利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

建安元年(一九六)春正月、太祖が進軍して武平に臨むと、袁術の配置した陳国の相袁嗣は降服した。

太祖が天子を迎え入れようとしたとき、諸将の中には疑う者もあったが、荀彧・程昱はそれを勧めた。そこで曹洪に軍勢を率いさせて西に迎えさせたが、衛将軍董承が袁術の将軍萇奴とともに険阻に拒んだため、曹洪は進むことができなかった。

汝南・潁川の黄巾賊の何儀・劉辟・黄邵・何曼らは、軍勢おのおの数万人であり、かつては袁術に呼応したり、また孫堅に附属したりしていた。二月、太祖は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首すると、何儀および彼らの軍勢はみな降服した。天子は太祖を建徳将軍に任命し、夏六月、鎮東将軍に昇進させ、費亭侯に封じた。秋七月、楊奉・韓暹が天子を奉じて洛陽に帰還し、[一]楊奉は別途、に屯した。太祖がそのまま洛陽へ赴いて京都を守護すると、韓暹は遁走した。天子は太祖に節鉞し、録尚書事とした。[二]洛陽は破滅しており、董昭らは太祖にへの遷都を勧めた。九月、御車は轘轅を出て東下し、太祖を大将軍とし、武平侯に封じた。天子が西方に遷都してからというもの、朝廷は日ごとに混乱していたが、このときになって宗廟・社稷の制度が初めて確立された。[三]

[一] 『献帝春秋』に言う。天子は初めて洛陽に到着したとき、城西にあるの中常侍趙忠の邸宅に行幸した。張楊に宮殿を修繕させて、殿舎を「楊安殿」と名付け、八月、帝はそこで居を遷した。

[二] 『献帝紀』に言う。また司隷校尉を領した。

[三] 張璠の『漢紀』に言う。むかし天子は曹陽において敗北したとき、黄河に船を浮かべて東下しようと考えた。侍中・太史令王立は言った。「昨春より太白(金星)が牛宿(やぎ座)・斗宿(いて座)において鎮星(土星?)を犯して天津(はくちょう座)をよぎり、熒惑(火星)もまた逆行して北河(ふたご座)を守っており、犯すことができません。」そのため天子はついに黄河を北岸へと渡らず、軹関から東方に出ようとした。王立はまた宗正劉艾に告げた。「以前、太白が天関を守り、熒惑と遭遇しておりました。金と火が交わり遭遇するのは革命のでございます。漢の祚は尽き果て、晋・魏に必ず興隆する者がありましょう。」王立はその後もしばしば帝に言上する。「天命には去就があり、五行は常時盛んなわけではありません。火に代わる者は土、漢を承ける者は魏、よく天下を安んずる者は曹姓でございます。ただただ曹氏にご委任なさるばかりです。」公はそれを聞いて、人をやって王立に伝えさせた。「公が朝廷に対して忠義なのは存じておる。さりとて天道は深遠たるもの。他言なさらぬのが幸いである。」

天子が東下したとき、楊奉は梁を出てそれを待ち構えようとしたが、追い付けなかった。冬十月、公は楊奉を征伐し、楊奉が南に袁術のもとへと出奔したので、そのまま彼の梁の屯所を攻撃し、それを陥落させた。ここにおいて袁紹を太尉としたが、袁紹は席次が公の下になることを恥じ、拝命を承諾しなかった。公はそこで固辞して、大将軍(の官職)を袁紹に譲った。天子は公を司空に任命し、車騎将軍(の職務)を行わせた。この歳、棗祗・韓浩らの建議を採用し、初めて屯田を興した。[一]

[一] 『魏書』に言う。騒乱(の時代)に遭遇してからというもの、大抵は食糧が欠乏していた。諸軍はならんで決起したが、年越しの計略もなく、飢えれば略奪して飽きれば残り物を棄てており、(その結果)瓦解して流浪して、敵もいないのに自滅する者が数え切れないほどだった。袁紹は河北にあったが、軍人は桑椹に食物を仰いでいた。袁術は江・淮にあったが、蒲蠃を給するのが手だった。人民は互いに食らいあい、州里はひっそりと静まりかえった。公は言った。「国家安定の術は、軍備の強化と食糧の充足にあるものだ。秦人は農業を急務として天下を兼併し、孝武は屯田によって西域を平定した。これこそ先代の良き模範である。」この歳、民衆から募集して許の城下で屯田を行い、百万の穀物を収穫した。こうして州郡への田官配置を定めると、いたるところで穀物が積み上げられた。四方を征伐するにも食糧搬送の苦労がなく、ついに羣賊を兼併して滅ぼし、よく天下を平定した。

