利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

武帝紀

初平元年(一九〇)春正月、後将軍袁術・冀州韓馥・[一]予州刺史孔伷・[二]兗州刺史劉岱・[三]河内太守王匡・[四]勃海太守袁紹・陳留太守張邈東郡太守橋瑁・[五]山陽太守袁遺・[六]済北国の相鮑信は[七]時を同じくして挙兵し、軍勢はおのおの数万人、袁紹を盟主に擁立した。太祖は奮武将軍を(臨時に)行った。

[一] 『英雄記』に言う。韓馥は字を文節といい、潁川の人である。御史中丞になった。董卓は推挙して冀州牧とした。当時、冀州の人民は繁栄し、兵糧は充足してあり余っていた。袁紹が渤海に赴任すると、韓馥は彼が挙兵することを恐れ、数人の部従事を派遣して彼を見張らせ、身動きできなくした。東郡太守橋瑁が京師の三公の文書を偽作して州郡に配布し、董卓の罪状を列挙して、「逼迫されていて自力救済することができない。義兵が国難から解放してくれることを切望している」と言っていた。韓馥は配布を受けて、従事たちを集めて質問した。「いま氏を助けるべきか。董卓を助けるべきか?」治中従事劉子恵は言った。「いま挙兵するのはお国のため。どうして袁だのだのと言われるのですか!」韓馥は発言が短慮であったと自覚し、そして恥ずかしそうな様子になった。劉子恵はまた言った。「軍事は凶事でありますから、首唱してはなりませぬ。いまは他州の様子を見つつ、動き出す者がいて初めて合流すればよいでしょう。冀州は他州より弱いということはございませぬから、他人の功績が冀州の右に出ることはありますまい。」韓馥はその通りだと思った。韓馥はそこで手紙を書いて袁紹に与え、董卓の悪事について述べ、彼が挙兵することを許可してやった。

[二] 『英雄記』に言う。孔伷は字を公緒といい、陳留の人である。張璠の『漢紀』は鄭泰が董卓を説得した言葉を載せ、「孔公緒は清らかな談議、高邁な議論が得意で、枯木にふっと息をかけたり生木にはっと息をかけたりしております」と言っている(鄭渾伝参照)。

[三] 劉岱は劉繇の兄で、事績は『呉志』に見える。

[四] 『英雄記』に言う。王匡は字を公節といい、泰山の人である。財貨を軽んじて施しを好み、任俠をもって知られていた。大将軍何進の(役所)に招かれたが、何進は割り符をもって王匡を派遣し、徐州において強弩五百を徴発させ、西へと京師に帰ってこさせた。ちょうどそのとき何進が敗北したので、王匡は州里に帰還した。家を出て(無官の身から)河内太守を拝命した。謝承の『後漢書』に言う。王匡は若いころ蔡邕と仲が良かった。その年、董卓軍に敗北すると泰山に逃げ帰り、強く勇ましい者を募集すると数千人を手に入れたので、張邈と合流しようとした。王匡はかつて執金吾胡母班を殺したことがあった。胡母班の親族は憤怒を抑えきれず、太祖と勢力を併せ、一緒に王匡を殺した。

[五] 『英雄記』に言う。橋瑁は字を元偉といい、橋玄の族子である。はじめ兗州刺史となり、極めて威厳と恩恵があった。

[六] 袁遺は字を伯業といい、袁紹の従兄である。長安の県令になった。河間の張超はいつも袁遺を太尉朱儁に推薦し、袁遺を「世間でも一番の懿徳があり、時代の中心となる器量があります。その忠誠正直さは、もとより天の与えたところです。典籍を網羅して諸子百家を総攬し、高みに登って賦を作り、物を見つめて名を知るといったことでは、それを現代に求めても当てにはならず、匹敵する者がございませぬ」と称えていた。記事は『(張)超集』にある。『英雄記』に言う。袁紹はのちに袁遺を任用して揚州刺史にしたが、袁術のために敗北した。太祖が「成長しても学問に勤しむ者は、ただ吾と袁伯業だけだ」と称えていたことは、文帝曹丕)の『典論』に記録がある。

