利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

劉曄伝

劉曄子揚といい、淮南成悳の人であり、悳の音は徳(トク)。光武帝劉秀)の子阜陵王劉延の子孫である。父は劉普、母はといい、劉渙と劉曄を産んだ。劉渙が九歳、劉曄が七歳のとき、母は病気にかかり、臨終のとき劉渙・劉曄に注意を与えた。「劉普の側近には、おべっかを使って他人を陥れるような性質があります。が死んだあと、我が家をきっと混乱させるでしょうから気がかりです。お前たちが大きくなってあれを取り除いてくれたら、には思い残すことはありません。」劉曄は十三歳になったとき、兄劉渙に告げた。「亡き母の言葉を実行しましょう。」劉渙は言った。「そんなことはできないよ!」劉曄はすぐさま部屋に入って側近を殺し、その足で家を出て墓参りをした。家中の者が大いに驚いて劉普に報告すると、劉普は腹を立て、人をやって劉曄を追いかけさせた。劉曄は帰ってくると謝罪して言った。「亡き母のご遺言です。勝手な振る舞いに対するご処罰は覚悟しています。」劉普は内心奇特なことだと思い、結局、責め立てることはなかった。汝南許劭は人物評価で知られていたが、揚州に避難してきたとき、劉曄には一世(の英雄)を補佐する才能を有していると称えた。

揚州の士人には狡猾な任俠気取りが多く、鄭宝・張多・許乾といった連中がいて、それぞれに部曲を擁していた。鄭宝がとりわけ勇壮果敢で、才能実力が人並み以上であったため、その地方では畏怖されていた。(鄭宝は)百姓たちを駆り立てて江表(長江南岸)へ渡ろうと考えていて、劉曄が皇族出身の名士であったので、この計画の仮の指導者になるよう強要しようとした。劉曄はこのとき二十歳余りであったが、内心それを疎ましく思ったものの、なかなか機会に恵まれなかった。ちょうどそのころ太祖曹操)が使者を派遣して州へ行かせ、検分させていた。劉曄は会いに行って状勢を論じ、一緒に連れて行ってくれと頼み込んだが、数日間、足止めをくらった。案の定、鄭宝が数百人を連れ、牛酒を提げて使者への挨拶をしにきた。劉曄は、家僮(家で雇った使用人)に命じて手勢とともに中門の外側に座らせ、彼らのために酒食を設け、鄭宝と一緒に(外門の)内側で酒宴をさせた。密かに命知らずの若者に言い含め、酌をするふりをして鄭宝を切らせることにしたが、鄭宝は生まれつきの下戸であったため、様子を窺ってみても意識ははっきりしていて、酌をした者も決行することができなかった。劉曄はそこで自分から佩刀を抜いて鄭宝を切り殺し、その首を斬ってから彼の軍兵に向かって宣言した。「曹公のご命令だ。行動を起こす者あらば鄭宝と同罪であるぞ。」人々はみな肝をつぶし、陣営へと逃げ帰った。陣営には督将と精兵数千人がいたため、彼らが騒ぎを起こすことを恐れた劉曄は、すぐさま鄭宝の馬に跨り、家僮数人を連れて鄭宝陣営の門まで行き、その渠帥たちを怒鳴りつけて利害を説得したところ、みな平伏しつつ開門して劉曄を入れた。劉曄が慰撫を加えて落ち着かせると、みな残らず帰服を願い、劉曄を推し立てて主君に仰いだ。劉曄は、漢室が次第に衰退しつつあり、自分がその支流であることを鑑みて、軍勢を抱えることを望まず、そのままその部曲を廬江太守劉勲に委ねた。劉勲がその理由を訝しがると、劉曄は言った。「鄭宝には統制がなく、その手勢は日ごろ略奪によって利益を上げておりました。にはもともと資金力がありませぬゆえ、彼らを厳正に取り締まるとすれば、必ずや恨みを買うことになり、長続きはいたしますまい。それゆえ譲渡いたしたまでです。」そのころ劉勲の軍勢は長江・淮水一帯で精強を誇っていた。孫策はそれを不快に思い、使者をやって慇懃な言葉とともに手厚い贈り物をし、手紙を書いて劉勲を説得した。「上繚宗民どもはしばしば下国を裏切りましたので、彼らに対して積年の恨みを持っております。これを撃ちたくとも道路が通じておりませぬゆえ、願わくば貴国より討伐していただきたく存じます。上繚はきわめて裕福でありますから、それを押さえれば貴国を富裕にすることができます。どうか軍勢を催され、国外の支援者となってくださいますよう。」劉勲はそれを信用し、しかも孫策の真珠・宝玉・葛越を手に入れたことを喜んだ。外内はみな祝賀を述べたが、劉曄だけが賛同しなかった。劉勲がその理由を訊ねると、答えて言った。「上繚は小さいながら、城は堅くて堀は深く、攻めるに難く、守るに易いところです。十日以内に(成果を)挙げられなければ、外では兵士を疲労させ、国内は空っぽになります。孫策が虚に乗じて我らを襲撃したならば、後方では単独で守りきることはできますまい。このことは将軍が前進しても敵軍に挫かれ、後退しても帰るべき場所がなくなるということです。もし軍勢をどうしても進発させるとなれば、災禍は今にも到来いたしましょうぞ。」劉勲は聞き入れず、軍勢を催して上繚を討伐した。孫策は案の定、その後方に襲いかかった。劉勲は切羽詰まり、そのまま太祖のもとへ出奔した。