呂布が劉備を襲撃して下邳を奪い取ったので、劉備が脱走して来降してきた。程昱が公を説得して「劉備を観察してみるに、英雄の才覚を持ち、はなはだ人々の心をつかんでおります。最後まで人の下についていないでしょう。早々にもこれを図るのが最上です」と言った。公は「いまは英雄を迎え入れたいときである。一個の人間を殺して天下の心を失ってはならんのだ」と言った。

張済関中から南陽に走っていたが、張済が死ぬと、従子の張繡がその軍勢を宰領した。二年(一九七)春正月、公はに着陣した。張繡は降服したが、あとになってそれを後悔し、再び反抗した。公はそれと戦ったが軍勢は敗北し、流れ矢に当たり、長子曹昂や弟の子曹安民が殺害された。[一]公はそこで軍勢を引き払って舞陰に帰還し、張繡が騎兵を率いて略奪に来ると、公はそれを撃破した。張繡はに遁走し、劉表と合流した。公は諸将に言った。「吾は張繡らを降しながら、すぐさま人質を取らぬ失敗を犯し、かような羽目になってしまった。吾はどうして敗北したのか分かった。諸卿はこれを見ていてくれ。今後はもう失敗しないぞ。」かくて許に帰還した。[二]

[一] 『魏書』に言う。公の乗馬は名を「絶影」といい、流れ矢に当たって頬と足とを傷付けた。同時に公の右臂にも命中した。『世語』に言う。曹昂は(怪我のため)騎乗することができず、公に馬を捧げた。公はそれで逃げ延びられたのだが、曹昂は殺害されてしまった。

[二] 『世語』に言う。旧制では、三公が軍勢を領して入朝した際、いつも戟を交わして(その人の)頸部を挟んでから御前に出ることになっていた。はじめ公が張繡を討伐しようとしたとき、(勅許を得るため)天子に朝覲したが、ちょうどその制度が復活されたばかりだった。公はそれ以来、再び朝見しようとしなくなった。

袁術は淮南において帝を称したいと思い、人をやって呂布に告げさせた。呂布はその使者を収監し、その文書を呈上した。袁術は怒って呂布を攻撃したが、呂布に破られてしまった。秋九月、袁術が陳に侵攻したので、公はこれを東征した。袁術は公自らやってきたと聞き、軍勢を棄てて逃走し、その将軍橋蕤・李豊・梁綱・楽就を残留させた。公は到着すると、橋蕤らを撃破し、これらを全て斬首した。袁術は逃走して淮水を渡った。公は許に帰還した。

公が舞陰から引き揚げたとき、南陽・章陵の諸県が再び叛逆して張繡に荷担していた。公は曹洪を派遣してそれらを攻撃させたが、不利となった。(曹洪は)引き揚げてに屯したが、しばしば張繡・劉表の侵害を被った。冬十一月、公は自ら南征して宛に着陣した。[一]劉表の将軍鄧済湖陽に楯籠っていたが、これを攻撃して陥落させ、鄧済を生け捕りにして湖陽を降服させた。舞陰を攻撃してこれを陥落させた。

[一] 『魏書』に言う。淯水に臨むと、亡くなった将兵を祀り、涙を流してむせび泣いた。人々はみな感動した。

三年(一九八)春正月、公は許に帰還すると、初めて軍師祭酒を設置した。三月、公は穣において張繡を包囲した。夏五月、劉表が軍勢を派遣して張繡を救援し、(公の)軍の背後を断絶しようとした。[一]公は引き揚げようとしたが、張繡の軍勢がやって来て、公の軍勢は進むことができなくなり、陣営を連ねて少しづつ進むことになった。公は荀彧に手紙を送って言った。「賊どもがやって来て吾を追撃し、一日に数里も行軍しているとはいえ、吾の計算では、安衆に到達するころには張繡の破滅すること必定である。」安衆に到達すると、張繡は劉表の軍勢と合流して要害を守り、公の軍勢は前後から敵を受けた。公はそこで、夜中に要害を掘鑿して坑道を作り、輜重を残らず送り出してから伏兵を設けた。ちょうど夜明けになったが、賊どもは公が遁走したのだと思い、全軍こぞって追撃してきた。そこで伏兵を放って歩兵と騎兵とで挟み撃ちにし、彼らを大破した。秋七月、公は許に帰還した。荀彧は公に訊ねた。「以前、賊が必ず破れると計算されたのは、どうしてですか?」公は言った。「奴らは我が帰還軍を圧迫し、吾を死地に置いて戦わせた。吾はこれこそ知力をもって勝利することだと思ったのだ。」

