?)にあったとはいえ、篤実で熱烈な君子と異なることがあるだろうか?楊阿若のごときは、若くして任俠を称えられ、成年に達してからは義を実践し、西から東に行って節義に逆らう者を討ち砕いたが、勇者にして仁ある者と言うべきである。

評に言う。李典は儒学の雅を尊び、義のために私怨を忘れたことは立派である。李通・臧霸・文聘・呂虔は州郡を鎮護して、いずれも威信・恩沢を顕した。許褚・典韋は左右の警護にあたり、また樊噲のようである。龐悳は命を棄てて敵を叱り、周苛の節義があった。龐淯は剣に伏せることを憚らず、誠心は隣国を感動させた。閻温は城に向かって呼び叫び、解(楊)路(中大夫)のような烈士であった。