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原著作者:【むじん書院】

蜀書二 三国志三十二 先主伝第二

先主伝

先主は姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、涿郡涿県の人で、漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫である。劉勝の子劉貞は、元狩六年に涿県の陸城亭侯に封ぜられたが、酎金に引っかかって侯位を失い、そのままこの地に住まいした。[一]先主の祖父は劉雄、父は劉弘といい、代々州郡に仕えていた。劉雄は孝廉に推挙され、官位は東郡范県の県令まで昇った。

[一] 『典略』に言う。劉備はもともと臨邑侯の支流である。

先主は若いころ父を失ったため、母とともに草履を販売し、蓆を織るのを家業としていた。屋敷の東南の角で垣根に桑の木が生えていて、高さは五丈余りもあり、遠くから眺めると鬱蒼として小さな車蓋のように見えた。行き交う人々はみな、この木の只ならぬ様子を感じ、貴人が現れるだろうと言う人もあった。[一]先主は幼い時分、木の下で一族の子供たちとじゃれ合いながら、「吾はこの羽葆蓋車に絶対乗ってやるぞ」と言った。叔父劉子敬が言った。「汝はでたらめを言って吾が一門を滅ぼすでないぞ!」十五歳のとき、母から遊学に出され、宗族の劉徳然や遼西の公孫瓚とともに、故の九江太守である同郡の盧植に師事した。劉徳然の父劉元起はいつも先主に投資し、劉徳然と同等に扱った。劉元起の妻が「それぞれが別の家を立てているのに、そんなことがいつもよくおできになりますね!」と言うと、劉元起は「吾が一門にこの子があって、尋常ならざる人物だからだ」と言っていた。そして公孫瓚と先主とは深く友誼を結び、公孫瓚の方が年かさであったので、先主は彼に兄事した。先主はあまり読書を好まず、狗馬や音楽、華美な衣服に入れ揚げた。身の丈七尺五寸、手を垂らせば膝まで下り、振り返れば自分の耳を見ることができた。口数は少なく、よくよく他人にへりくだり、喜怒を顔色に表さなかった。豪傑俠客たちと交わりを結ぶことを好んだので、若者たちは競うように彼に従った。中山の豪商張世平・蘇双らは千金を元手に、馬を販売しながら涿郡を巡り歩いていたが、(先主に)会って、並の者ではないと思い、そこで彼に多額の財貨を与えた。先主はそのおかげで人数を集めることができた。

[一] 『漢晋春秋』に言う。涿の人李定が言った。「この家からはきっと貴人が現れるよ。」

霊帝在位の末期、黄巾賊が蜂起したので、州郡ではおのおの義兵を挙げた。先主は配下の者どもを率いて校尉鄒靖に付き従い、黄巾賊を討伐して武功を立て、安熹県の県尉に任じられた。[一]督郵が公務で県内に立ち寄ったとき、先主が面会を求めても通してくれなかった。(先主は)づかづかと入って督郵を縛り上げると、二百回も杖で打ち、(官印の)綬を解いて彼の頸に掛け、馬枊に縛り付けた。五葬の反切(ゴウ)。官職を棄てて亡命した。[二]しばらくして、大将軍何進が都尉毌丘毅を丹陽に派遣して兵士を募集させたとき、先主は彼と同道したが、下邳まで来たところで賊兵に遭遇した。力戦して功績を立て、下密の県丞に任じられたが、またも官職を去った。のちに高唐の県尉となり、県令に昇進した。[三]賊軍に打ち破られ、中郎将公孫瓚の元へと逃げ去ると、公孫瓚は上表して(先主を)別部司馬とし、青州刺史田楷と与に冀州牧袁紹を防がせた。しばしば戦功を立てたことから、試験的に平原の県令を守る(兼務する)ことになり、のちに平原国の相を領した。郡民の劉平は昔から先主を軽蔑していたので、彼の下風に立つことを恥じ、食客をやって彼を刺殺させた。食客は刺殺する気にはなれず、そのことを打ち明けてから立ち去った。彼が人々の気持ちをつかんでいる有様はこれほどであった。[四]

[一] 『典略』に言う。平原の劉子平は劉備が武勇を備えていることを理解していた。そのとき張純が叛逆したため、青州は詔勅を被り、従事に軍勢を率いさせて張純を討伐した。(従事が)平原を通過したとき、劉子平が劉備を従事に推薦したので、彼を随行させることにした。野原で賊兵に遭遇したとき、劉備は手傷を負ったため死んだふりをし、賊兵が去ってから、旧友が車に載せて(後送して)くれたので命を取り留めた。のちに、軍功により中山安熹県の県尉となった。

[二] 『典略』に言う。その後、州郡は、軍功を立てて長吏になった者たちを淘汰せよとの詔勅を被り、劉備は放逐される側に含まれている疑いがあった。督郵は県に到着すると、劉備を放逐相当と判断した。劉備は日ごろから彼を見知っていたので、督郵が伝舎にいると聞き、劉備は督郵に面会を求めた。督郵が病気を口実に劉備との面会を承知しなかったので、劉備は彼を恨み、そのまま治府に戻るなり、またもや官吏兵卒を率いて伝舎に馳せ付け、門に突入しながら言った。「我は府君の密命を被り、督郵を逮捕することになった。」そのまま牀まで就って彼を縛り上げた。出奔しようと県境まで来たところで、自分の綬を解いて督郵の首に掛け、彼を樹木に縛り付けて百回余りも杖で打った。殺すつもりであったが、督郵が憐れみを乞うたので、そのまま放置して立ち去った。

[三] 『英雄記』に言う。霊帝在位の末年、劉備はそのとき京師にあったが、また曹公と一緒に沛国へ戻り、募集をかけて人数を集めた。ちょうど霊帝が崩御し、天下は大混乱になった。劉備もまた軍を起こして董卓討伐に従軍した。

[四] 『魏書』に言う。劉平は劉備を刺殺するよう食客に依頼した。劉備が知らぬまま大層手厚く刺客をもてなしたので、刺客はありのままを打ち明け、立ち去った。そのころ人民は飢饉に苦しみ、部落は略奪を被っていた。劉備は外に対しては侵略を防ぎ、内に対しては施与を増やした。士人であれば、下等な人物であっても必ず同じ席に座り、同じ皿で食べ、分け隔てはしなかったため、人々の多くが彼に帰服した。