[一] 『献帝春秋』に言う。袁紹の叛逆した兵卒が公のもとに参詣して言った。「速やかに許を襲撃し、天子を擁して諸侯に命令するならば、四海は指差すだけで平定できましょう、と田豊が袁紹を使嗾しております。」公はそこで張繡包囲を解いた。

呂布はまたもや袁術に荷担して高順に劉備を攻撃させた。公は夏侯惇を派遣して彼を救援させたが、不利になった。劉備は高順に敗北した。九月、公は呂布を東征した。冬十月、彭城り、その相の侯諧を捕らえた。下邳まで進軍すると、呂布が自ら騎兵を率いて反撃してきた。(公は)それを大いに打ち破り、彼の驍将成廉を捕らえた。追撃して城下に至ると、呂布は恐怖を抱いて降服しようと思った。陳宮らはその計略を押しとどめ、袁術に救援を求める一方、呂布に出戦を勧めた。戦闘にはまた敗れ、引き返して固守した。(公が)これを攻撃しても陥落させられなかった。当時、公は連戦を重ねて士卒が疲弊していたため、引き揚げようと考えたが、荀攸・郭嘉の計略を用い、そのまま泗水・沂水を決壊させて城を水浸しにした。一ヶ月余りで、呂布の将軍宋憲・魏続らが陳宮を縛りあげて、城をこぞって降服してきた。呂布・陳宮を生け捕りにしたが、これらを全て殺した。太山臧霸・孫観呉敦・尹礼・昌豨はおのおの軍勢を集めていた。呂布が劉備を破ったとき、臧霸らはことごとく呂布に服従した。呂布が敗北すると臧霸らを捕らえたが、公は手厚く迎えて待遇し、そのまま青・徐二州を分割して海に付けて(?)委任し、琅邪・東海・北海を分割して城陽・利城・昌慮郡を立てた。

むかし公が兗州(牧)になったとき、東平の畢諶を別駕としていた。張邈が叛逆したとき、張邈は畢諶の母・弟・妻子を人質に取った。公は別れの挨拶をし、彼を行かせようとして言った。「卿の老母があちらにいる。行ってください。」畢諶は二心は抱きませぬと頓首した。公はそれを憎からず思い、彼のために涙を流した。(畢諶は)退出すると、そのまま逃亡してしまった。呂布が破滅したとき、畢諶は生け捕りにされた。人々は畢諶の身を案じて心配したが、公は「人間たるもの、その肉親に対して孝行な者が、主君に対してまた忠義でないということがあろうか!吾が求めるところである」と言い、(彼を)魯国の相とした。[一]

[一] 『魏書』に言う。袁紹はかねてより故の太尉楊彪・大長秋梁紹少府孔融と仲違いしており、公に指図して他事にかこつけて誅殺させようとした。公は言った。「いまは天下が土崩瓦解し、雄豪が並びつときに当たっており、補佐の宰相も頭立つ長官も、人々は怏々とした気持ちを懐き、おのおの自己保身の心を持つばかりです。これこそ上下の者が疑いあうです。疑念を抜きに待遇したとして、それでも信頼されない恐れがあるのです。もし排除される者があれば、誰が自分の危険を感じないでいられましょう?しかも、丈夫たる者が布衣(無官)の身から起ち上がって塵芥にまみれておりますのに、凡人に威張ったりみ付けにしたりされたなら、怨みに堪えられましょうか!高祖が雍歯へのを容赦すると、羣情(羣衆の心情)は安らぎました。どうしてそれを忘れられましょうや?」袁紹は、公が外見では公義にかこつけながら、内心では離叛異心を含んでいるのだと思い、深く怨恨を懐いた。臣裴松之が思うに、楊彪もまたかつて魏武(曹操)に困窮させられ、もうすぐ死ぬところだったし、孔融はとうとう誅戮を免れなかった。どうして、いわゆる「まずその言葉を行い、そののちこれに従う」といえようか!知ることが困難なのではなく、(問題は)それを行うことにあるのだというが、である。

