利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

程昱伝

程昱仲徳といい、東郡東阿の人である。身の丈八尺三寸、鬚髯うるわしかった。黄巾賊が蜂起したとき、県丞王度が反逆してこれに呼応、倉庫に火を放った。県令は城壁を乗り越えて逃走し、官吏民衆は老幼を背負って東方の渠丘山へと逃げ込んだ。程昱が人をやって王度を偵察させたところ、王度らは空き城を手に入れながら守ることができず、城外に出て西へ五・六里の辺りで駐屯していた。程昱は県内の大姓薛房らに告げた。「いま王度らは城郭を手に入れながら在城できておらず、その勢力のほどが分かります。彼らは財物を略奪したいというだけで、堅固な甲冑と鋭利な武器を手にして攻守するつもりなどありはしないのです。どうして今のうちに連れ立って城へ帰り、それを守ろうとなさらないのですか?しかも城壁は高く厚みもあるし、食糧も豊富です。もし引き返して県令を見付け出し、一緒に固守するとすれば、王度も長くは持たず、攻撃をかけて打ち破ることも可能です。」薛房らはその通りだと思ったが、官吏民衆らは行くことを承知せず、「賊兵が西にいるから、東へ行くしかないんだ」と言う。程昱は薛房らに「愚民どもには計画を定められませぬ」と告げ、密かに数人の騎兵を東山(渠丘山)の頂きへやって旗を揚げさせ、薛房らにはそれを遠望し、大声で「賊軍はもうとっくに到着しているぞ!」と叫びながら山を下り、城へと向かわせると、官吏民衆は慌てふためいてその後を付いてきた。県令を探し当てて一緒に城を固めると、王度らが来襲して城を攻撃してきたが、陥落させられず立ち去ろうとした。程昱は官吏民衆を率いて門を開き、奴らに奇襲攻撃をかけると王度らは潰走した。東阿はこうして全うできたのである。

初平年間(一九〇~一九四)、兗州刺史劉岱が程昱を招聘したが、程昱は応じなかった。そのころ劉岱は袁紹・公孫瓚と手を結んでおり、袁紹は妻子を劉岱のところへ住まわせていたし、公孫瓚もまた従事范方に騎兵を率いさせて劉岱を支援していた。のちに袁紹と公孫瓚の仲は決裂、公孫瓚が袁紹軍を撃破し、袁紹と絶交させるため、使者を通じて、袁紹の妻子を寄越すようにと劉岱に申し入れてきた。同時に范方へも命令を出して「もし劉岱が袁紹の家族を差し出さねば騎兵を連れて帰って参れ。は袁紹を平定してから劉岱にも軍勢を差し向けるつもりだ」と言っていた。劉岱は連日の軍議でも結論を出せず、別駕王彧が劉岱に建白して「程昱は計略の持ち主ですから、深刻な事態でも上手く裁くことができるでしょう」と言うので、劉岱は程昱を召し寄せて計略を訊ねた。程昱は言った。「もし袁紹の身近な支援を棄て、公孫瓚の疎遠な支援を求めるとすれば、それはから人手を借りて溺れる子を救おうとするような議論です。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。いま袁紹軍を崩壊させたとはいっても、最終的には袁紹に生け捕られるばかりです。一時の勢いに乗じて長期的計画を考慮しなければ、将軍を敗北させる結果になりまするぞ。」劉岱はそれを聞き入れた。范方はその騎兵を連れて帰国したのだが、到着せぬうちに、公孫瓚はさんざんに袁紹に打ち破られたのであった。劉岱は上表して程昱を騎都尉に任じようとしたが、程昱は病気を口実に辞退した。