袁紹が公孫瓚を攻撃すると、先主は田楷とともに東行して斉に屯した。曹公が徐州を遠征したとき、徐州牧陶謙が使者を派遣して田楷に危急を告げてきたので、田楷は先主とともに彼を救援した。このとき先主はもともと兵士千人余りと幽州烏丸による混成騎兵隊を抱えていたが、さらに飢えた民衆数千人をかどわかした。到着すると、陶謙は丹陽兵四千人を先主に加増した。先主はそのまま田楷と袂を分かって陶謙に帰参する。陶謙は上表して先主を予州刺史とし、小沛に屯させた。陶謙は病気が重くなり、別駕麋竺に向かって言った。「劉備でなければこの州を治めることはできぬ。」陶謙が死去すると、麋竺が州民を連れて先主を迎えに行ったが、先主はそれでも承知しようとしなかった。下邳の陳登が先主に告げた。「いま漢室は衰退して海内は転覆しており、功績を立て事業を立てるのは今日如何にかかっております。鄙州は富み栄えて戸口は百万もあり、使君に頭を垂れて州政をお執りいただけるよう願っておるのです。」先主は言った。「袁公路がすぐ近く寿春におられますが、かの君は四世にわたって五たび公となり、海内から帰服されております。君は彼に州を与えるべきでしょう。」陳登が言った。「公路は傲慢であり、乱を治める君主ではございませぬ。いま使君の御為に歩騎十万人を集めたく存じまする。上は主君を助けて民衆を救い、五霸の偉業を完成させることもできましょうし、下は土地を占めて国境を守り、竹帛に功績を記録することもできましょう。もし使君がお聞き届けくださらねば、陳登もまた使君を許すことはできませんぞ。」北海国の相孔融が先主に告げた。「袁公路が果たして、国を憂えて家を忘れる人物でありましょうか?冢の中の枯骨であって、意に介するほどのことはございませぬ。本日のことは、百姓が能ある者に与える、というものです。天の与えるものを取らなければ、後悔しても及びませんぞ。」先主はついに徐州を領することになった。[一]袁術が到来して先主を攻撃してきた。先主は盱眙・淮陰においてこれを防いだ。曹公は上表して先主を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じた。この歳は建安元年(一九六)である。先主が袁術と対峙して一ヶ月が経過したとき、呂布が虚に乗じて下邳を襲撃し、下邳の守将曹豹が反逆して密かに呂布を迎え入れた。呂布は先主の妻子を生け捕り、先主は軍勢を海西に移した。[二]楊奉・韓暹が徐州・揚州一帯を荒らし回っていたので、先主は迎え撃ち、ことごとく彼らを斬首した。先主が呂布に和睦を求めると、呂布は彼の妻子を返してやった。先主は関羽を派遣して下邳を守らせた。

[一] 『献帝春秋』に言う。陳登らは使者を袁紹の元に遣して、言った。「天が災沴(災難)を降したもうて禍が鄙州に至り、州将が落命して人民は主を失いました。恐怖いたしますのは、姦雄がある朝、隙を受けて(徐州を占拠し)、盟主に日々の憂いを及ぼしてしまうことでございます。すぐさま共同して故の平原国の相劉備府君を擁立して宗主とし、永久に百姓たちへ帰依(する相手)を知らせたく存じます。現在まさに寇難(外敵の侵入)が横行しており、甲冑を解くいとまもございません。謹んで下吏を遣して執事にご報告する次第です。」袁紹は答えて言った。「劉玄徳は雅量広く、信義を有しておる。いま徐州が彼を推戴したいと願うのは、誠に(吾の)希望に添うものである。」

[二] 『英雄記』に言う。劉備は張飛を残して下邳を守らせ、軍勢を率いて淮陰の石亭において袁術と戦い、勝ったり負けたりをくり返していた。陶謙の旧将曹豹は下邳にあって、張飛が彼を殺そうとした。曹豹の人数は陣営を固めて自衛し、人をやって呂布を招かせた。呂布が下邳を占拠すると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞くと軍勢をまとめて引き揚げ、下邳まで行って北れたが、軍勢は潰滅した。敗残兵を拾いながら東行して広陵を攻略したが、袁術と戦いになって、またも敗北した。

先主は小沛に帰還すると、[一]また軍勢を糾合して一万人余りを手に入れた。呂布がそれを嫌い、みずから出兵して先主を攻めると、先主は敗走して曹公に身を寄せた。曹公は彼を手厚くもてなし、予州牧に任じた。沛へ行って敗兵を拾うに先立ち、彼に軍糧を補給して軍兵を授け、東行して呂布を撃たせた。呂布が高順を派遣してこれを攻めさせたので、曹公は夏侯惇を出したが、救援することができずに高順に打ち破られた。(高順は)またもや先主の妻子を捕獲して呂布の元へ後送した。曹公はみずから東征に乗り出し、[二]先主を支援して下邳で呂布を包囲、呂布を生け捕りにした。先主はまた妻子を取り戻し、曹公に随行して許へ帰還した。(曹公は)上表して先主を左将軍とし、礼遇はいよいよ鄭重になり、外出のときは同じ輿を、酒宴のときは同じ席を用いた。袁術が徐州経由で北行して袁紹を頼ろうとしたので、曹公は先主に朱霊・路招を監督させて袁術を迎撃した。まだ到着せぬうちに袁術は病死した。

[一] 『英雄記』に言う。劉備軍は広陵にあって飢餓に困敗し、官吏兵士は老いも若きも互いを食らい合った。飢餓を舐め尽くした挙げ句、小沛に帰りたくなり、とうとう役人をやって呂布に降服を申し入れた。呂布は劉備を州に帰らせ、力を合わせて袁術を攻撃することにした。刺史の車馬・使用人を揃えてやり、劉備の妻子や部曲の家族を泗水のほとりで見送ったが、送別会ではお互いに楽しんだ。 『魏書』に曰う。諸将が呂布に告げた。「劉備は反覆をくり返しており、飼い慣らすのは困難です。早急に始末なさるべきでしょう。」呂布は聞き入れず、ありのままを劉備に語った。劉備は心中穏やかではいられず、落ち着ける場所を探し求め、人をやって、小沛に屯させてくれるよう呂布を説得させた。呂布はそうして彼を行かせてやった。

[二] 『英雄記』に言う。建安三年(一九八)春、呂布は人に金を預けて河内へ行かせ、馬を買おうとしたが、劉備の手兵に強奪されてしまった。呂布はそうしたことから中郎将高順・北地太守張遼らに劉備を攻撃させた。九月、ついに沛城を打ち破り、劉備が身一つで逃走したので、その妻子を手に入れた。十月、曹公みずからが呂布を征討したとき、劉備は梁国の国境線上で曹公に出くわし、そのまま公に随行して東征に加わった。

先主が進発する以前のこと、献帝の舅である車騎将軍董承は[一]衣帯に包み隠された帝の密詔を辞受、曹公の誅伐を命ぜられた。先主はまだ進発していなかった。そのとき曹公はのんびりとして先主に言った。「いま天下の英雄といえばただ使君と曹操だけだなあ。本初(袁紹)のような輩は数えるうちに入らんよ。」先主はちょうど食べようとしていたときで、うっかり匕と箸とを落としてしまった。[二]こうして董承および長水校尉种輯・将軍呉子蘭・王子服らと共謀するようになった。ちょうど(袁術攻撃の)指令を授かったため実行に移せぬまま、計画は漏れ、董承らはみな誅に伏した。[三]

