利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。公が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」公は言った。「劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。[一]袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」郭嘉もまた公に勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。劉備は袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。劉備の将軍関羽が下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。公は官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。

[一] 孫盛の『魏氏春秋』に言う。諸将に答えて言った。「劉備は人傑である。将来寡人を憂えさせるだろう。」臣裴松之は思う。史書は事柄を記録する段階で、すでに多くの潤色をしており、そのため過去の記述には事実でないものがある。後世の作者がさらに作意を起こして改竄する。事実を失うということにおいて、いよいよ遠くなるではないか!だいたい孫盛は書物を作るとき『左氏』を利用して旧来の文章を改変することが多く、こうした例は一つに止まらない。ああ、後世の学者はどれを信ずればよいのか?しかも魏武はまさに天下に向かって大志を逞しくしているときだ。それなのに(呉王の)夫差が死を覚悟したときの言葉を用いている。その類比の間違いは最も(ひどいもの)だ。

二月、袁紹は郭図淳于瓊顔良を派遣して東郡太守劉延白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。夏四月、公は北進して劉延を救援した。荀攸は公を説得して言った。「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。公が延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」公はそれに従った。袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。公はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬にき、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。袁紹はそこで黄河を渡って公の軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。公は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。しばらくしてまた報告があった。「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」公は言った。「もう報告はしてくれるな。」そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。荀攸は言った。「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」袁紹の騎将文醜は劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。諸将はまた建白した。「馬に乗るべきでしょう。」公は言った。「まだだ。」しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。公は言った。「いいぞ。」そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。公は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。

八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。公もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。[一]時に公の軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。[二]袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。公の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、許へ帰還したいと相談した。荀彧は言った。「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。公の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」公はそれに従った。

[一] 習鑿歯の『漢晋春秋』に言う。許攸は袁紹を説得して言った。「公は曹操と攻撃しあってはなりませぬ。速やかに諸軍を分割して対峙され、その一方で他の道から直進して天子をお迎えになれば、事業はたちどころに完成いたしましょうぞ。」袁紹は聞き入れないで言った。「吾はまず彼を包囲して攻め取らねばならぬ。」許攸は憤怒した。

[二] 臣裴松之は思う。魏武は初めに挙兵したとき、すでに軍勢五千人を持っていた。以後、百戦百勝し、負けたのは十中の二・三に過ぎない。ただ一度黄巾賊を撃破しただけで、降服した兵卒三十万人余りを受け入れており、その他の併呑したものは全てを書き記すことができない(ほど多い)。征討戦で損傷したといっても、これほど少なくなったはずはないのである。陣営を構築して守備するというのは、矛先をぶつけて決戦することとは違うものだ。『本紀(武帝紀)』では「袁紹の軍勢は十万人余りになり、屯営は東西数十里に展開された」と言っている。魏の太祖の臨機応変が無限で、武略が不世出であったとしても、どうして数千の軍勢を持つだけで長時間に渡って拮抗できようか?理屈をもって言うならば、おそらくそうではなかっただろうと思われる。袁紹の屯営は数十里にもなるのに、公がよく陣営を分割して当たることができたが、これこそ軍勢がさほど少なくはなかった(証拠の)第一である。袁紹がもし十倍の人数を持っていたのであれば、理屈からいって全力で守備兵を包囲し、出入りを遮断したはずだ。それなのに公は徐晃らをやってその輸送車を攻撃させており、公もまた自ら出てきて淳于瓊らを攻撃しているが、を掲げて往来しているのにまるで抵抗がなかった。袁紹の兵力では牽制することができなかったのは明らかであって、これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第二である。諸書ではみな公が袁紹の軍勢八万人をにしたと言っており、ある本では七万と言っている。八万もの人間が逃げ散れば、八千人で捕縛することなどできるものではない。それなのに袁紹の大軍はみな手を拱いて殺戮されたのだという。一体どんな力で彼らを制御したというのか?これこそ(公の軍勢が)さほど少なくはなかった(証拠の)第三である。記述しようとした者が、少なく見積もることによって奇抜さを示そうとしたものであり、その事実を記録したものではないのである。『鍾繇伝』を調べてみると、「公が袁紹と対峙しているとき、鍾繇は司隷となり、馬二千匹余りを送って軍に供給した」と言っているが、『本紀』および『世語』ではいずれも、公はそのとき騎馬六百匹余りを持っていたと言っている。鍾繇の馬はどこにいると言うのか?

孫策は公が袁紹と対峙していると聞き、そこで許を襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。

汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略した。袁紹は劉備をやって劉辟を支援させ、公は曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。

袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、公は荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。公は袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。公は輸送要員たちに告げた。「十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで公に淳于瓊らを攻撃せよと説得した。左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡は公に勧めた。公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。公はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。左右に言う者があった。「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」公は怒りを込めて言った。「賊が背後に来てから申せ!」士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。[一]袁紹は初めに公が淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に「彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と告げ、そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。[二]公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。[三]冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。

