利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

陶謙伝

陶謙恭祖といい、丹陽の人である。[一]若いころ書生の一人として州郡に出仕し、[二]四たび昇進して車騎将軍張温司馬となり、恵棟は言う。「『魏志』によると、車騎将軍張温の参軍事である。」西進して辺章を討伐した。ちょうど徐州黄巾賊が蜂起したので、陶謙は徐州刺史となり、黄巾賊を攻撃して大いに打ち破り、これを敗走させたので領内はすっかり穏やかになった。

[一] 丹陽郡丹陽県の人である。『呉書』に言う。「陶謙の父は、余姚県長であった。陶謙は若くして父を失ったが、それ以来、不埒なやつだと県内で噂された。十四歳になっても、まだ絹を縫い合わせて旗を作り、竹馬に跨って遊んでいたので、村中の子供たちはみんな彼に従った。故の蒼梧太守である同県の甘公が外出して彼に出くわし、その容貌を見てただならぬものを感じたので、彼を呼んで話し合い、いたく満足してを妻にやろうと約束した。甘公の夫人は腹を立てて言った。『陶家の子倅は羽目を外して遊びほうけているのに、どうして女をやるなんて約束したのですか?』甘公は言った。『あれは並々ならぬ面構えだ。成長すれば必ずや大成するだろう。』そのまま(女を)与えることにした。」

[二] 『呉書』に言う。「陶謙は孝廉に推挙されて尚書郎を拝命し、県令に叙任された。郡太守の張磐は、同郡の先輩であり、陶謙の父とも友人同士であったが、陶謙は彼に頭を下げるのを恥ずかしく思っていた。あるとき(張磐は)舞をするように陶謙に頼んだが、陶謙は立ち上がろうともせず、断固強要してようやく舞わせても、その舞は回転を伴うものではなかった。張磐が言った。『回転すべきではないのか?』(陶謙は)言った。『回転できませぬ。回転すれば他人を出し抜くことになりますゆえ。』」恵棟は言う。「注にいう張磐であるが、張磐は字を子石といい、丹陽の人である。『度尚伝』に見える。」

そのころ董卓は誅殺されていたが、李傕・郭氾関中で反乱を起こしていた。当時、四方(への街道)は断絶していたが、陶謙はいつも使者を間道伝いに行かせ、西京長安)へと貢ぎ物を献納させていた。詔勅により徐州牧に昇進し、安東将軍の号を加えられ、溧陽侯に封ぜられた。[一]このとき徐州地方の百姓たちは富み栄え、食糧もきわめて豊富、流民の多くがここに身を寄せた。しかし陶謙が信任するのは(その職務に)相応しい者でなく、刑罰や行政も不当であった。別駕従事趙昱は知名の士であったが、忠義正直であったがために遠ざけられ、広陵太守へと出向させられた。[二]曹宏らは讒言ばかりの小人であったのに、陶謙はいたく親愛して任用したので、善良な者の多くが彼らによる危害を被った。こうしたことによって少しづつ混乱を深めていった。下邳閻宣は「天子」を自称しており、劉攽は言う。「『本紀』を調べると、闕宣と作り、さらに(注では)闕党童子の子孫だと言っている。ここで閻と作っているのは誤りである。」恵棟は言う。「『魏志』では闕と作る。」陶謙は当初、彼と連合していたが、結局、彼を殺してその軍勢を併合した。

[一] 溧陽は今の宣州県である。溧の音は栗(リツ)。

[二] 『謝承書』に言う。「陶謙は趙昱を茂才に推挙し、太守へと栄転させた。」恵棟は言う。「趙昱のことは裴松之の注に詳しい。」

もともと曹操の父曹嵩琅邪に避難していたのだが、そのころ陶謙の別将が陰平を守っており、[一]士卒たちが曹嵩の財宝に目がくらみ、とうとう彼を襲撃して殺してしまった。銭大昕は言う。「『応劭伝』を調べると、こう言っている。陶謙は日ごろより曹嵩の子曹操がたびたび攻撃をかけてきているのを怨んでおり、そこで軽騎兵に曹嵩を追跡させて殺した、と。両説は互いに異なっているが、『陶謙伝』の方を正しいと見るべきだ。曹操が徐州併呑をするつもりで、陶謙の罪状を書面に認めてて出兵の口実にしているからだ。韋曜の『呉書』に、(曹操が)罪咎を陶謙に被せたとあるのは、それを言ったものだ。」恵棟は言う。「『呉書』にいう。太祖は曹嵩を出迎えるのに、輜重百両余りであった。陶謙は都尉張闓に二百人を率いさせて護送させた。張闓は泰山の華・費の境界で曹嵩を殺し、財物を奪い、そのあと淮南へ出奔した。太祖は罪咎を陶謙に被せ、それから彼を討伐した。」初平四年(一九三)、曹操は陶謙を攻撃し、彭城傅陽を打ち破った。[二]陶謙が引き返してに楯籠ると、曹操はこれを攻撃しても落とすことができず、引き揚げた。恵棟は言う。「『呉書』に言う。青州刺史田揩が軍勢を率いて陶謙を救援したので、曹公は軍をまとめて引き揚げた。」行きがけに取慮・雎陵・夏丘を陥落させ、みな屠った。[三]およそ殺した男女は数十万人、鶏や犬さえも残らず、泗水はそのために流れを止めた。それ以来、五県の城保ではもう人影が見られなくなってしまった。恵棟は言う。「鄭玄の言うには、小城を保と呼ぶとのこと。また裴松之は孫盛の言葉を引用している。罪人を伐ち、民衆を慰めるのが古代の規範である。罪は陶謙にあるのに、彼の配下を殺してしまったのは過ちである。」もともと三輔が李傕の乱に遭遇したとき、百姓たちは流浪のすえ陶謙に身を寄せていたのであるが、みんなされてしまった。[四]