太祖が寿春まで来たときのこと、廬江の境界あたりでは山賊の陳策陳蘭?)が軍勢数万人を抱え、要害を楯にして守りを固めていた。以前、偏将(部将)をやって誅伐させたときは、捕まえて勝利することができなかった。征伐することができるであろうかと太祖が訊ねたところ、部下たちはみな「山は高く険しく、谷は狭く深い。守るに易く、攻めるに難きところでございます。しかも失っても損害というほどでもなく、手に入れても利益というほどではございませぬ」と言った。劉曄は言った。「陳策らの小わっぱどもは混乱に乗じて要害に拠り、互いに依存し合うことで強がっているだけで、爵位命令の威信によって帰伏させているわけではありませぬ。以前は偏将の身分が軽かったこと、そして中国がまだ平定されていなかったがために、陳策はあえて要害に入って楯籠ったのであります。いま天下はほぼ平定され、後で降伏した者から先に誅伐されます。そもそも死を恐れて褒美に走るのは、愚者も賢者も同じであり、それゆえ広武君李左車)は韓信のために画策し、その威名をもってすれば宣伝を先にして実行を後にすれば隣国を服従させることができると述べたのであります。そのうえ明公の恩徳は、東方を征討すれば西方が残念がるほどであります。まずは(降服するよう)賞金付きで招いてやり、大軍でもって威圧をかければ、宣言を出したその日のうちに軍門は開かれ、賊軍は自壊するでありましょう。」太祖は笑いながら言った。「の言葉の方が優れておる!」かくて猛将を先鋒とし、本軍は後詰めとしたところ、到着するなり陳策に打ち勝つことができた。劉曄の予測した通りになったのである。太祖は引き揚げてから、劉曄を招いて司空倉曹掾とした。[一]

