利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

蘇則伝

蘇則文師といい、扶風武功の人である。若くして学問と行いによって知られ、孝廉・茂才に推挙されて三公の役所に招かれたが、いずれも応じなかった。家から出て酒泉太守となり、安定・武都太守に転任したが、[一]至るところで威名があった。太祖曹操)が張魯を征討したとき、その郡を通過し、蘇則を謁見して彼のことを喜び、軍の先導をさせた。張魯を破ると、蘇則は下弁の諸を鎮定して安んじた。黄河西岸への道を開通させ、金城太守に異動になった。このとき騒乱が起こったばかりで、官吏・民衆は流浪して飢えに苦しみ、戸数も減少していたが、蘇則は彼らを慰撫して落ち着かせ、その様子はたいそう謹み深かった。外から羌族・胡族を招いて手懐け、彼らから牛や羊を手に入れて、貧しい者、年老いた者を養育した。民衆と食べ物を分け合い、まる一ヶ月で数千家の流民はみな帰ってきた。そこで禁令を明らかにし、法を犯す者があればただちに殺し、教えに従う者には必ず褒美を与えた。蘇則自ら民を教育して農地を耕すと、その年大収穫になったので、帰依する者が日ごとに多くなっていった。李越隴西郡を挙げて叛乱を起こしたが、蘇則は羌族・胡族を率いて李越を包囲すると、李越はすぐに降服を乞うた。太祖が崩ずると、西平麹演が叛逆し、護羌校尉を称した。蘇則は兵を率いて彼を討った。麹演は恐れて降服を乞うた。文帝曹丕)はその功績によって蘇則に護羌校尉の官を加え、関内侯の爵を賜った。[二]

[一] 『魏書』に言う。蘇則は剛直で悪を憎み、いつも汲黯の人となりを慕っていた。『魏略』に言う。蘇則の家は代々の名家であったが、興平年間(一九四~一九六)に三輔地方が混乱して飢えに苦しむと、北地に難を避けた。安定に仮住まいし、富豪の師亮を頼った。師亮の待遇は充分なものでなかったので、蘇則は慨歎して言った。「天下は必ず安定する。そう遠いことではないぞ。必ずこの郡の太守となって帰ってきて、凡庸な連中をやっつけてやる。」のちに馮翊吉茂らと一緒に郡の南の太白山に隠れ住み、書籍を自分の娯楽とした。安定太守になったとき、師亮らはみな亡命しようとしたが、蘇則はそれを聞き、あらかじめ使者をやって弁解させ、礼をもって彼に報いた。

[二] 『魏名臣奏』に載せる文帝の雍州刺史張既へのご下問に言う。「試みに金城太守を守らせた(代行させた)蘇則は、すでに民衆を安んじてを平らげる功績を挙げた。聞けばまた車を出して西進して湟中を平定し、黄河西岸に力と勢いを付けさせた。ははなはだこれを評価する。蘇則の功績からいって、爵位と所領を加増するべきではないだろうか?封爵は重大な事柄なのでに問う。密かに意見を申し、決して漏らすでないぞ。」張既は答えて言った。「金城郡は、むかし韓遂に殺戮・略奪され、(民衆は)死んだり流浪したりして、ある者は戎狄の地に隠れ、ある者は混乱のため命を落とし、戸数は五百にも満たないのでした。蘇則が職務に就くと、内では被災者を慰撫し、外では離散者を糾合し、いま戸数は千余りになりました。また梁焼の種々の羌族は、むかし韓遂と一緒に悪事を働いていましたが、韓遂が倒れたのちは要塞を越えて出てきました。蘇則は前後して招き手懐け、三千余りの集落が郡に帰化させ、みな威信・恩恵をもっていたわり、官に役立てるようにしました。西平の麹演らが邪悪な計画を唱えると、蘇則はただちに軍を出し、その項領(要衝?)に臨みましたが、麹演はすぐさま人質を送って命に帰服し、賊の糧道を絶ちました。蘇則はすでに民衆をいたわる功績があるうえに、また戎狄どもをよく手懐け、忠誠を尽くして節義を顕しました。聖明な君主の御代にあたっては、功績は必ず記録されるものだとか。蘇則に爵位・所領を加増するようなことは、まことに臣下に忠勤を勧めるのに充分で、風俗を励ますものとなります。」

のちに麹演はふたたび近隣の郡と結んで叛乱を起こした。張掖張進は太守杜通を拘禁し、酒泉の黄華は太守辛機を受け入れず、張進・黄華はおのおの太守を自称して麹演に呼応した。また武威の三種の胡族もみな略奪を働き、道路を遮断した。武威太守毌丘興は蘇則に危急を告げた。このとき雍州・涼州の豪族たちはみな羌族・胡族を捕まえて駆り立て張進らに付き従い、郡の人はみな張進には敵わないと思っていた。また将軍郝昭魏平は以前おのおの金城に駐屯していたが、また詔勅を受けても西に渡ることができなかった。そこで蘇則は郡内の高官および郝昭らと会見し、羌族の頭目らと計画して言った。「いま賊の勢いは盛んだが、みな新たに集まった者に過ぎず、ある者は脇に従っているが、必ずしも同心したわけではない。隙を見て攻撃すれば、善人と悪人は必ず離ればなれになり、離れた者は我々に帰服するだろう。我々にとっては利益となり、彼らには損失となる。すでに軍勢増強の実利を得て、なおかつ士気倍増の気勢があるからには、(軍勢を)率いて張進を討てば破ることができるのは間違いない。もし大軍(の到着)を待ち、持久のために日を無駄にすれば、善人は帰る先を失って必ず悪人と合流し、善悪が合流すればすぐには離し難い勢いになる。詔勅による命令があるが、違背したとしても方便に合致するなら専断してよいのだ。」こうして郝昭らはそれに従い、軍勢を進発させて武威を救い、その三種の胡族を降服させ、毌丘興とともに張掖で張進を攻撃した。麹演はそれを聞き、歩騎三千を率いて蘇則を出迎え、言葉では軍を助けに来たと言いながら、実際には変事を起こそうとしていた。蘇則は彼を呼び入れて謁見し、そこで彼を斬った。外に出て(彼の)軍勢に宣告すると、彼の仲間はみな逃げ散った。蘇則はそのまま諸軍とともに張掖を包囲して、これを破り、張進と彼の支援者を斬ると軍勢はみな降服した。麹演の軍が敗れたので黄華は恐懼し、捕虜を釈放して降服を願ったので、黄河西岸は平和になった。そこで金城に帰還した。都亭侯に進め、所領三百戸とした。