[一] 臣裴松之が思うに、董承は漢の霊帝の母董太后の甥であり、献帝にとっては丈人にあたる。おそらく古代には丈人という呼び方がなかったので、それを舅と言っているのであろう。

[二] 『華陽国志』に言う。ちょうどこのとき雷鳴が轟いた。劉備はそれにかこつけて曹操に言った。「聖人は『迅雷風烈、必ず変ず』とおっしゃいましたが、まこと至言でございまするな。一たびの轟音がよくこれほどの威力になるとは!」

[三] 『献帝起居注』に言う。董承らは劉備と計画を練っていたが実行には至らず、劉備は出征してしまった。董承は王子服に言った。「郭多は兵士数百を持っただけで李傕数万人を崩壊させた。とにかく足下と我とが同心するかどうか、それだけだ!むかし呂不韋の一門は、子楚に応じて後から高貴になった。いま吾は子とともにそれに倣おうぞ。」王子服は言った。「畏れ多くて任に堪えられませぬ。それに軍勢も少のうございますゆえ。」董承は言った。「計画を実行したあと曹公の旧軍を手に入れよう。それでも不足かね?」王子服は言った。「いま京師に任用できる者がありましょうか?」董承は言った。「長水校尉种輯・議郎呉碩は我が腹心であって、職務に忠実な者たちだ。」こうして計略を固めていった。

先主は下邳を根城とした。朱霊らが引き揚げたのち、先主は徐州刺史車胄を殺し、関羽を残して下邳を守らせ、自身は小沛に引き揚げた。[一]東海の昌霸が反逆すると、郡県の多くが曹公に叛いて先主に味方し、軍勢は数万人になり、(先主は)孫乾を派遣して袁紹と連合した。曹公は劉岱・王忠にこれを攻撃させたが、勝つことができなかった。五年(二〇〇)、曹公が東行して先主を征討すると、先主は敗北した。[二]曹公はその軍勢をことごとく接収し、先主の妻子を拘束するとともに関羽を捕虜にして帰還した。

[一] 胡沖の『呉歴』に言う。曹公はしばしば懐刀をやって密かに諸将を監視させ、もし賓客を招いて酒食を振る舞う者があれば(陰謀を企てているに違いないから)、そのつど他事にかこつけて殺害してきた。劉備はそのとき門を閉ざし、人を連れてかぶを植えていた。曹公は人をやって門内を窺わせた。(その者が)立ち去ったあと、劉備は張飛・関羽に告げた。「吾がどうして野菜を植えているような人間であろうか?曹公はきっと疑念を抱くであろう、もはや留まってはいられぬ。」その夜、裏手の棚を開けて張飛らとともに軽装の騎馬で立ち去った。拝領した衣服は残らず封印して置いておき、小沛へ行って人数を糾合した。 臣裴松之は思う。魏の武帝は先主に諸将を統率させて袁術を迎撃させ、郭嘉らがそろって諫めても魏武は聞き入れなかった。その事実は歴然としている。野菜を植えて逃亡したのではない。胡沖の言うことは、なんと乖離のひどいことか!

[二] 『魏書』に言う。当時、公は官渡において差し迫った状況を抱えていた。そこで諸将を選んで官渡に残し、みずから精兵を率いて劉備を征討した。劉備は当初、公は強敵と対峙しているため東進することはできまいと考えていたので、斥候の騎兵が突如やって来て「曹公が直々に到来した」と告げると、劉備は大層驚き、それでもなお信じられなかった。彼自身が数十騎を連れて出陣し、はるかに公の軍勢を眺め、麾旌を見るなり、すぐさま人々を見捨てて逃げ去った。

先主は青州へ逃れた。青州刺史袁譚は先主の故の茂才であったので、歩騎を率いて先主を出迎えた。先主が袁譚に従って平原に到着すると、袁譚は使者を飛ばして袁紹に報告した。袁紹は将校を派遣して途中まで迎えに出させ、彼自身も鄴から二百里先まで出て、先主と対面した。[一]一ヶ月余りも滞在しているうちに、失った士卒たちが次第しだいに集まってきた。曹公が官渡において袁紹と対峙しているとき、汝南黄巾賊の劉辟らが曹公に叛いて袁紹に呼応した。袁紹は先主に軍勢を授けて劉辟らとともに許の城下で略奪させた。関羽が逃亡して先主に帰参した。曹公が曹仁に軍勢を授けて先主を攻撃させたので、先主は袁紹軍に帰陣したが、内心では袁紹の元を離れたく思い、そこで南方の荊州牧劉表と連合すべきだと袁紹を説得した。袁紹は先主本来の軍兵を連れて再度、汝南へ行かせ、賊の龔都らと合流させると、軍勢は数千人になった。曹公は蔡陽を出して攻撃させたが、先主に殺されることになった。

[一] 『魏書』に言う。劉備が袁紹に帰服すると、袁紹父子は心底から尊重した。

曹公は袁紹を撃破したのち、みずから南進して先主に攻撃をかけた。先主が麋竺・孫乾を派遣して劉表に連絡を付けさせると、劉表はみずから(先主を)郊外まで出迎え、上賓の礼をもって待遇し、その手勢を増やしてやって新野に屯させた。先主に帰服する荊州の豪傑が日ごとに増えていったので、劉表は彼の本心を疑い、こっそりと邪魔をした。[一](劉表は先主に)夏侯惇・于禁らを博望で防がせた。しばらくして先主は伏兵を設け、ある朝、陣営を自焼して逃走した風を装った。夏侯惇らは追いかけてきて、伏兵に打ち破られた。

[一] 『九州春秋』に言う。劉備が荊州に住まいするようになって数年、あるとき劉表の宴席から廁へ立ち、内髀に肉が付いているのを見付けると、情けなくなって涙を流した。席に戻ったとき、劉表が気付いて劉備に訊ねた。劉備は言った。「吾は常に鞍から身を離したことはなかったので髀肉はみな落ちておりましたが、今ではもう騎乗することもないので内髀に肉が付いてしまいました。月日の経つのは馳せるがごとく、老いも差し迫っておりますのに功業は立てられておらず、それが悲しかったのです。」 『世語』に言う。劉備が樊城に屯していたとき、劉表は彼を礼遇しながらも、彼の人となりを警戒していて充分には信用できなかった。あるとき劉備を宴会に招いたことがあったが、蒯越・蔡瑁が酒宴を利用して劉備を始末しようとした。劉備はそれに気付き、廁へ行くふりをして密かに脱出した。乗馬の名を的盧といったが、的盧に跨って逃走し、襄陽城西の檀溪の水中を渡ろうとして溺れ、抜け出せなくなった。劉備が「的盧よ、今日は厄日だぞ。頑張ってくれ!」と励ますと、的盧は一躍三丈も飛び上がり、ついに抜け出すことができた。流れに乗って河を渡り、中ほどまで来たところで追補の者がやって来て、劉表の意向を伝えて陳謝し、「なんとまあ逃げ足の速い奴だ!」とつぶやいた。 孫盛は言う。これは納得できぬ言葉だ。劉備はこのとき羈旅の身であって、客人と主人とでは勢力が違うものだ。もしこのような変事があったならば、どうして安閑と劉表の世を過ごして無傷でいられたのか?これらはみな世俗の妄説であって、事実ではないのである。