[一] 『傅子』に言う。太祖は劉曄および蔣済・胡質らの五人を徴し寄せたが、いずれも揚州の名士であった。亭伝(駅舎)で休息を取るたびに議論を交わさぬことはなく、そうして尊重の意を示したのである。内政面では国々の先達たち、盗賊に対する防備、軍勢を進退させる機微について、外事面では敵軍の変化を察知する方法、彼我の実状と虚勢、戦争の手立てなど、朝から晩まで夢中になった。ところが劉曄だけはひとり車内で横になり、結局、一言もしゃべらなかった。蔣済が不思議に思って訊ねてみると、劉曄は答えた。「明主と分かり合うには精神をもってする以外にはありえない。精神は人真似によって得られるものであろうか?」太祖と(正式に)会うことになったが、太祖はこのときも揚州の先達たち、賊徒どもの状況について訊ねた。四人は先を争って答えようとし、(後に回された者でも)順番が来るなりすぐさま発言した。そのようにして二度の会見が行われ、太祖はいずれの場合にも満足げであった。しかし劉曄は結局、一言もしゃべらぬままであったので、四人は彼のことを笑いものにした。後日、また会見する機会があって、太祖がふと沈黙して次の質問を出すまでのあいだ、劉曄ははじめて深遠なる言葉を示して太祖を揺り動かし、太祖も、はたと悟るものがあって黙り込んだ。こうしたことが三たびくり返された。その趣旨は、深遠なる言葉は精神から導きだすものであるから、単独会見によってその精密な議論を語り尽くすべきであって、多数の入り交じる座上で語るべきでない、というものであった。太祖はとくと彼の心意を察し、会見を終えたのち、ほどなく四人を県令とし、劉曄には腹心の任務を委ねたのである。職務上の問題があれば、そのつど手紙を出して劉曄に質問し、一晩のうちに督促が十回来ることもあった。

太祖は張魯を征討するにあたり、劉曄を主簿に異動させた。漢中に着陣したとき、山が険しくて登るのも難しく、兵糧はかなり乏しくなっていた。太祖は言った。「これはまやかしの国だ。どうやって虚無と現実を見定められよう?我が軍は食糧が不足しておるから、速やかに帰還するに越したことはない。」ただちに自分は(軍勢を)まとめて引き返し、劉曄には後方の諸軍を監督させ、順次、引き揚げさせることにした。劉曄は、張魯に打ち勝つことは可能であるし、しかも食糧輸送の道が絶たれている以上、引き揚げたとしても軍勢を十分に全うすることはできないと考え、太祖のもとへ駆け付けて「攻撃をかける方がよろしゅうございます」と言上した。こうして進軍することになり、数多くのを持ち出して彼らの陣営に浴びせかけると、張魯は逃走し、漢中はすっかり平定された。劉曄が進み出て言った。「明公は歩卒五千でもって董卓を誅伐せんとされ、北は袁紹を破り、南は劉表を征せられ、九州百郡のうち十中の八を併合されました。威光は天下を震わし、勢力は海外を恐れさせております。いま漢中を落とされましたので、の人々は噂を聞いただけで胆をつぶし、落ち着きを失っております。これに乗じて進軍なされば、蜀は檄文を飛ばすだけで平定できましょう。劉備は人傑でございまして、度量は大きいのですがのろまでもあり、蜀を手に入れてから日も浅く、蜀の人々はまだみとしておりませぬ。いま漢中を落とされますと、蜀の人々は恐怖に打ち震え、みずから倒れようとしているのが実状です。公の神明でもって、その倒れように乗じて圧力を加えるのですから、勝てないはずがありませぬ。もし少しでも緩めてやれば、諸葛亮が統治の明るさでもって宰相を務め、関羽・張飛が三軍に冠たる勇ましさでもって将帥を務めておりますから、蜀の民衆がひとたび安定して、険阻要害に楯籠るようなこととなれば、手を着けられなくなります。いま攻略せねば必ずや後日の憂いとなりましょうぞ。」太祖は聞き入れず、[一]大軍はそのまま引き返した。劉曄は漢中から引き揚げるにあたって行軍長史を務め、領軍を兼ねた。延康元年(二二〇)、蜀将孟達が軍勢を率いて降服してきた。孟達は容姿に秀でて才能見識の持ち主であったので、文帝曹丕)ははなはだ敬愛して孟達を新城太守とし、散騎常侍の官を加えた。劉曄は「孟達は強欲な心を持ち、才能を当て込んで術策を好みますゆえ、きっと恩義に感謝することはありますまい。新城は呉・蜀に隣接しておりますゆえ、もし態度を変えるようなことがあれば国家の患いが生じましょうぞ」と言ったが、文帝は結局改めることなく、後年、孟達は叛乱に失敗して死んだのであった。[二]

[一] 『傅子』に言う。在陣して七日、蜀からの降人が「蜀の地では一日に数十回もの騒動が起こり、劉備がその者を斬っても落ち着かせられないでいます」と証言した。太祖が劉曄を呼んで「今ならまだ攻撃できるのではないか?」と訊ねると、劉曄は「今ではもう少し安定しましたので、攻撃することはできません」と答えた。