劉岱が黄巾賊に殺害されると、太祖曹操)が兗州に君臨して程昱を招いた。程昱が出かけようとしたとき、郷里の人々は「どうして前後(の行動)が矛盾しているのかね!」と言ったが、程昱は笑うばかりで答えなかった。太祖はともに語り合って彼に満足し、程昱に寿張の県令を守らせた。太祖は徐州へ遠征に出るとき、程昱を荀彧とともに残して鄄城を守らせた。張邈らが叛逆して呂布を迎え入れると、郡県は波紋の広がるが如く呼応し、動かなかったのはただ鄄城・范・東阿だけであった。呂布軍からの投降者が、陳宮は自分で軍勢を率いて東阿を攻略し、同時に汎嶷を出して范を攻略させようとしている、と証言した。官吏民衆はみな恐怖した。荀彧が程昱に告げた。「いま兗州はこぞって反逆し、ただこの三城があるばかりです。陳宮らが重装兵でもって当方に向かってきたとき、心に深い結び付きがなければ三城は必ず動揺してしまうでしょう。君は民衆の希望です。帰国してその地を説得して頂ければ、まず上手くいくでしょう!」程昱はそこで帰郷することにしたが、范を通りがかったとき、そこの県令靳允を説得して述べた。「呂布が君の母や弟、妻子を人質に取ってしまったと聞きました。孝子として誠に心配でならないことでしょう!いま天下は大いに乱れ、英雄どもが並び立っており、(その中には)必ずや命世(の君主)がいて、よく天下の混乱を鎮めるでありましょう。それこそ智者が慎重に選択するところです。君主を得た者は栄え、君主を失った者は亡ぶものです。陳宮が叛逆して呂布を迎え入れると百城はみな呼応し、あたかも何事かを成し遂げられそうに見えます。しかし君自身の目で見て、呂布は如何なる人物でしょうか!呂布というのは内面が粗忽で、親愛することが少なく、強情にして無礼であり、匹夫どものに過ぎません。陳宮らはその場のなりゆきから一時的に合流しただけですから、主君を補佐することなどできますまい。軍勢が多いとはいっても(事業を)最後まで完成させることは絶対にありません。曹使君(曹操)の智略は世に二つとなく、天から授かったも同然です!君が頑として范を固め、我が東阿を守れば、田単の功績は成立いたします。忠義に違背して悪事に荷担し、母子ともども身を亡ぼすのとではどちらがよいでしょうか?ただひたすら君はそのことを熟慮してください!」靳允は涙を流しながら言った。「どうして二心など抱きましょうや。」このとき汎嶷はすでに県内まで来ていた。靳允はそこで汎嶷と面会したが、伏兵を設けてこれを刺殺し、帰城して手勢を率いて守りを固めた。[一]程昱は同時に騎兵を分遣して倉亭津を遮断させていたので、陳宮は到来しても渡ることができなかった。程昱が東阿に到着したとき、東阿の県令棗祗はすでに官吏民衆を励まして城に楯籠り、守りを固めていた。さらに兗州従事薛悌も程昱とともに策謀を立て、ついに三城を守り抜いて太祖(の到着)を待ち受けた。太祖は帰還するなり程昱の手を執り、「の尽力がなければ、吾は帰る場所さえ失うところであった」と言い、程昱を東平国のにしてくれるよう上表し、范に屯させた。[二]

[一] 徐衆の『』に言う。靳允は曹公(曹操)に対して君臣にはなっていなかったし、母は究極の親しき人である。道義的には立ち去るべきであった。むかし王陵の母が項羽に拘束されたとき、母は高祖劉邦)が必ず天下を取るであろうと考え、自殺することによって王陵の志を固めさせた。心を澄ませ、束縛を離れて初めて、他人に仕えて死力を尽くす節義を貫くことができるのである。の公子開方に仕えて長年にわたり帰国することはなかったが、管仲は自分の親を思い出さぬ人が主君を愛せるはずがないと考え、(開方を)宰相とすることに反対した。これこそ忠臣を求めるのに必ず孝子の門を尋ねる理由なのである。靳允は真っ先に究極の親しき人を救うべきであった。徐庶の母が曹公に捕らえられたとき、劉備が徐庶を帰らせたのは、天下を治めようとする者ならば、人の子としての情けを理解しているからである。曹公もまた靳允を送り出すべきであった。

[二] 『魏書』に言う。程昱は若いころ、泰山に登って両手で太陽を掲げるという夢をよく見ていた。程昱は内心それを不思議に思い、荀彧にありのままを語った。兗州が反乱を起こしたとき、程昱のおかげで三城は守られたのであるが、このとき荀彧が程昱の見た夢のことを太祖に告げた。太祖は(程昱に向かって)言った。「は最後まで吾の腹心でいてくれ。」程昱は本名を「」といったが、太祖がその上に「日」の字を付け加え、程昱と改名させたのである。