[一] 『曹瞞伝』に言う。公は許攸がやって来たと聞くと、裸足で飛び出して彼を迎え入れ、手のひらを撫でつつ笑いながら言った。「子卿が遠来したからには、吾が事業は完成だ!」(許攸は)座中に入るなり公に言った。「袁氏の軍勢は盛強ですのに、どうやって彼らと対峙なさるのですか?いま食糧はいかほどありますか?」公は言った。「まだ一年は支えられるよ。」許攸は言った。「左様なことはございますまい。もう一度おっしゃってください!」また言った。「半年は支えられる。」許攸は言った。「足下は袁氏を打ち破りたくはないのですか。どうして事実でないことを言うのでしょう!」公は言った。「さっきの言葉はただの戯れだ。その実、一ヶ月までなのだが、この点どうすればいいのだろう?」許攸は言った。「公は孤立した軍で独り守っておられ、外に救援はなく、そのうえ食糧はすでに尽き果ており、これこそ危急のでございます。いま袁氏の輜重車は一万乗もあり、故市・烏巣におりますが、駐屯軍には厳重な警戒がございません。いま軽騎兵によってそれを襲撃し、不意を突いて出て、その集積物資を焼けば、三日もせぬうちに袁氏は自壊いたしましょう。」公は大いに喜び、そこで歩騎の精鋭を選りすぐり、みな袁軍の旗幟を用い、を含み馬の口を縛り、夜、間道に沿って出陣した。一人づつ薪の束を抱え持ち、道中で尋問する者があれば「袁公は曹操が後詰めを略奪することを恐れられ、軍勢を派遣して守備を増やされたのでございます」と語った。聞いた者はその通りなのだろうと信じ込み、誰もが平然としていた。到着するなり屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣中では驚いて混乱をきたした。これを大破し、その食糧・財宝を焼き尽くし、督将眭元進騎督韓莒子・呂威璜・趙叡らの首を斬り、将軍淳于仲簡の鼻を削ぎ落としたが、まだ死ななかった。士卒千人余りを殺して鼻をすべてもぎ取り、牛馬の唇や舌を削ぎ落とし、それを袁紹軍に誇示した。(袁紹の)将士はみな哀しみ恐れた。このとき夜中に仲簡を捕らえ、(仲簡を)引っ張って麾下に参詣した者がいた。公は告げて言った。「どうしてこんな有様になったのかね?」仲簡は言った。「勝負は天に従うもの。どうして質問することがあろうか!」公は心底から殺すまいと思っていた。許攸は言った。「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ。」そこで彼を殺した。

[二] 『献帝起居注』に言う。公は上表して言った。「大将軍・鄴侯の袁紹は、かつて冀州牧韓馥とともに故の大司馬劉虞を擁立し、金璽を彫り上げ、故のの県長畢瑜を劉虞のもとへ祗候させて命運の法則を説明させました。また袁紹は臣に手紙を送ってきて『鄄城を都にすべきだ。擁立される方がいらっしゃらねばならぬ』と言い、勝手に金銀の印章を鋳造し、孝廉や計吏たちはみな袁紹のもとへと参詣いたしました。従弟である済陰太守袁叙は袁紹に手紙を送って言いました。『いま海内は崩壊しており、天意は実に我らが家にあります。神秘的な働きにはがあるものですが、まず尊兄に注がれるでありましょう。南兄の臣下が(彼を)即位させようといたしましたが、南兄は言いました。年齢では北兄が長け、位階では北兄が重い、と。すぐさま御璽を送ろうとしましたが、ちょうどそのとき曹操が道を遮ったのであります』、と。袁紹一門は代々国家の重恩を受けておりながら、凶逆無道さは、とうとうこれほどまでになったのです。すぐさま兵馬を率いて官渡で戦いましたが、聖朝の威光のおかげで袁紹の大将淳于瓊ら八人の首を斬ることができ、(袁紹軍は)ついに大破潰滅いたしました。袁紹と子息袁譚は甲冑も着けずに遁走しております。およそ斬った首は七万級余り、輜重・財物は巨億にもなりました。」

[三] 『魏氏春秋』に言う。公は言った。「袁紹の強大さにぶつかったときは、孤でさえ自信を保てなかった。まして衆人ならばなおさら!」

むかし桓帝の時代、黄星楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東殷馗馗は古代の逵の字で、『三蒼』に見える。天文が得意だったが、「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」と言っていた。このときまでおよそ五十年、こうして公が袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。

六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹の倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。九月、公は許に帰還した。袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。公は南進して劉備を征討した。劉備は公が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。

七年(二〇二)春正月、公は譙に着陣した。布令を下して言った。「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。[一]進行して官渡に着陣した。

[一] 『褒賞令』所載の公の祭文に言う。「故の太尉橋玄は明徳を大いに施し、博愛寛容であった。国家は明らかな訓戒を念じ、士人はうるわしき謨訓を思っている。心霊はく肉体はか、かなるかなげなるかな!吾は幼年のころ(橋公の)堂室(表座敷と部屋)に升ることができ、とりわけ頑迷鄙陋の性質でありながらも、大君子に受け入れられることになった。栄誉が増し注目が益したのは、みな推奨や助力のおかげであり、あたかも仲尼孔子)が顔淵顔回)には及ばないと称し、李生賈復に厚く感歎したかのようであった。士は己を知る者のために死すというが、それを思って忘れたことはない。それにゆったりとしたときに誓約の言葉を頂戴したものだ。『(我が)殂逝(死ぬこと)したのち道中通りかかることがあったとして、一斗の酒と一羽の鶏をもって訪れ、酒を地に注いでくれなければ、車が三歩行くだけで腹痛になっても怪しく思わないでくれよ!』とっさの戯れの言葉ではあったが、よほどの親密さからの真心こもった好意でなければ、どうしてこんな言葉が出てくることを納得できようか?霊魂が怒りを抱き、残された己に病気をもたらしうると思っている訳ではないが、昔を懐かしみ惟顧すれば、そのことを思い出して悽愴とした気持ちになる。命を奉じて東征し、郷里に宿営したとき、北に貴国を望んで陵墓を心に浮かべた。わずかな祭礼、わずかな供物だが、公よ、請い願わくば受けよ!」

袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。秋九月、公は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。