十二年(二〇七)、曹公が北進して烏丸を征討したとき、先主は許を襲撃すべきと劉表を説得したが、劉表は採用できなかった。[一]曹公が南進して劉表を征討しようとした矢先、ちょうどそのとき劉表は卒去、[二]子の劉琮が後任に立ち、(曹公に)使者を遣して降服を願い出た。先主は樊に駐屯していて曹操の突然の到来を知らず、宛まで来たところで初めてそれを聞き、手勢を率いて退去した。襄陽を通りがかったとき、諸葛亮は劉琮を攻めれば荊州を領有することが可能だと先主を説得した。先主は言った。「吾には堪えられぬ。」[三]そこで馬を止めて劉琮を呼んだが、劉琮は恐怖のあまり立つことができなかった。劉琮の左右(側近)および荊州人の多くが先主に帰服した。[四]当陽に着くころには人数十万余り、輜重数千両にもなっており、一日の行程は(わずか)十里余りであった。別働隊として関羽には数百艘の船に乗せ、江陵で落ち合うことにした。ある人が先主に告げた。「急行して江陵に楯籠るべきです。いま多くの人数を抱えてはおりますが、甲冑を着けた者は少ないのです。もし曹公の軍勢が来たならば、どうやって防げましょう?」先主は言った。「そもそも大事を成し遂げるためには人民を根本とせねばならん。いま人々が吾を頼りにしてくれたからには、吾はどうして見捨てて逃げることができよう!」[五]

[一] 『漢晋春秋』に言う。曹公が柳城から帰ってきたとき、劉表が劉備に「君の言葉を採用しなかったがために、この絶好の機会を逃してしもうたな」と言うと、劉備は「いま天下は分裂して、日々、戦闘が続いておりますゆえ、機会の到来に、どうして最後ということがありましょう?後日これに乗ずることができますれば、今回のことも後悔するには及びますまい」と言った。

[二] 『英雄記』に言う。劉表は病気にかかると、劉備に荊州刺史を領させるよう上表した。 『魏書』に言う。劉表は病気が重くなると、国土を劉備に託しつつ、振り返りながら言った。「我が子は才能なく、諸将はみな落命してしもうた。我が死んだあとは、卿が荊州を仕切るのがよかろう。」劉備は言った。「ご子息たちはそれぞれ賢明です。君よ、どうか病気のことだけをお考えください。」ある人が劉表の言葉に従うべきと劉備に勧めたが、劉備は「この方は我を手厚く待遇してくれた。いまその言葉に従うならば、人々はきっと我のことを薄情だと思うだろう。忍びないことだよ」と言った。 臣裴松之が考えるに、劉表夫妻はかねてより劉琮を愛し、嫡子を捨てて庶子を立てようとしていた。情愛も計画も長らく決まっていたのだから、臨終に際して荊州をまるごと劉備に授けようとするはずがない。これもまた事実でない話である。

[三] 孔衍の『漢魏春秋』に言う。劉琮は降服を願い出たとき、あえて劉備には知らせなかった。劉備もまた知らずにいて、ずっとしてからやって気付き、腹心を派遣して劉琮に問い合わせると、劉琮は宋忠に命じて劉備の元へやって方針を伝えさせた。このとき曹公が宛に来ており、劉備は大いに驚き、宋忠に言った。「卿がたのやり方はこの調子だ。早めに相談してくれず、いま災禍が到来してからやっと我に知らせに来るとは、なんともひどいことではないか!」刀を抜いて宋忠に突き付け、「いま卿の頭を切り落としても、怒りを解くことはできぬ。それに大丈夫たる者が別れに際して卿のような輩を殺すのも恥ずかしいことだからな!」と言って、宋忠を追い払った。それから部曲たちを呼び集めて協議したところ、ある者が、劉琮および荊州の官吏兵士を劫かし、ただちに南進して江陵へ行くのがよいと劉備に勧めた。劉備は答えた。「劉荊州どのは臨終に際して孤遺を我に託された。信義に背いて自分の望みを通すことなど吾にはできぬ。死んだあと、どの面さげて劉荊州に会えようか!」

[四] 『典略』に言う。劉備はその道中、劉表の墓に別れを告げ、ついに涙を流し、それから立ち去った。

[五] 習鑿歯は言う。先主は危難のなかに顚沛しても、信義はいよいよ鮮明になり、情勢が逼迫して事態が危険になっても、言葉から道理は失われなかった。景升の恩顧を追慕して三軍を感動させ、報恩の義士を愛護して同じ苦しみを甘受した。彼が人々の気持ちに結びついたのを見れば、どうしてただ醪を与えて寒さを和らげ、蓼を含んで病気を見舞った程度のことであろうか!彼が最後には大事業を完成させたのも、やはり当然ではないだろうか!

曹公は、江陵に軍需物資があることから、先主がその地を占拠することを恐れ、輜重車を手放し、行軍を軽くして襄陽に到達した。先主がすでに通り過ぎたあとだと聞くと、曹公は精鋭五千騎を率いて猛追し、一日一夜で三百里余りも進み、当陽の長阪にて追い付いた。先主は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲らの数十騎とともに逃走し、曹公はその人数や輜重を盛大に鹵獲した。先主は(街道を)それて漢津へ馳せ付け、うまい具合に関羽の船団と出くわしたので、沔水を渡ることができた。劉表の長子である江夏太守劉琦の軍勢一万余りと遭遇し、同道して夏口に到着した。先主は諸葛亮を派遣して孫権と手を結び、[一]孫権は周瑜・程普らの水軍数万人を派遣して先主に合力させ、[二]赤壁において曹公と対戦し、これを大いに打ち破り、その艦船を焼き払った。先主は呉の軍勢とともに水陸両道から一斉に進み、追撃して南郡まで到達した。このときはまた疫病の流行もあって、北軍では多数の死者を出していたため、曹公は引き揚げていった。[三]

[一] 『江表伝』に言う。孫権は魯粛を派遣して劉表の二人の子に弔意を伝え、同時に劉備との盟約を結ばせることにした。魯粛がまだ到着しないうちに、曹公はすでに漢津を渡っていた。魯粛はそこで先に進み、当陽に来たところで劉備に行き会った。そこで孫権の意向を伝えて、天下の情勢について議論し、誠意を尽くした。その上で劉備に訊ねてみた。「予州どのはこれからどこへ行かれるおつもりでしょうか?」劉備は言った。「蒼梧太守呉臣どのとは旧交がありますので、彼のもとへ身を寄せようと思っております。」魯粛は言った。「孫討虜(孫権)さまは聡明仁慈の人で、賢者を敬い士人に礼を尽くされるので、江表の英傑たちはみな、彼のお方に帰服しております。すでに六つの郡を領有され、兵士は精悍、食糧は豊富であり、事業を完成させるには充分(資格をお持ち)です。いま貴君のために計画いたしますに、腹心を派遣して東方で盟約を結ばせ、連合の友好関係を尊重し、ともに世業を完成させるに越したことはございません。それなのに呉臣に身を寄せるとの仰せ。呉臣は凡人でありますし、遠方の郡に追いやられており、行くゆくは他人に併合されるばかりです。(身を)託すほどの価値がありましょうか?」劉備はいたく喜び、鄂県まで進んで住まると、即日、諸葛亮を魯粛に付けて孫権のもとへ参詣させ、同盟の契りを結ばせた。