[七] 鮑信のことは子の『(鮑)勛伝』に見える。

二月、董卓は挙兵のことを聞き、天子を遷して長安を都にした。董卓は洛陽に駐留し、とうとう宮殿を燃してしまった。このとき袁紹は河内にし、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に屯し、袁術は南陽に屯し、孔伷は潁川に屯し、韓馥はにあった。董卓の軍勢は強力で、袁紹らのうちあえて率先して進む者はなかった。太祖は言った。「義兵を挙げたのは乱暴者を誅するためであった。大軍がすでに集合したというのに、諸君らは何を逡巡するのか?以前、董卓は山東の軍勢が起こったことを聞いて、王室の権威に依りかかり、二周の険阻に拠りかかり、東に向いて天下を見下ろしたが、それが無道に行われたとしても、なお憂慮するに足るものであった。今や宮殿を燃焼し、天子を奪ってお遷ししたのだ。海内は震えおののき、落ち着くよすがも知らない。これこそ天が彼を亡ぼさんとする時である。一戦にして天下は平定できよう。(この好機を)失ってはならない。」こうして軍勢を引率して西進し、成皋を拠点にしようとした。張邈は部将衛茲を派遣し、軍勢を分割して太祖に随行させた。滎陽汴水に到達したとき、董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北し、士卒の死傷する者は非常に多かった。太祖は流れ矢にってしまい、乗っていた馬もを被った。従弟曹洪が馬を太祖に献じたので、夜間、脱走することができた。徐栄は太祖の率いる軍勢が少なく、(にも関わらず)一日中奮戦し続けたのを見て、「酸棗はまだ容易に攻められないぞ」と言い、やはり軍勢を引率して帰還した。

太祖が酸棗に到着すると、諸軍の軍勢十万人余りは、連日、酒を伴う豪勢な宴会を催しており、進軍攻略のことなど計画さえしていなかった。太祖は彼らを難詰し、さらに(彼らの)ために計略を立ててやった。「諸君よ、吾が計略を聞きたまえ。渤海は河内の軍勢を引率して孟津で対陣し、酸棗の諸将は成皋を守りつつ、敖倉を占拠し、轘轅・太谷を封鎖し、それらの要害を完全征圧する。袁将軍は南陽の軍を統率して丹・析に布陣して武関に入り、それによって三輔地方を震動させるのだ。みな城塁を高く防壁を深くして戦わないようにする。次々に疑兵を増やしていって天下の形勢を示し、順をもって逆を誅すれば即座に平定できよう。いま軍勢は道義によって動員されたのだから、疑心を抱いて進軍しないのであれば、天下の希望を失うことになる。密かに諸君らのために恥ずかしく思うぞ!」張邈らは採用することができなかった。

太祖の軍勢は少なくなったので、夏侯惇らとともに揚州に赴いて募兵した。刺史陳温丹楊太守周昕は軍勢四千人余りを与えた。引き揚げて龍亢まで行ったとき、士卒の多くが叛逆した。[一]銍・建平まで行き、ふたたび募兵をかけて千人余りを手に入れ、進軍して河内に駐屯した。

[一] 『魏書』に言う。兵士が謀叛して、夜間、太祖のを焼いた。太祖が自ら剣を取って数十人を殺すと、残りはみないたので、陣営から脱出することができた。叛逆しなかった者は五百人余りだった。

劉岱と橋瑁は憎しみあい、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させた。

袁紹と韓馥は幽州劉虞を皇帝に擁立せんと計画したが、太祖はそれを拒否した。[一]袁紹はまた一つの玉印を手に入れ、集会の席で太祖に向かって自分の肘を掲げたことがあった。太祖はそれを見て笑っていたが、(内心では)憎らしく思った。[二]

[一] 『魏書』は太祖の袁紹への答えを載せている。「董卓の罪悪は四海に暴露された。吾らが大軍を結集して義兵を起こせば、遠きも近きも呼応しない者はなかった。これは義によって行動したからだぞ。いま幼主は力弱く、姦臣に制されているとはいえ、昌邑(王)が国を亡ぼしたような過ちがあるわけではない。それなのに一朝にして改易なさるとなれば、天下はそれで安心できようか?諸君らは北面なさい。我は自ら西に向こう。」

[二] 『魏書』に言う。太祖は大笑いして「吾は汝の言いなりにはならぬぞ」と言った。袁紹はまた人をやって太祖を説得させた。「いま袁公の勢力は盛んで軍勢は強く、二人の子はすでに成長しております。天下の羣英たちのうち彼に勝る者はおりましょうや?」太祖は答えなかった。こうしたことから、(太祖は)ますます袁紹が不正であると思い、彼らを誅滅せんと計画するようになった。

二年(一九一)春、袁紹・韓馥はついに劉虞を擁立して皇帝としたが、劉虞は最後まで承知しなかった。

夏四月、董卓は長安に引き揚げた。

秋七月、袁紹は韓馥を脅迫して冀州を奪った。

黒山賊の于毒・白繞・眭固らの眭は申随の反切(スイ)。十万人余りの軍勢が魏郡・東郡を攻略したが、王肱は防ぐことができなかった。太祖は軍勢を引率して東郡に入り、濮陽において白繞を攻撃し、これを破った。袁紹はそこで上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。