[二] 『傅子』に言う。かつて太祖の時代、魏諷には重々しい名声があり、九卿・宰相以下、みな熱心に交わりを持とうとした。その後、孟達が劉備のもとを去って文帝に身を寄せたときも、論者の多くが楽毅の器量を備えていると称えた。劉曄は魏諷・孟達を一目見ただけで、必ずや反逆するであろうと言い、結局、その言葉通りになった。

黄初元年(二二〇)、劉曄を侍中とし、関内侯の爵位を賜った。関羽のために劉備が出征して呉に報復するであろうか予測せよとの詔勅による諮問が羣臣に下された。人々の議論はみなこうであった。「蜀は小国に過ぎず、名将といえば関羽のみ。関羽が死んで軍勢は破られ、国内は憂い、恐れております。もう出征する余裕もありますまい。」劉曄だけがこう言った。「蜀は狭く弱いとはいえ、しかしながら劉備の考えでは、武威でもって自分たちを強く見せかけたいはずで、自然、軍勢を用いてその余裕あるところを誇示するであろうことは必定でございます。そのうえ関羽と劉備は、義において君臣であり、恩においても父子のようなもの。関羽が死んでも軍勢を催して復讐できなければ、永遠の誓いを全うできないのでございます。」後年、劉備は果たして出兵して呉を攻撃をかけ、呉は国家を挙げてこれに対応するとともに、(魏へ)使者を派遣してを称してきた。朝臣はみな祝賀したが、ただ一人、劉曄は言った。「呉は長江・漢水の向こう岸で屹立しており、入朝し、臣従する心は久しくありませんでした。陛下は有虞に等しき徳を備えておられますのに、それでも醜悪な奴らの性質は、いまだに感悟するところがございませぬ。災難のために臣従を求めているのであって、必ずしも信用いたしがたいのであります。彼らは外圧に苦しみを感じ、そこまできて初めて、この使者を出したに過ぎませぬ。彼らの困窮に乗じて襲いかかり、これを攻略するのがよろしゅうございましょう。そもそも、一日敵を見逃せば、数世代にわたる患いとなるもの。ご明察いただかぬわけには参りませぬ。」劉備が戦いに敗れて撤退すると、呉はその途端、拝礼・表敬をやめてしまった。帝は軍勢を催して討伐せんと企て、劉曄が「彼らは念願を遂げたばかりですから、上下がともに心を合わせております。しかも江湖を抱えて抵抗いたしますゆえ、必定、早急に片付けるのは困難でございましょう」と言っても、帝は聞き入れなかった。[一]五年、広陵泗口に行幸し、荊州・揚州の諸軍に同時進攻を命じた。羣臣を集めて「孫権は自分で来るだろうか?」と下問すると、みな「陛下がご親征遊ばされたうえは、孫権は恐怖して国家を挙げて対応するのは必定でございます。それに(寝返りを恐れて)大軍を臣下に預けることもできますまいから、必ずや自分で統率して参るはずでございます」と言った。劉曄は言った。「彼らの考えでは、陛下が万乗の重みでもって自分たちを牽制しつつ、江湖を越えてくるのは別将の役目だ、ということになります。きっと軍兵を押さえて時機を待ち、まだ進退することはありますまい。」大駕が停留して日を重ねたが、孫権は果たして到来せず、帝はようやく軍勢を返して、言った。「卿はこのことを正しく計算しておった。ただ敵情を知るのみならず、吾のために二賊を滅ぼすことを考えてくれ。」