[二] 『江表伝』に言う。劉備は魯粛の計略を受け入れ、鄂県の樊口まで進んで住まった。諸葛亮が呉を参詣してまだ帰らぬうちに、劉備は曹公の軍勢が(川を)下ると聞いて恐怖し、日ごとに川へ邏の役人を出して孫権軍(の到着)を眺めさせた。役人は周瑜の船を遠くに見付けると、馬を飛ばして劉備に報告した。劉備が「どうしてそれを青・徐の軍勢でないと分かったのか?」と言うと、役人は「船をみて分かりました」と答えた。劉備は人をやって彼らを慰労した。周瑜は言った。「軍務があって署を委ておくことができません。もしも威を屈していただけるならば、誠実に、ご希望にお応えいたしましょう。」劉備は関羽・張飛に「彼らは我を呼び付けようとする。我はいま自分から東方と結託したのだから、行かねば同盟の意図に反することになる」と告げ、単舸に乗って周瑜に会いに行き、「ただいま曹公を防ぐにあたり、計略をお持ちのことと存じます。兵卒はいかほどでございますか?」と訊ねた。周瑜が「三万人です」と言ったので、劉備が「少ないのが心残りです」と言うと、周瑜は「これで充分です。予州どのはただ周瑜が奴らを打ち破るのをご覧いただくだけで結構です」と言った。劉備は魯粛らを呼んで一緒に語り合いたいと思ったが、周瑜が「ご命令を受けたからには勝手に署を委てるわけには参りませぬ。子敬とお会いになりたければ、改めてお過しください。それに孔明どのも一緒にお出でになりましたので、三日もせぬうちに参るでありましょう」と言ったので、劉備はいたく恥ずかしく思い、周瑜に一目置きはしたが、それでも内心、北軍を必ず撃破できるとは信じられなかった。そのため後方に下がって、二千人を率いて関羽・張飛を伴い、周瑜に協力しようとはしなかった。おそらく(戦況に合わせて)進退できるように考えていたのであろう。 孫盛は言う。劉備は英雄の才能を持ちながら、滅亡必至の立場にあった。呉に危急を告げて救援に駆け付けてもらったからには、もう長江の川辺を観望して事後の計算を立てることなど、あり得ないことだ。『江表伝』の言葉は、呉の人々が快挙を独り占めしようとした言葉であろう。

[三] 『江表伝』に言う。周瑜は南郡太守になると、南岸の地を分割して劉備に与えた。劉備は別途、油江口に陣営を築き、公安と改称した。劉表の官吏兵士のうち北軍に従っていた者たちも、多くが寝返って劉備に身を投じてきた。劉備は周瑜に与えられた土地が少なく、民衆を安住させるには不足していたため、のちに孫権から荊州の数郡を借用した。

先主表琦為荊州刺史,又南征四郡.武陵太守金旋・長沙太守韓玄・桂陽太守趙範・零陵太守劉度皆降.[一]廬江雷緒率部曲数万口稽顙.琦病死,羣下推先主為荊州牧,治公安.[二]権稍畏之,進妹固好.先主至京見権,綢繆恩紀.[三]権遣使云欲共取蜀,或以為宜報聴許,呉終不能越荊有蜀,蜀地可為己有.荊州主簿殷観進曰:「若為呉先駆,進未能克蜀,退為呉所乗,即事去矣.今但可然賛其伐蜀,而自説新拠諸郡,未可興動,呉必不敢越我而独取蜀.如此進退之計,可以収呉・蜀之利.」先主従之,権果輟計.遷観為別駕従事.[四]

[一] 三輔決録注曰:金旋字元機,京兆人,歴位黄門郎・漢陽太守,徴拝議郎,遷中郎将,領武陵太守,為備所攻劫死.子禕,事見魏武本紀.

[二] 江表伝曰:備立営於油口,改名公安.

[三] 山陽公載記曰:備還,謂左右曰:「孫車騎長上短下,其難為下,吾不可以再見之.」乃昼夜兼行. 臣松之案:魏書載劉備与孫権語,与蜀志述諸葛亮与権語正同.劉備未破魏軍之前,尚未与孫権相見,不得有此説.故知蜀志為実.

[四] 献帝春秋曰:孫権欲与備共取蜀,遣使報備曰:「米賊張魯居王巴・漢,為曹操耳目,規図益州.劉璋不武,不能自守.若操得蜀,則荊州危矣.今欲先攻取璋,進討張魯,首尾相連,一統呉・楚,雖有十操,無所憂也.」備欲自図蜀,拒答不聴,曰:「益州民富彊,土地険阻,劉璋雖弱,足以自守.張魯虚偽,未必尽忠於操.今暴師於蜀・漢,転運於万里,欲使戦克攻取,挙不失利,此呉起不能定其規,孫武不能善其事也.曹操雖有無君之心,而有奉主之名,議者見操失利於赤壁,謂其力屈,無復遠志也.今操三分天下已有其二,将欲飲馬於滄海,観兵於呉会,何肯守此坐須老乎?今同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也.」権不聴,遣孫瑜率水軍住夏口.備不聴軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾当被髪入山,不失信於天下也.」使関羽屯江陵,張飛屯秭帰,諸葛亮拠南郡,備自住潺陵.権知備意,因召瑜還.

十六年,益州牧劉璋遥聞曹公将遣鍾繇等向漢中討張魯,内懐恐懼.別駕従事蜀郡張松説璋曰:「曹公兵彊無敵於天下,若因張魯之資以取蜀土,誰能禦之者乎?」璋曰:「吾固憂之而未有計.」松曰:「劉予州,使君之宗室而曹公之深讎也,善用兵,若使之討魯,魯必破.魯破,則益州彊,曹公雖来,無能為也.」璋然之,遣法正将四千人迎先主,前後賂遺以巨億計.正因陳益州可取之策.[一]先主留諸葛亮・関羽等拠荊州,将歩卒数万人入益州.至涪,璋自出迎,相見甚歓.張松令法正白先主,及謀臣龐統進説,便可於会所襲璋.先主曰:「此大事也,不可倉卒.」璋推先主行大司馬,領司隷校尉;先主亦推璋行鎮西大将軍,領益州牧.璋増先主兵,使撃張魯,又令督白水軍.先主幷軍三万余人,車甲器械資貨甚盛.是歳,璋還成都.先主北到葭萌,未即討魯,厚樹恩徳,以収衆心.

