利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

劉矩伝

劉矩叔方といい、沛国の人である。叔父劉光順帝の御代に司徒となった。銭大昕は言う。「『順帝紀』を調べると、永建二年七月に太常劉光を太尉とし、四年八月に罷免したとあるが、未だかつて司徒になったことはない。」劉矩は若いころから高い節義を持ち、叔父のがまだ仕官できずにいたことから、銭大昕は言う。「父の叔遼と言うべきであって、伝写のとき転倒したものである。『風俗通』十反篇に見える。」恵棟は言う。「劉矩の叔父劉光は字を仲遼といい、弟の字は叔遼である。史家が彼の名を知ることができず、その字を挙げ、それゆえ叔父叔遼と言ったのを、後世の人が理解できずに叔の字を削除してしまったのだ。『風俗通』が劉矩の父叔遼と言っているのは、漢の時代では、叔父・甥を父子になぞらえていたからである。」そのまま州郡からの(お召しの)命令を拒絶した。太尉朱寵恵棟は言う。「『風俗通』が徐防と言っているのは誤りである。」太傅桓焉が彼の志を評価し、そのため叔遼は彼のおかげで諸公に招かれて議郎を拝命することになり、劉矩は孝廉に推挙された。

次第に雍丘県令まで昇進し、礼譲によってその地を教化した。劉攽は言う。「化之とあるが、文章を検討すると、之(その地を)の字を人(人々を)と作るべきだ。」その(領内の)孝心・義心なき者たちは、みな目を覚まして自分から悔い改めた。民衆のうち訴訟を起こす者があると、劉矩はいつもその人を御前に招き入れ、耳を引っ張って訓告した。[一]「怒りは忍ぶべきだよ。県の役人の介入すべきことじゃない。帰ってからもう一度熟慮しなさい」と言うと、告訴人は感銘し、すぐにみな取り止めて帰るのであった。その(領内の)路上で落とし物を見つけた者は、誰もが持ち主を探し(我が物にはしなかっ)た。県にあること四年、母の喪のため官職を去った。

[一] 『毛詩』に言う。「顔で命令をしないとは、その耳を引っ張ることを言うのである。」

のちに太尉胡広が劉矩を賢良方正に推挙し、(劉矩は)四たび昇進して尚書令となった。劉矩の性質は正直であり、貴人や権勢ある者と打ち解けるようなことはできなかった。そのため大将軍梁冀の気持ちを損ねてしまい、出向して常山国のとなったが、病気のため官職を去った。このとき梁冀の妻の兄である孫祉が沛国の相となっており、王先謙は言う。「官本は祉を社と作る。恵棟が言うには、祉を『風俗通』では礼と作っているという。」劉矩は危害を受けることを恐れて郷里に帰ることができず、そこで彭城の友人の家に身を投じた。恵棟は言う。「『風俗通』は、友人を環玉都だと言っている。」一年余りして、梁冀の気持ちに少し悟るものがあり、そこで(追及を)取り止めた。従事中郎に補任され、再び尚書令となり、宗正・太常へと昇進していった。

延熹四年(一六一)、黄瓊に代わって太尉となった。黄瓊が再び司空になると、劉矩は黄瓊および司徒种暠と心を合わせて政治を助け、賢明なる宰相と評判された。王補は言う。「黄瓊・种暠はまことに賢明なる宰相であった。劉矩は当初、貴人・外戚と打ち解けることができなかったため梁冀の気持ちを損ねたことがあるが、彼が宰相になって(主君を説諭するなど)記録すべきことがないというのは、寵愛が特に深かったということである。『史記』申屠嘉伝と彼とを比較すれば、劉矩の寵愛ぶりは立伝することができないだろう。全ては、いわゆる『うやうやしく廉潔謹厳、丞相になっても定員を満たすだけ』というものであって、功名を立てることも、当時にあって著名になることもないのである。」当時、災害異変が連発していたので、司隷校尉はそのことで三公を弾劾した。尚書朱穆は上疏して、劉矩らは良き輔弼であると称え、さらに湯王高宗(殷王の武丁)が臣下を罪としなかった建前を言上した。[一]帝は省みることなく、ついに蛮族の反乱を理由に(劉矩を)罷免した。のちに復帰して太中大夫を拝命した。

[一] 『尚書湯誥篇に言う。「余一人が罪を犯しても万民には(責任が)ない。万民が罪を犯したなら余一人に(責任が)ある。」『尚書』高宗誡傅説に言う。「一人ができなければ、それはすぐさま予の罪と言えよう。」

霊帝御代の初め、周景に代わって太尉になった。劉矩は再び上公となったが、招聘したのはいずれも名高い儒学者や、かねてよりの徳望家であり、州郡と(斡旋依頼を)遣り取りすることはなかった。順辞黙諫は[一]多くが任用から外された。またも日蝕を理由に罷免された。そこで退職を願い、家で卒去した。

[一] 順辞とは、(権勢ある者の)主張に逆らわないこと、黙諫とは、(反対意見を)はっきり示さないことである。