[一] 『傅子』に言う。孫権が使者を出して降服を求めてきたとき、帝はそれを劉曄に諮問した。劉曄は答えた。「孫権が理由もなく降服を求めてきたのは、きっと国内において非常事態が発生したからでしょう。孫権は以前、関羽を襲撃して殺し、荊州の四郡を奪いましたので、劉備は腹を立て、きっと盛大に討伐軍を起こすに違いありません。国外に強敵があって人々の心は不安になり、そのうえ中国がその隙を突いて征伐してくるのではないかと恐れ、それゆえ土地を捨てて降服を求めておるのでございます。第一に中国の軍兵を退け、第二に中国の援軍を借り、それにより自軍を強めて敵兵を惑わそうとしているのです。孫権は用兵に巧みであり、策略変化を知っておりますゆえ、その計略は必ずやそうした理由から出たものでありましょう。いま天下は三分され、中国がその十分の八を占めておりますが、呉・蜀はそれぞれが一州を保有し、山を楯にして川を堀とし、危急時には互いに助け合います。それが小国にとって利益になるからです。ところが現在、自分たちで攻撃しあっているのは、天が彼らを亡ぼそうとしているからです。なにとぞ大軍を催し、ただちに長江を渡って彼らの懐のうちを襲撃されますよう。蜀がその外側から攻め、我らがその内側から襲いかかれば、呉の滅亡は一ヶ月とかかりますまい。呉が滅亡すれば蜀は孤立いたします。もし呉の半分づつを切り取ったとしても、蜀はそれでさえ長続きできなくなるのです。ましてや蜀がその外側を取り、我らがその内側を取ったならばなおさらです!」帝は言った。「他人が臣と称して降服しておるのに、それを討伐するならば、天下のうちの降参を望む者どもの心を疑わせ、必ずや恐怖させることになるだろう。それはず駄目だ!はいったん呉の降服を受け入れてやり、それから蜀の背後を襲撃しようと思うがどうか?」答えて言った。「蜀は遠くて呉は近くでありますし、しかも中国が彼らを討伐すると聞けば、(彼らは)すぐに軍勢を引き返すでありましょうが、(我らはそれを)制止することができませぬ。いま劉備は腹を立てており、それゆえ軍勢を催して呉を攻撃しておるのでございますから、我らが呉を討伐すると聞けば、呉の滅亡は間違いなしと悟り、喜んで進軍し、我らと呉の土地を奪い合おうとするのは必定です。計画を改め、怒りを抑えて呉を救援することは決してないのは、必然の勢いなのでございます。」帝は聞き入れず、ついに呉の降服を受け入れ、すぐさま孫権を呉王に任じた。劉曄はまたも進みでて言った。「なりませぬ。先帝(曹操)は征伐のすえ天下の八分を兼併され、威光を海内を震わせられました。陛下は禅譲をお受けになって真の位に就かれ、聖徳は天地に合致し、声望は四方に到達しております。これは現実であり、佞臣の甘言ではございませぬ。孫権は英雄たる才能の持ち主ではありますが、元はと言えば驃騎将軍・南昌侯に過ぎず、官位が軽いため権勢も弱く、官民ともに中国を畏怖しておりますので、力ずくで陰謀に加担させようとしても不可能なのでございます。やむを得ず降服を受け入れるとしても、その将軍号を高めて十万戸の侯に封ずればよく、にわかに王に取り立ててはなりませぬ。そもそも王の位は天子と一段しか違いがなく、その格式・衣服・車馬は似通っております。彼はたかだか侯に過ぎず、長江南岸の官民たちに君臣としての義理があるわけではございませぬ。我らがあの偽りの降服を信じて封殖し、その爵位称号を高めてやり、その君臣の役割を決めてやるのは、それこそ虎に翼を添えてやるようなものです。孫権は王位を授かって蜀軍を追い払ったのち、表面では中国に礼を尽くして仕え、自国領内にそれを知らしめておき、影では無礼を働いて陛下を怒らせるでありましょう。陛下が勃然とお怒りを発せられ、軍勢を催してこれを討伐するならば、そこで自国の領民に向かって静かに告げるのでございます。『は身を尽くして中国に仕え、財貨珍宝を惜しむことなく季節ごとに献上し、あえて臣下の礼を忘れることはなかった。理由もなく我を討伐するのは、きっと我らが国家を滅ぼし、我らが男女民衆を捕まえて奴隷にするつもりなのであろう』、と。呉の民衆がその言葉を信用しないはずがございませぬ。その言葉を信じるならば、怒りを覚えて上下が心を合わせ、戦力は十倍いたしましょう。」やはり聞き入れられず、とうとう孫権は呉王に拝命された。孫権の将陸遜が劉備を大破し、その軍勢八万人余りを殺し、劉備はようよう逃げ延びた。孫権は表面では礼を尽くしてますます卑屈に振るまい、しかし影では不遜な態度を取り、案の定、劉曄の言葉通りであった。