中央に召されて侍中を拝し、董昭と同僚になった。あるとき董昭は蘇則の膝を枕にして寝そべったが、蘇則は彼を押しのけて言った。「蘇則の膝は佞人の枕ではないぞ。」はじめ蘇則と臨菑侯曹植氏がに代わっ(て王朝を立て)たと聞き、いずれも喪服を着けて哭泣した。文帝曹丕)は曹植がそうした様子だったことを聞いていたが、蘇則のことは聞いていなかった。帝が洛陽にいたころ、従容として言ったことがある。「吾は天命に応じて受禅したのだが、それを聞いていた者がおる。なぜか?」蘇則は問責されたのだと思い、鬚髯を残らずぴんと張り、正論でもって答えようとした。侍中傅巽が蘇則をって言った。「卿のことは言ってないぞ。」そこで止めた。[一]文帝は蘇則に下問して言った。「以前、酒泉・張掖を破ったとき、西域は使者を通じて来て、燉煌も直径一寸の大真珠を献上してきた。ふたたび市場の利益を求めるべきだろうか?」蘇則は答えて言った。「もし陛下の教化が中国のすみずみまで行き渡り、御徳が沙漠にまで届くなら、求めずとも自然とやって来るでしょう。(わざわざ)求めてそれを得るのは尊重するに及びません。」帝は黙然とした。のちに蘇則は遊猟に随従した。槎桎が抜けて鹿が逃げ出してしまったので、帝は大いに怒り、牀几にって抜刀し、担当の官吏をことごとく逮捕して彼らを斬ろうとした。蘇則はぬかづいて言った。「は、古代の聖王は鳥獣のために人を殺めなかったと聞いております。いま陛下はまさに堯帝の教化をなさろうとしておられます。それなのに狩猟のお戯れをもって数多くの官吏を殺そうとなさるのを、愚臣は納得いたしかねます。敢えて死を請います!」帝は言った。「卿は直言の臣である。」ついにみな赦免した。しかしこれによって憚られることになった。黄初四年(二二三)、東平国のに左遷された。まだ(任地に)到着しないうち、道中で病気となって薨じた。して剛侯と言った。子の蘇怡が嗣いだ。蘇怡が薨じると、子がなかったため弟の蘇愉が襲封した。蘇愉は咸煕年間(二六四~二六七)に尚書になった。[二]

[一] 『魏略』に言う。古いしきたりでは、侍中が(帝の)起居を直接お世話するので、俗に(侍中を)「執虎子(おまる係)」と呼んでいた。蘇則と同郡だった吉茂は当時、はじめ県令を歴任していたが、のちに閑職に左遷されていた。吉茂は蘇則に会ったとき、彼を嘲笑して言った。「仕官するにも執虎子どまりではないぞ。」蘇則は笑って言った。「我はのように鹿車(小さな車。龐淯伝参照)を走らせるような苦労を手本にできなくてね。」はじめ蘇則は金城にいて、漢帝が位を譲ったと聞いて崩御したのだと思った。そこで服喪したが、あとで健在であると聞いて自分の不明を思い、心からたいそう黙然としてしまった。臨菑侯曹植は先帝(曹操)の歓心を失ったことを悲しみ、やはり激しく恨んで哭泣した。そののち文帝が遊覧に出かけたとき、臨菑侯を思い出して恨み、左右を振り返って言った。「人の心は同じでないものだな。我が大位に登ろうとしたとき、天下に哭いた者がおる。」そのとき従っていた臣たちは、帝の発言には理由があって発せられたことを知っていたが、蘇則は自分のことだと思い、馬を下りて陳謝しようとした。侍中傅巽が彼に目配せしたので、ようやく(事情を)理解した。孫盛は言う。そもそも士たる者、非難する相手には仕えず、仕える相手には非難しないもので、出処進退をいたずらにできようか!蘇則はすでに新王朝に名を連ね、異なる王朝に身を委ねたのに、そこで初めて二心を懐いて怒りを発し、はっきりした言葉を奮おうとしたが、雅やかな君子の去就の分別といえようか?『詩(経)』に言う。「士であるのにけじめがなく、その行いは二転三転する。」士が二転三転するだけで妻を失ってしまうものだ。ましてや人臣はどうか?

[二] 蘇愉は字を休予といい、太常・光禄大夫の位を歴任したことが『晋百官名』に見える。『山濤啓事』は蘇愉が忠誠心に篤く、智慧と意志があったことを称賛している。臣裴松之は調べてみた。蘇愉の子蘇紹は字を世嗣といい、呉王の師となった。石崇の妻は蘇紹の兄のである。蘇紹の詩が『金谷集』にある。蘇紹の弟蘇慎左衛将軍である。