太祖は濮陽における呂布との戦いで何度も敗北を被ったが、が発生したため、それぞれに引き払うことになった。それを踏まえ、袁紹は人をやって太祖に連合を説き、太祖に家族をへ住まわせようとした。太祖は兗州を失陥したばかりで軍糧も尽き果てており、それを承知しそうになった。そのとき程昱はちょうど使いから帰ってきたところだったので、拝謁したおりに述べた。「密かに聞くところでは、将軍は家族を出して袁紹と連合なさるお考えとのこと。本当にそのような事実があるのでしょうか?」太祖は言った。「その通りだ。」程昱は言った。「察しまするに、将軍は事業に着手されながら臆病風にかられましたな。さもなくば、どうしてかように浅はかなお考えをなさるのでしょう!そもそも袁紹なる者は、燕・趙の地を根拠に天下併合の野心を抱いておりますが、成功を収めるには智力が不足しているのです。将軍はご自身で考えてみて、彼の下風に立つことがおできになりましょうか?将軍は龍虎のごとき威光を備えておりますのに、韓(信)・彭(越)のごとき屈従がおできになりましょうか?ただいま兗州を失ったとはいえ、まだ三つの城が残っており、戦闘に巧みな兵士も一万人は下りません。将軍の神武をもって、文若(荀彧)・程昱らを手に入れて使いこなしておられるのですから、霸王の事業は完成させられます。将軍よ、ご再考を願います!」太祖はようやく取り止めた。[一]

[一] 『魏略』は太祖を説いた程昱の言葉が掲載されている。「むかし田横は斉の名族であって、兄弟三人が次々に王となり、千里の斉を根拠にして百万の軍を所有し、諸侯と並んで南面して孤と称しておりました。その後、高祖が天下を手に入れたとき、田横は一転して降人となりました。そのようなとき、田横はどうして平静を保ちえたでしょうか!」太祖は言った。「いかにも、これはまこと丈夫たる者には最大の屈辱である。」程昱は言う。「程昱は凡愚であり、ご高察を理解できないのでありますが、将軍のご意志は田横に及ばぬものと思われます。田横などは斉の一壮士に過ぎませんが、それでも高祖に臣従することを恥じたのでありました。いま聞くところでは、将軍は家族を出して鄴に住まわせ、北面して袁紹に臣従なさるお考えとのこと。そもそも将軍の聡明神武でもって、あろうことか袁紹の下風に立つことを恥じないとは。勝手ながら将軍のために恥ずかしく思いまするぞ!」これ以後の文句は本伝とほぼ同じである。

天子(劉協)はに遷都すると、程昱を尚書とした。兗州がいまだ安集に苦しんでいたため、改めて程昱を東中郎将とし、済陰太守を領させ、都督兗州事とした。劉備が徐州を失って太祖に身を寄せたとき、程昱は劉備を殺すよう太祖を説得したが、太祖は聞き入れなかった。記載は『武帝紀』にある。のちにまた劉備を徐州に派遣して袁術を迎撃させたとき、程昱は郭嘉とともに太祖を説得して言った。「公が過日、劉備を仕留められなかったことについて、程昱らはまことに力が及びませんでした。ただいま彼に軍勢を委ねましたからには、必ずや異心を抱きましょうぞ。」太祖は後悔して彼を追いかけさせたが、追い付けなかった。ちょうど袁術は病死し、劉備は徐州に到着するとその足で車胄を殺害し、挙兵して太祖に背いたのであった。しばらくして程昱は振威将軍に昇進した。袁紹が黎陽に着陣して(黄河の)南岸へ渉ろうとしたとき、程昱は七百人の軍勢を領して鄄城を固めていた。太祖はそれを聞くと程昱へ人をやり、兵二千人を増派してやろうと告げた。程昱は承知せず、こう言った。「袁紹は十万の軍勢を抱え、行く先々で遮る者はないと自負しておりますゆえ、いま程昱の手勢が少ないのを見れば、まず(程昱を)軽んじて来襲することはありますまい。もし程昱の手勢が増やされれば、(袁紹側とすれば)通過するためには攻撃せざるをえず、攻撃すれば必ず勝ちます。(我が方とすれば)その軍勢を双方むざむざと犬死にさせることになります。公よ、お疑い召されるな!」太祖はそれを採用した。袁紹は程昱の手勢が少ないと聞き、案の定、向かってこなかった。太祖は賈詡に言った。「程昱の大胆さは(孟)賁・(夏)育を上回るものだな。」程昱は戸籍を逃れて山岳や沼沢に潜んでいる者どもを捕まえて精兵数千人を手に入れ、軍勢をまとめて黎陽で太祖に合流し、袁譚・袁尚を討伐した。袁譚・袁尚が潰走すると、程昱は奮武将軍を拝命し、安国亭侯に封ぜられた。太祖が荊州を征討すると、劉備はへと逃亡した。論者は孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱はこれを思料して言った。「孫権は在位したばかりで、海内に畏怖されるまでには至っていない。曹公は天下に敵う者なく、ひとたび荊州を取り上げれば、威光は長江一帯を震え上がらせた。孫権は計略の持ち主ではあるが、単独で対抗することはできないのである。劉備には英名があり、関羽・張飛はいずれも万人之敵であるゆえ、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ。困難が解消されれば勢力を分かつであろうが、劉備はそれを元手に成功を収め、もはや捕らえて殺すことはできないであろうよ。」孫権は案の定、劉備に多くの軍勢を与え、そうして太祖を防いだのであった。その後、中原は少しづつ平定されていった。太祖は程昱の背を叩きながら、「兗州が敗北したとき、君の言葉を採用しなかったら、吾はどうしてここまで来られたであろうか?」と言った。(程氏の)一門が牛酒を持ち合って盛大な宴会を催したが、(その席上で)程昱は言った。「足るを知れば辱められない。吾は引退すべきだな。」そこで自分から上表して軍勢を返還し、門を閉ざして出てこなくなった。[一]