明帝曹叡)が即位すると、爵位は東亭侯に進み、食邑三百戸となった。詔勅に言う。「父祖を尊重するのは孝行を顕彰するためであり、始祖を崇敬するのは教化を重視するためである。だからこそ成湯・文王・武王商・周の事実上の創業者としながら、『詩経』『尚書』の本義では稷・契までさかのぼって尊崇し、有娀・姜嫄のことを歌い称え、盛徳の源流、天命を授かる発端を明らかにするのである。わが魏室は天の秩序を継承し、足跡は高皇・太皇帝曹騰・曹嵩)が発せられ、功業は武皇・文皇帝(曹操・曹丕)が高められた。高皇の父の処士君曹萌)については、密かに人徳謙譲を修め、行動は神業のごとく、これこそ天地の祝福を受け、神霊の由来するところである。しかるに精神は暗く遠きところにあり、称号は記されておらず、孝行を尊んで根本を重んずることにはならない。そこで公卿以下に命ずる。会議のうえ諡号を定めよ。」劉曄は提議した。「聖帝として、孝心深い子孫として祖先を崇敬したいとの願いは、まことに計り知れないものでございます。しかしながら、親近と疎遠の違いが礼法に定められているのは、私情を断ち切って公法を成り立たせ、万世の模範とするためでありましょう。周王が祖先を后稷まで求めている理由は、その人が)を補佐して功績を立て、その名が祭祀の経典に記載されているからです。漢氏の初めから、追諡の本義はその父親を越えることがなくなりました。上に周室と比べれば、大魏の発祥は高皇からの始まりとなりますし、下に漢氏を論ずれば、追諡の礼はその祖父に及ばないことになります。これはまことに過去の定まった法律であり、現代の明らかな本義なのでございます。陛下の孝心が心底から溢れ出すのは、まことに仕方のないことでございます。しかしながら君主の挙動はかならず記録されるものですから、礼法に対しては慎重であるべきです。愚考いたしまするに、追尊の本義は高皇までに留めるのがよろしゅうございます。」尚書衛臻も劉曄の意見に賛同したので、この案件はその通りに施行された。遼東太守公孫淵が叔父(公孫恭)の地位を奪って勝手に官職に就き、使者を送って状況を説明してきた。劉曄はこう主張した。「公孫氏は漢の時代に任用されてから、ずっと代々にわたり官職を世襲してきた。水路では海の向こう、陸路では山の向こうにいて、そのため胡夷は遠くかけはなれて制御しがたく、それが代々にわたり権力を握って久しくなる。いま誅伐せねば、後日、かならず災禍を引き起こすであろう。もし(彼らが)二心を抱いて軍備を固めるならば、それから誅伐しようとしても作戦遂行は困難である。官職に就いたばかりで党派や仇敵が存在しているうちに先手を打って彼らの不意を突き、軍事力で威圧をかけつつ賞金を設けて(降服を)誘ってやれば、軍勢を煩わせずとも平定できるであろう。」後年、公孫淵はやはり反逆した。

劉曄は朝廷にあって、当時の人々とはほとんど交遊しなかった。ある人がその理由を訊ねると、劉曄はこう答えた。「魏室は践祚したばかりであって、智者は天命を理解していても、俗人はみな全てがそうではない。は漢に対しては皇族の端くれ、魏に対しては腹心であり、仲間の少ない方が現状では都合が悪くないのだ。」太和六年(二三二)、病気にかかって太中大夫を拝命した。しばらくして大鴻臚となり、二年のあいだ在職して官位を辞退、ふたたび太中大夫となった。薨去して、景侯された。子の劉寓が後を継いだ。[一]末子の劉陶も才能に秀でていたが、品行が悪く、官位は平原太守まで昇った。[二]