[一] 呉書曰:備前見張松,後得法正,皆厚以恩意接納,尽其殷勤之歓.因問蜀中闊狭,兵器府庫人馬衆寡,及諸要害道里遠近,松等具言之,又画地図山川処所,由是尽知益州虚実也.

明年,曹公征孫権,権呼先主自救.先主遣使告璋曰:「曹公征呉,呉憂危急.孫氏与孤本為脣歯,又楽進在青泥与関羽相拒,今不往救羽,進必大克,転侵州界,其憂有甚於魯.魯自守之賊,不足慮也.」乃従璋求万兵及資宝,欲以東行.璋但許兵四千,其余皆給半.[一]張松書与先主及法正曰:「今大事垂可立,如何釈此去乎!」松兄広漢太守粛,懼禍逮己,白璋発其謀.於是璋収斬松,嫌隙始構矣.[二]璋勅関戍諸将文書勿復関通先主.先主大怒,召璋白水軍督楊懐,責以無礼,斬之.乃使黄忠・卓膺勒兵向璋.先主径至関中,質諸将幷士卒妻子,引兵与忠・膺等進到涪,拠其城.璋遣劉璝・冷苞・張任・鄧賢等拒先主於涪,[三]皆破敗,退保綿竹.璋復遣李厳督竹諸軍,厳率衆降先主.先主軍益強,分遣諸将平下属県,諸葛亮・張飛・趙雲等将兵泝流定白帝・江州・江陽,惟関羽留鎮荊州.先主進軍囲雒;時璋子循守城,被攻且一年.

[一] 魏書曰:備因激怒其衆曰:「吾為益州征強敵,師徒勤瘁,不遑寧居;今積帑蔵之財而恡於賞功,望士大夫為出死力戦,其可得乎!」

[二] 益部耆旧雑記曰:張粛有威儀,容貌甚偉.松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹.劉璋遣詣曹公,曹公不甚礼;公主簿楊修深器之,白公辟松,公不納.修以公所撰兵書示松,松宴飲之間一看便闇誦.修以此益奇之.

[三] 益部耆旧雑記曰:張任,蜀郡人,家世寒門.少有胆勇,有志節,仕州為従事.

十九年夏,雒城破,[一]進囲成都数十日,璋出降.[二]蜀中殷盛豊楽,先主置酒大饗士卒,取蜀城中金銀分賜将士,還其穀帛.先主復領益州牧,諸葛亮為股肱,法正為謀主,関羽・張飛・馬超為爪牙,許靖・麋竺・簡雍為賓友.及董和・黄権・李厳等本璋之所授用也,呉壱・費観等又璋之婚親也,彭羕又璋之所排擯也,劉巴者宿昔之所忌恨也,皆処之顕任,尽其器能.有志之士,無不競勧.

[一] 益部耆旧雑記曰:劉璋遣張任・劉璝率精兵拒捍先主於涪,為先主所破,退与璋子循守雒城.任勒兵出於雁橋,戦復敗.禽任.先主聞任之忠勇,令軍降之,任厲声曰:「老臣終不復事二主矣.」乃殺之.先主歎惜焉.

[二] 傅子曰:初,劉備襲蜀,丞相掾趙戩曰:「劉備其不済乎?拙於用兵,毎戦必敗,奔亡不暇,何以図人?蜀雖小区,険固四塞,独守之国,難卒幷也.」徴士傅幹曰:「劉備寛仁有度,能得人死力.諸葛亮達治知変,正而有謀,而為之相;張飛・関羽勇而有義,皆万人之敵,而為之将:此三人者,皆人傑也.以備之略,三傑佐之,何為不済也?」 典略曰:趙戩,字叔茂,京兆長陵人也.質而好学,言称詩書,愛恤於人,不論疎密.辟公府,入為尚書選部郎.董卓欲以所私並充台閣,戩拒不聴.卓怒,召戩欲殺之,観者皆為戩懼,而戩自若.及見卓,引辞正色,陳説是非,卓雖凶戻,屈而謝之.遷平陵令.故将王允被害,莫敢近者,戩棄官収斂之.三輔乱,戩客荊州,劉表以為賓客.曹公平荊州,執戩手曰:「何相見之晩也!」遂辟為掾.後為五官将司馬,相国鍾繇長史,年六十余卒.

二十年,孫権以先主已得益州,使使報欲得荊州.先主言:「須得涼州,当以荊州相与.」権忿之,乃遣呂蒙襲奪長沙・零陵・桂陽三郡.先主引兵五万下公安,令関羽入益陽.是歳,曹公定漢中,張魯遁走巴西.先主聞之,与権連和,分荊州・江夏・長沙・桂陽東属,南郡・零陵・武陵西属,引軍還江州.遣黄権将兵迎張魯,張魯已降曹公.曹公使夏侯淵・張郃屯漢中,数数犯暴巴界.先主令張飛進兵宕渠,与郃等戦於瓦口,破郃等,収兵還南鄭.先主亦還成都.

二十三年,先主率諸将進兵漢中.分遣将軍呉蘭・雷銅等入武都,皆為曹公軍所没.先主次于陽平関,与淵・郃等相拒.

二十四年春,自陽平南渡沔水,縁山稍前,於定軍山勢作営.淵将兵来争其地.先主命黄忠乗高鼓譟攻之,大破淵軍,斬淵及曹公所署益州刺史趙顒等.曹公自長安挙衆南征.先主遥策之曰:「曹公雖来,無能為也,我必有漢川矣.」及曹公至,先主斂衆拒険,終不交鋒,積月不抜,亡者日多.夏,曹公果引軍還,先主遂有漢中.遣劉封・孟達・李平等攻申耽於上庸.