[一] 『魏書』に言う。太祖が馬超を征討したとき、文帝曹丕)は残って守りを固め、程昱を軍事に参画させた。田銀・蘇伯らが河間郡に反逆すると、将軍賈信を派遣して討伐させたところ、賊軍から千人余りの投降を乞う者があって、提言する者はみな旧法に従うべきと主張した。程昱は言った。「投降者を誅殺するというのは騒乱の時代の考えでございます。天下が雲のごとく沸き立っておりましたゆえ、包囲後に投降した者を許さぬことによって天下に威信を示し、利益への道筋を啓蒙して包囲されずに済むようにしてやったのです。現在、天下はほぼ平定されており、国境内にいるのは、それこそ(討伐すれば敵国に逃げ込むようなことはできず)降服すると決定された賊徒であって、これを殺しても畏怖させることはできませぬ。昔日、投降者を誅殺したときの意味とは違ってきているのであります。は誅殺すべきでないと愚考いたします。たとい誅殺するとしても、まずご報告すべきでありましょう。」提議した者たちが口々に「軍事には専断権があって、問い合わせをしてはならぬのだ」と言うと、程昱は応答できなかった。文帝が立ち上がって(部屋へ)入り、特別に程昱だけを招き入れて「君には言い尽くせなかったことがあるのだろう?」と言うと、程昱は「およそ独断で命令をするというのは、戦時における緊急時、一呼吸ほどの時間しかない場合だけの考え方なのです。いま件の賊徒どもは賈信の手に制御されており、一朝一夕の変事が起こることはございません。それゆえ老臣は将軍がそうなさることを願わないのであります」と言った。文帝は言った。「君の配慮はよろしい。」そこで太祖に報告したところ、太祖はやはり誅殺せよとはしなかった。太祖は帰還してから(その経緯を)聞いて大層喜び、程昱に告げた。「君はただ軍計に明るいばかりでなく、そのうえ他人の父子関係も善処してくれる。」

程昱は反骨的な人柄であったため他人に逆らうことが多く、程昱が反逆を企てていると密告する者もあったが、太祖の恩賜待遇はますます手厚くなっていった。が建国されると衛尉になったが、中尉邢貞と威儀(儀礼上の序列)を争ったため罷免された。文帝が践祚すると、ふたたび衛尉となり、封爵を安郷侯に進められて三百戸を加増され、以前と合わせて八百戸になった。(領国を)分割して末子の程延および孫の程暁を列侯に封じた。三公)に任じようとした矢先、薨去した。帝は彼のために涙を流した。車騎将軍を追贈し、して粛侯と言った。[一]子の程武が後を継ぎ、程武が薨去すると子の程克が後を継いだ。程克が薨去すると子の程良が後を継いだ。

[一] 『魏書』に言う。程昱はときに八十歳であった。 『世語』に言う。むかし太祖が食糧に欠乏していたとき、程昱は本県で略奪を働いて三日分の食糧を提供したが、いささか干した人肉が混入していた。そのことによって朝廷内における声望を失い、そのため官位が公まで昇らなかったのである。