[一] 『傅子』に言う。劉曄は明皇帝に仕えて、やはり大層な親愛と尊敬をもって遇された。帝が蜀を討伐しようとしたとき、朝臣たちは内閣・外台ともにみな「なりませぬ」と主張した。劉曄は参内して帝に相談されたときは「討伐すべきです」と答え、退出して朝臣たちには「討伐すべきでない」と言った。劉曄は大胆さと智力の持ち主であって、その発言にはどちらも筋が通っていた。中領軍楊曁は帝の寵臣であり、彼もまた劉曄を尊重していた。蜀討伐の議論においては最も強硬な反対派であり、禁裏から退出するたび劉曄のもとへ行き、劉曄はそのつど反対の理由を述べていた。のちに楊曁が御車に従って天淵池に出かけたとき、帝は蜀討伐について語った。楊曁が厳しく諫言するので、帝が「卿は書生であって、どうして軍事が理解できよう!」と言うと、楊曁は陳謝しながら言った。「はもともと儒者の末席の出身ですが、うっかりと陛下のお認めを賜り、群衆の中から臣を抜擢して六軍の上に立ててくださいました。(そのご恩顧に報いるため)臣は些細なことでも言葉を尽くさぬわけには参らぬのです。臣の言葉はまこと取るに足らぬものでございますが、侍中劉曄は先帝の謀臣でありまして、つねづね蜀を討伐すべきでないと申しております。」帝は言った。「劉曄は蜀を討伐すべきだと吾に申したぞ。」楊曁が言った。「劉曄を召し寄せてすのがよろしゅうございます。」詔勅により劉曄を召し寄せ、帝が劉曄に質問しても決して口を開かなかった。のちに単独で拝謁したとき、劉曄は帝を責めて言った。「他国討伐は重大なる計画でございます。臣は大計画をお聞かせ頂いたとき、昧夢で漏らして臣の罪科を増やしはせぬかとずっと心配しておりました。どうしてわざわざ他人にそれを申しましょうか?そもそも軍事というのは詭道(詐術)でございます。軍事計画が実行されるまではその機密性をないがしろにはいたしません。陛下がはっきりとこれを公言されましたので、臣は敵国がすでに察知しているのではと懸念いたしております。」そこでようやく帝は陳謝した。劉曄は退出してから楊曁を咎めて言った。「そもそも釣人が大きな魚を引き当てたとき、まずは緩めてやってその自由に任せ、制御できるようになってから引き揚げるものです。そうすれば手に入れられぬことはない。君主の威光はただの大魚ほどのことでしょうか!はまこと直言の臣ですが、しかしながら計略は大したことがない。熟慮せねばなりませんぞ。」楊曁もまた陳謝した。劉曄がよく変化に応じて双方に対処した有様は、この通りであった。或悪曄於帝曰:「曄不尽忠,善伺上意所趨而合之.陛下試与曄言,皆反意而問之,若皆与所問反者,是曄常与聖意合也.復毎問皆同者,曄之情必無所逃矣.」帝如言以験之,果得其情,従此疏焉.曄遂発狂,出為大鴻臚,以憂死.諺曰「巧詐不如拙誠」,信矣.以曄之明智権計,若居之以徳義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸?独任才智,不与世士相経緯,内不推心事上,外困於俗,卒不能自安於天下,豈不惜哉!

[二] 王弼伝曰:淮南人劉陶,善論縦横,為当時所推.傅子曰:陶字季冶,善名称,有大弁.曹爽時為選部郎,鄧颺之徒称之以為伊呂.当此之時,其人意陵青雲,謂玄曰:「仲尼不聖.何以知其然?智者図国;天下羣愚,如弄一丸于掌中,而不能得天下.」玄以其言大惑,不復詳難也.謂之曰:「天下之質,変無常也.今見卿窮!」爽之敗,退居里舎,乃謝其言之過. 干宝晋紀曰:毌丘倹之起也,大将軍以問陶,陶答依違.大将軍怒曰:「卿平生与吾論天下事,至于今日而更不尽乎?」乃出為平原太守,又追殺之.