四年(一九九)春二月、公は引き揚げて昌邑に到達した。張楊の将軍楊醜が張楊を殺したが、眭固がさらに楊醜を殺し、その軍勢を挙げて袁紹に属し、射犬に屯した。夏四月、軍勢を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に渡河させて彼を撃たせた。眭固は張楊の故の長史薛洪・河内太守繆尚に留守させ、自分は軍勢を率い、袁紹を北方で出迎えて救援軍を求めたが、(射)犬城で史渙・曹仁と遭遇した。(史渙らは)交戦のすえこれを大破し、眭固を斬った。公は、かくて黄河を渡って射犬を包囲した。薛洪・繆尚が軍勢を率いて投降したので、列侯に封じ、引き揚げて敖倉に着陣した。魏种を河内太守とし、河北の事務を属させた。

むかし公は魏种を孝廉に推挙したことがある。兗州が叛逆したとき、公は「ただ魏种だけは、まあを棄てたりすまい」と言った。魏种が逃走したと聞いて、公は怒って言った。「魏种よ、南はに、北はに走らねば、を置いておかぬぞ!」射犬が陥落したとき、魏种を生け捕りにした。公は言った。「ただその才能のみ!」その縛めを解いて彼を任用した。

このとき袁紹はすでに公孫瓚を併呑し、四州の地を兼有しており、軍勢は十万人余りになり、進軍して許を攻撃しようとしていた。諸将は敵わないと思ったが、公は「吾は袁紹の人となりを知っておるが、志は大きくとも智は小さく、色は激しくとも胆は薄く、強きを憎むとも威は少ない。(また)軍勢は多くとも分別がはっきりしておらず、将軍は驕るとも政令は一定しておらぬ。土地広く、糧食豊かであるとはいえ、まったく吾への捧げものになるばかりだ」と言った。秋八月、公は軍勢を黎陽に進め、臧霸らには青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ、于禁を黄河のほとりに駐留させた。九月、公は許に帰還すると、軍勢を分遣して官渡を守らせた。冬十一月、張繡が軍勢を率いて投降してきたので、列侯に封じた。十二月、公は官渡に布陣した。

袁術は陳で敗れてからというもの、次第に困窮してきており、袁譚が青州から彼を迎え入れた。袁術が下邳から北方に突き抜けようとしたので、公は劉備・朱霊を派遣してそれを待ち受けさせた。ちょうどそのとき袁術は病死した。程昱・郭嘉は公が劉備を派遣したと聞き、公に言上した。「劉備を放ってはなりませぬ。」公は後悔し、彼を追いかけたが間に合わなかった。劉備は東に行かぬうち、密かに董承らの謀反に荷担していた。下邳に到達すると、そのまま徐州刺史車胄を殺し、挙兵して沛に屯した。(公は)劉岱・王忠を派遣してそれを攻撃させたが、勝つことはできなかった。[一]

[一] 『献帝春秋』に言う。劉備は劉岱らに言った。「汝らが百人来ようとも、それでは我をどうともできやしないぞ。曹公(曹操)が自分で来ようとも、まだ分からないくらいだ!」『魏武故事』に言う。劉岱は字を公山といい、沛国の人である。司空長史として征伐に従軍し、功績を立てて列侯に封ぜられた。『魏略』に言う。王忠は扶風の人で、若いころ亭長となった。三輔が擾乱すると、王忠は飢えに苦しんで人をった。朋輩とともに南方は武関に向かった。ちょうど婁子伯婁圭)が荊州(刺史)となっており、北方の客人を迎えにやっていた。王忠は行きたくないと思い、そこで等伍を率いて彼に反撃してその軍兵を奪い取り、人数千人余りを集めて公に帰順した。王忠は中郎将に任じられ、征討に従軍した。五官将(曹丕)は王忠がかつて人を噉ったことがあると知り、そこで車駕に従って出陣したとき、のあいだの髑髏を取ってきて王忠の馬の鞍に繋がせ、笑い種にした。

廬江太守劉勲が軍勢を率いて投降してきたので、封じて列侯とした。