利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

雷義伝

雷義仲公といい、予章鄱陽の人である。[一]はじめ郡の功曹となり、つねに善良な人材を選んで推挙し、自分の功績を自慢することはなかった。雷義はあるとき死罪相当の人物を救済したことがあり、後日、その人が黄金二斤を持ってきて謝意を伝えても、雷義は受け取らなかった。黄金の持ち主は雷義の留守を伺って、承塵(天井板)の上に黄金を黙って放り上げた。恵棟は言う。「『釈名』に言う。塵受けを頭上に設置し、塵や土を受け止めるのである。」のちに(雷義が)屋根の茅葺きをしたとき、初めてそれを見つけたが、黄金の持ち主はすでに死んでいてもう返すあてがなく、雷義はそこで県の担当部署に送り届けた。

[一] 鄱陽は県である。城は今の饒州鄱陽県の東にある。恵棟は言う。「『鄱陽記』に言う。大雷岡は県の東北にあり、後漢の雷義字次公が住まいした場所である。」

のちに孝廉に推挙されて尚書侍郎を拝命した。同期ののうち、事件に引っかかって処罰を待つ者がいた。雷義はその罪を自分にかぶせて黙って上表し、それを司寇(司法)に告げた。同僚の郎はそれを知ると、官位を捨てて自首し、雷義の罪を肩代わりしたいと願いでた。順帝劉保)は詔勅を下し、全員の処罰を免じてやった。

雷義は帰郷したあと茂才に推挙された。(親友の)陳重に譲ったが、刺史が認めなかったため、雷義は気違いのふりをし、髪を振り乱しながら逃亡して命令に応じなかった。郷里の人々はそのことをこう語った。「膠や漆が堅く結びつくといっても、雷義・陳重ほどではないな。」三つの役所が一斉に二人を召し寄せた。恵棟は言う。「『謝承書』の黄向の対策に、雷陳・義重(雷義・陳重)は出仕してともに昇進したと言うのは、このことである。」雷義は灌謁者を守ることとなり、[一]使持節として郡国を監督しつつ土地土地をめぐり歩いたところ、(悪政の廉で)太守・県令・県長で罪にかかる者が七十人もあった。ほどなく侍御史を拝命し、南頓県令に叙任されたが、在職のまま卒去した。

[一] 『漢官儀』に言う。「謁者は定員三十五名、郎中のうち一年間俸禄をもらった者を給事と称し、一年に満たぬ者を灌謁者と称する。」胡広は言う。「明帝・章帝劉荘・劉炟)の二帝は園陵に服喪したとき、謁者がったので、のちにそのままこれを称した。」馬融は言う。「灌とは知識を習うことである。」応奉は言う。「胡公(胡広)の言葉通りだとすれば、吉凶の制度が異なっていることになる。馬氏(馬融)が『灌とは習うことだ』と言うのも、字が違っている。高祖劉邦)がを継承したとき、灌嬰は七年間、職務に携わり大謁者と号した。★後世の人々がそれに携わったとき、灌姓を名乗って上書としたもので、どうしてそれらを首肯できようか?」沈欽韓は言う。「『釈木』木叢生に言う。灌とは名前のない木で、雑木というような意味である。灌謁者はそこかしこにぞろぞろと集まるだけで職務を持たないため、灌という名が付いたのである。」

子の雷授は、蒼梧太守の官位まで昇った。