秋,羣下上先主為漢中王,表於漢帝曰:「平西将軍都亭侯臣馬超・左将軍領長史鎮軍将軍臣許靖・営司馬臣龐羲・議曹従事中郎軍議中郎将臣射援・[一]軍師将軍臣諸葛亮・盪寇将軍漢寿亭侯臣関羽・征虜将軍新亭侯臣張飛・征西将軍臣黄忠・鎮遠将軍臣頼恭・揚武将軍臣法正・興業将軍臣李厳等一百二十人上言曰:昔唐堯至聖而四凶在朝,周成仁賢而四国作難,高后称制而諸呂竊命,孝昭幼沖而上官逆謀,皆馮世寵,藉履国権,窮凶極乱,社稷幾危.非大舜・周公・朱虚・博陸,則不能流放禽討,安危定傾.伏惟陛下誕姿聖徳,統理万邦,而遭厄運不造之艱.董卓首難,蕩覆京畿,曹操階禍,竊執天衡;皇后太子,鴆殺見害,剝乱天下,残毀民物.久令陛下蒙塵憂厄,幽処虚邑.人神無主,遏絶王命,厭昧皇極,欲盗神器.左将軍領司隷校尉予・荊・益三州牧宜城亭侯備,受朝爵秩,念在輸力,以殉国難.覩其機兆,赫然憤発,与車騎将軍董承同謀誅操,将安国家,克寧旧都.会承機事不密,令操游魂得遂長悪,残泯海内.臣等毎懼王室大有閻楽之禍,小有定安之変,[二]夙夜惴惴,戦慄累息.昔在虞書,敦序九族,周監二代,封建同姓,詩著其義,歴載長久.漢興之初,割裂疆土,尊王子弟,是以卒折諸呂之難,而成太宗之基.臣等以備肺腑枝葉,宗子藩翰,心存国家,念在弭乱.自操破於漢中,海内英雄望風蟻附,而爵号不顕,九錫未加,非所以鎮衛社稷,光昭万世也.奉辞在外,礼命断絶.昔河西太守梁統等値漢中興,限於山河,位同権均,不能相率,咸推竇融以為元帥,卒立効績,摧破隗囂.今社稷之難,急於隴・蜀.操外呑天下,内残羣寮,朝廷有蕭牆之危,而禦侮未建,可為寒心.臣等輒依旧典,封備漢中王,拝大司馬,董斉六軍,糾合同盟,掃滅凶逆.以漢中・巴・蜀・広漢・犍為為国,所署置依漢初諸侯王故典.夫権宜之制,苟利社稷,専之可也.然後功成事立,臣等退伏矯罪,雖死無恨.」遂於沔陽設壇場,陳兵列衆,羣臣陪位,読奏訖,御王冠於先主.

[一] 三輔決録注曰:援字文雄,扶風人也.其先本姓謝,与北地諸謝同族.始祖謝服為将軍出征,天子以謝服非令名,改為射,子孫氏焉.兄堅,字文固,少有美名,辟公府為黄門侍郎.献帝之初,三輔饑乱,堅去官,与弟援南入蜀依劉璋,璋以堅為長史.劉備代璋,以堅為広漢・蜀郡太守.援亦少有名行,太尉皇甫嵩賢其才而以女妻之,丞相諸葛亮以援為祭酒,遷従事中郎,卒官.

[二] 趙高使閻楽殺二世.王莽廃孺子以為定安公.

先主上言漢帝曰:「臣以具臣之才,荷上将之任,董督三軍,奉辞於外,不得掃除寇難,靖匡王室,久使陛下聖教陵遅,六合之内,否而未泰,惟憂反側,疢如疾首.曩者董卓造為乱階,自是之後,羣兇縦横,残剝海内.頼陛下聖徳威霊,人神同応,或忠義奮討,或上天降罰,暴逆並殪,以漸氷消.惟独曹操,久未梟除,侵擅国権,恣心極乱.臣昔与車騎将軍董承図謀討操,機事不密,承見陥害,臣播越失拠,忠義不果.遂得使操窮凶極逆,主后戮殺,皇子鴆害.雖糾合同盟,念在奮力,懦弱不武,歴年未効.常恐殞没,孤負国恩,寤寐永歎,夕惕若厲.今臣羣寮以為在昔虞書敦叙九族,庶明厲翼,[一]五帝損益,此道不廃.周監二代,並建諸姫,実頼晋・鄭夾輔之福.高祖龍興,尊王子弟,大啓九国,卒斬諸呂,以安大宗.今操悪直醜正,寔繁有徒,包蔵禍心,簒盗已顕.既宗室微弱,帝族無位,斟酌古式,依仮権宜,上臣大司馬漢中王.臣伏自三省,受国厚恩,荷任一方,陳力未効,所獲已過,不宜復忝高位以重罪謗.羣寮見逼,迫臣以義.臣退惟寇賊不梟,国難未已,宗廟傾危,社稷将墜,成臣憂責砕首之負.若応権通変,以寧靖聖朝,雖赴水火,所不得辞,敢慮常宜,以防後悔.輒順衆議,拝受印璽,以崇国威.仰惟爵号,位高寵厚,俯思報効,憂深責重,驚怖累息,如臨于谷.尽力輸誠,奨厲六師,率斉羣義,応天順時,撲討凶逆,以寧社稷,以報万分,謹拝章因駅上還所仮左将軍・宜城亭侯印綬.」於是還治成都.抜魏延為都督,鎮漢中.[二]時関羽攻曹公将曹仁,禽于禁於樊.俄而孫権襲殺羽,取荊州.

[一] 鄭玄注曰:庶,衆也;励,作也;叙,次序也.序九族而親之,以衆明作羽翼之臣也.

[二] 典略曰:備於是起館舎,築亭障,従成都至白水関,四百余区.

二十五年,魏文帝称尊号,改年曰黄初.或伝聞漢帝見害,先主乃発喪制服,追諡曰孝愍皇帝.是後在所並言衆瑞,日月相属,故議郎陽泉侯劉豹・青衣侯向挙・偏将軍張裔・黄権・大司馬属殷純・益州別駕従事趙莋・治中従事楊洪・従事祭酒何宗・議曹従事杜瓊・勧学従事張爽・尹黙・譙周等上言:「臣聞河図・洛書,五経讖・緯,孔子所甄,験応自遠.謹案洛書甄曜度曰:『赤三日徳昌,九世会備,合為帝際.』洛書宝号命曰:『天度帝道備称皇,以統握契,百成不敗.』洛書録運期曰:『九侯七傑争命民炊骸,道路籍籍履人頭,誰使主者玄且来.』孝経鉤命決録曰:『帝三建九会備.』臣父羣未亡時,言西南数有黄気,直立数丈,見来積年,時時有景雲祥風,従璿璣下来応之,此為異瑞.又二十二年中,数有気如旗,従西竟東,中天而行,図・書曰『必有天子出其方』.加是年太白・熒惑・填星,常従歳星相追.近漢初興,五星従歳星謀;歳星主義,漢位在西,義之上方,故漢法常以歳星候人主.当有聖主起於此州,以致中興.時許帝尚存,故羣下不敢漏言.頃者熒惑復追歳星,見在胃昴畢;昴畢為天綱,経曰『帝星処之,衆邪消亡』.聖諱予覩,推揆期験,符合数至,若此非一.臣聞聖王先天而天不違,後天而奉天時,故応際而生,与神合契.願大王応天順民,速即洪業,以寧海内.」