程暁伝

程暁は嘉平年間(二四九~二五四)、黄門侍郎になった。[一]そのころ校事が勝手放題を働いていたので、程暁は上疏して述べた。「『周礼』に『官職を設けて職掌を分担し、それを民衆の規範にする』と言い、『春秋(左氏)伝』に『天には十日のがあり、人には十等の位がある』と言っております。愚人は賢人の前に出られず、賤民は貴族の前に出られないものです。それを踏まえて、聖者哲人を並び立たせ、風習に従って(政治を)樹立するのであります。功労によって明快に試験し、九年ごとに成績を考課することから、各人はその業務に励み、僭越なことはすまいと考えるようになるのです。だからこそ欒書晋侯を救おうとしたのを彼の息子は納得せず、死人が街路に横たわっているのを邴吉は問題にしなかったのであります。上司は職権を離れた功績を督促せず、部下は身分を外れた賞賜を計画せず、官吏は兼官の権勢を持たず、民衆は二事の役務を担わない。これこそが誠に国家の要綱、治乱の根本なのでございます。遠くは経典を閲覧し、近くは秦・漢を観察いたしますれば、官名が改められて職掌も同じでないとはいえ、上位を尊んで下位を抑え、職分を明らかにして先例をはっきりさせるという点において、その趣旨は一致しております。当初、校事の官が庶政に干渉することはございませんでした。むかし武皇帝(曹操)の大事業が草創されたとき、あまたの官職は整備されておらず、そのうえ軍旅の苦労もあって民心は安定せず、そのためささいな罪ではあっても検挙せざるを得ませんでした。ですから校事を設置したのは一時的な状況を優先したものでしかないのです。それでも検察のやり方には節度があって、勝手放題には至りませんでした。これは霸者の便宜であって、王者の正道ではございません。その後、次第に重任を蒙るようになると、かえって害毒になってしまい、それが習いとなって根本を正そうとする者がいなくなりました。とうとう上は宮廟を取り調べ、下は羣官を仕切り、官職としては部署が定められず、職権としては分限が定められず、意図に従い感情に任せて、ただ気分の赴くまま仕事に当たるようになったのです。法律は筆先で捏造されて、憲法や詔勅による根拠がなく、裁判は部内で決定されて、調査や証言は無視されており、彼らが属官を選任する場合でも、慎ましやかな者は粗忽とされ、謥詷なる者が有能とされる有様ですし、彼らが仕事に当たる場合でも、冷酷で乱暴なのを公正で厳格なのだと言い、法理に忠実なのを臆病で柔弱なのだと言っております。表面では天威にかこつけて権勢を振るい、内実では悪党どもを集めて腹心としており、大臣たちは彼らと勢力争いをすることを恥じ、堪え忍んで物言わず、小者たちは彼らの矛先を恐れて、思い詰めて告発もよういたしません。果ては、尹模なる者が公衆の面前でも欲しいままに悪行を働くほどになりました。罪悪は露見して道行く人のだれもが知っておりますのに、ささいな過失でさえ何年ものあいだ報告されていないのであります。『周礼』のいう官職を設ける意義から外れているうえに、さらに『春秋』の十等の道義にも外れてしまいました。ただいま外部には公卿・将校があって各部署を総攬し、内部には侍中・尚書があって万機を統御し、司隷校尉が京都を監督し、御史中丞が宮殿を監察しておりますが、みな賢才から厳選してその職に充て、憲法・詔勅を明らかにして非違を糾しているのでございます。もしこれらの諸賢でさえ力不足であるとすれば、校事のごとき小役人はなおさら信用できないことになりましょう。もしこれらの諸賢がそれぞれに忠勤を尽くすとすれば、校事のごとき微々たる輩がそれ以上に付け足すものはないことになりましょう。もし厳選された国士を校事に異動させるならば、それは中丞・司隷と重複する官職を一つ増やすことでしかなく、もし旧来通りの人選をするならば、尹模のような悪事は今後も再発するでありましょう。どちらを選ぶにしても計算してみれば、これを採用する理由がございません。むかし桑弘羊のために利益を求めましたが、卜式は桑弘羊を釜茹でにするだけで天気を雨降りにできると申しました。もしも政治の善し悪しが必ず天地を感応させるのであれば、臣は、水害や日照りの災難が校事のせいではないと言い切れないのが心配になります。恭公は君子を遠ざけて小人を近付けましたので、『国風』が(詩に)託して諷刺いたしました。献公は大臣を捨てて小者と計画を立てましたので、定姜は有罪だと判断いたしました。たとい校事が国家にとって有益だとしても、礼の見地から言えば、それでも大臣の心を傷付けます。ましてや邪悪さが暴露されたにも関わらず、なおも廃止しないというのは、それこそのほころびを繕わず、道に迷って引き返さないということであります。」こういうことがあって、ついに校事の官を廃止することになった。程暁は汝南太守に昇進し、四十歳余りで薨去した。[二]

[一] 『世語』に言う。程暁は字を季明といい、通達した見識の持ち主であった。

[二] 『程暁別伝』に言う。程暁は盛んに文章を著したが、多くは散逸してしまい、現存するのは十分の一にも満たない。