太傅許靖・安漢将軍糜竺・軍師将軍諸葛亮・太常頼恭・光禄勲黄権・少府王謀等上言:「曹丕簒弑,湮滅漢室,竊拠神器,劫迫忠良,酷烈無道.人鬼忿毒,咸思劉氏.今上無天子,海内惶惶,靡所式仰.羣下前後上書者八百余人,咸称述符瑞,図・讖明徴.間黄龍見武陽赤水,九日乃去.孝経援神契曰『徳至淵泉則黄龍見』,龍者,君之象也.易乾九五『飛龍在天』,大王当龍升,登帝位也.又前関羽囲樊・襄陽,襄陽男子張嘉・王休献玉璽,璽潜漢水,伏於淵泉,暉景燭燿,霊光徹天.夫漢者,高祖本所起定天下之国号也,大王襲先帝軌跡,亦興於漢中也.今天子玉璽神光先見,璽出襄陽,漢水之末,明大王承其下流,授与大王以天子之位,瑞命符応,非人力所致.昔周有烏魚之瑞,咸曰休哉.二祖受命,図・書先著,以為徴験.今上天告祥,羣儒英俊,並進河・洛,孔子讖・記,咸悉具至.伏為大王出自孝景皇帝中山靖王之胄,本支百世,乾祇降祚,聖姿碩茂,神武在躬,仁覆積徳,愛人好士,是以四方帰心焉.考省霊図,啓発讖・緯,神明之表,名諱昭著.宜即帝位,以纂二祖,紹嗣昭穆,天下幸甚.臣等謹与博士許慈・議郎孟光,建立礼儀,択令辰,上尊号.」即皇帝位於成都武擔之南.[一]為文曰:「惟建安二十六年四月丙午,皇帝備敢用玄牡,昭告皇天上帝后土神祇:漢有天下,歴数無疆.曩者王莽簒盗,光武皇帝震怒致誅,社稷復存.今曹操阻兵安忍,戮殺主后,滔天泯夏,罔顧天顕.操子丕,載其凶逆,竊居神器.羣臣将士以為社稷堕廃,備宜脩之,嗣武二祖,龔行天罰.備惟否徳,懼忝帝位.詢于庶民,外及蛮夷君長,僉曰『天命不可以不答,祖業不可以久替,四海不可以無主』.率土式望,在備一人.備畏天明命,又懼漢邦将湮于地,謹択元日,与百寮登壇,受皇帝璽綬.脩燔瘞,告類于天神,惟神饗祚于漢家,永綏四海!」[二]

[一] 蜀本紀曰:武都有丈夫化為女子,顔色美好,蓋山精也.蜀王娶以為妻,不習水土,疾病欲帰国,蜀王留之,無幾物故.蜀王発卒之武都擔土,於成都郭中葬,蓋地数畝,高七丈,号曰武擔也. 臣松之案:武擔,山名,在成都西北,蓋以乾位在西北,故就之以即祚.

[二] 魏書曰:備聞曹公薨,遣掾韓冉奉書弔之,致賻贈之礼.文帝悪其因喪求好,勅荊州刺史斬冉,絶使命. 典略曰:備遣軍謀掾韓冉齎書弔,幷貢錦布.冉称疾,住上庸.上庸致其書,適会受終,有詔報答以引致之.備得報書,遂称制.

章武元年夏四月,大赦,改年.以諸葛亮為丞相,許靖為司徒.置百官,立宗廟,祫祭高皇帝以下.[一]五月,立皇后呉氏,子禅為皇太子.六月,以子永為魯王,理為梁王.車騎将軍張飛為其左右所害.初,先主忿孫権之襲関羽,将東征,秋七月,遂帥諸軍伐呉.孫権遣書請和,先主盛怒不許,呉将陸議・李異・劉阿等屯巫・秭帰;将軍呉班・馮習自巫攻破異等,軍次秭帰,武陵五谿蛮夷遣使請兵.

[一] 臣松之以為先主雖云出自孝景,而世数悠遠,昭穆難明,既紹漢祚,不知以何帝為元祖以立親廟.于時英賢作輔,儒生在宮,宗廟制度,必有憲章,而載記闕略,良可恨哉!

二年春正月,先主軍還秭帰,将軍呉班・陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸.二月,先主自秭帰率諸将進軍,縁山截嶺,於夷道・猇許交反.亭駐営,自佷佷,音恒.山通武陵,遣侍中馬良安慰五谿蛮夷,咸相率響応.鎮北将軍黄権督江北諸軍,与呉軍相拒於夷陵道.夏六月,黄気見自秭帰十余里中,広数十丈.後十余日,陸議大破先主軍於猇亭,将軍馮習・張南等皆没.先主自猇亭還秭帰,収合離散兵,遂棄船舫,由歩道還魚復,改魚復県曰永安.呉遣将軍李異・劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山.秋八月,収兵還巫.司徒許靖卒.冬十月,詔丞相亮営南北郊於成都.孫権聞先主住白帝,甚懼,遣使請和.先主許之,遣太中大夫宗瑋報命.冬十二月,漢嘉太守黄元聞先主疾不予,挙兵拒守.

三年春二月,丞相亮自成都到永安.三月,黄元進兵攻臨邛県.遣将軍陳〓音笏.討元,元軍敗,順流下江,為其親兵所縛,生致成都,斬之.先主病篤,託孤於丞相亮,尚書令李厳為副.夏四月癸巳,先主殂于永安宮,時年六十三.[一]

[一] 諸葛亮集載先主遺詔勅後主曰:「朕初疾但下痢耳,後転雑他病,殆不自済.人五十不称夭,年已六十有余,何所復恨,不復自傷,但以卿兄弟為念.射君到,説丞相歎卿智量,甚大増脩,過於所望,審能如此,吾復何憂!勉之,勉之!勿以悪小而為之,勿以善小而不為.惟賢惟徳,能服於人.汝父徳薄,勿効之.可読漢書・礼記,間暇歴観諸子及六韜・商君書,益人意智.聞丞相為写申・韓・管子・六韜一通已畢,未送,道亡,可自更求聞達.」臨終時,呼魯王与語:「吾亡之後,汝兄弟父事丞相,令卿与丞相共事而已.」

亮上言於後主曰:「伏惟大行皇帝邁仁樹徳,覆燾無疆,昊天不弔,寝疾彌留,今月二十四日奄忽升遐,臣妾号咷,若喪考妣.乃顧遺詔,事惟大宗,動容損益;百寮発哀,満三日除服,到葬期復如礼;其郡国太守・相・都尉・県令長,三日便除服.臣亮親受勅戒,震畏神霊,不敢有違.臣請宣下奉行.」五月,梓宮自永安還成都,諡曰昭烈皇帝.秋,八月,葬恵陵.[一]

[一] 葛洪神仙伝曰:仙人李意其,蜀人也.伝世見之,云是漢文帝時人.先主欲伐呉,遣人迎意其.意其到,先主礼敬之,問以吉凶.意其不答而求紙筆,画作兵馬器仗数十紙已,便一一以手裂壊之,又画作一大人,掘地埋之,便径去.先主大不喜.而自出軍征呉,大敗還,忿恥発病死,衆人乃知其意.其画作大人而埋之者,即是言先主死意.

評曰:先主之弘毅寛厚,知人待士,蓋有高祖之風,英雄之器焉.及其挙国託孤於諸葛亮,而心神無貳,誠君臣之至公,古今之盛軌也.機権幹略,不逮魏武,是以基宇亦狭.然折而不撓,終不為下者,抑揆彼之量必不容己,非唯競利,且以避害云爾.