[一] 県名である。東海国に属す。故城は今の沂州県の西南にある。王先謙は言う。「今の兗州府嶧県の西南である。」

[二] 県名である。彭城国に属し、もと春秋時代の偪陽にあたる。宣王を滅ぼしたとき、傅陽と改称したもの。故城は今の沂州承県の南にある。

[三] 取慮の音は秋閭(シュウリョ)。県名である。下邳郡に属す。故城は今の泗州下邳県の西南にある。雎陵も県であり、下邳県の東南にある。夏丘も県で、沛郡に属す。故城は今の泗州県がその地である。王先謙は言う。「取慮は今の徐州府淮寧県の西南、睢陵は今の睢寧県治、夏丘は今の泗州治である。」

[四] 殲とは尽くすことである。『左伝』に言う。「門官はこれを殲す。」

興平元年(一九四)、曹操がまた陶謙を攻撃し、琅邪・東海の諸県を攻略した。陶謙は許しを得られまいと恐れを抱き、丹陽へと逃げ帰ろうとした。ちょうどそのとき張邈呂布を迎え入れて兗州を占拠したので、曹操は引き返して呂布を攻撃した。この歳、陶謙は病気のために死去した。恵棟は言う。「『呉書』に言う。陶謙は六十三歳で死去し、二人の子陶商・陶応はいずれも出仕しなかった。」

はじめ同郡の人笮融が[一]手勢数百人を集めて、陶謙のもとを訪ねて身を寄せたところ、陶謙は(彼に)広陵・下邳・彭城の食糧輸送を監督させた。(笮融は)そのまま三郡の委輪(集積物資)を断ち、浮屠の寺を盛大に建立し、[二]上には金盤を重ね、下には幾重もの塔を作り、さらに本殿をめぐらせて三千人ばかりを収容できるようにした。黄金を塗った像を作り、綾織りの着物をかけた。灌仏を行うたびに、多くの飲食を用意して路上に蓆を敷き、そこで食事や見物をする者は一万人以上もあろうかと思われた。[三]曹操が陶謙を攻撃して徐州地方が不安に陥ったので、笮融は男女一万人と馬三千匹を連れて広陵へ逃れた。広陵太守趙昱は賓客の礼でもって待遇したが、笮融は広陵の物資財貨に目がくらみ、ついに酒宴を利用して趙昱を殺した。何焯は言う。「『魏志』の注に引く『謝承書』に言う。賊の笮融が討伐を受けて臨淮から郡境へと逃げ込んできたので、趙昱は軍勢を率いて防戦に努めたが、敗北して殺された、と。これとは相違がある。」兵士を放って派手に略奪を働き、それから長江を渡り、南方の予章へと逃れて郡守朱晧を殺し、恵棟は言う。「朱晧の字を文淵ということは『献帝春秋』に見える。俗に皓とも作る。」その城に入って占拠した。のちに揚州刺史劉繇に打ち破られ、山中へ逃げ込んだところで人に殺された。

[一] 笮の音は側格の反切(サク)。恵棟は言う。「裴松之によると音は壮力の反切(ショク)。」

[二] 浮屠とは仏のことである。解は『西羌伝』に見える。通鑑胡注によると、断は短(タン)と読む。また毛晃は言う。物資を送ることを「輸」というが、その音は平声である。送られる物資を指して「輸」というとき、音は去声である。委輸の「委」の音もまた去声である。

[三] 『献帝春秋』に言う。「笮融は四・五里四方にわたって蓆を敷いたが、費用は巨万の額に昇った。」

趙昱は字を元達といい、琅邪の人である。身を清めて悪を憎み、志は隠して学を好んだ。たとい親友でさえも滅多なことでは彼に会うことができなかった。耳は邪なものを聞かず、目は妄りなものを見ないという人柄で、太僕种払により方正に推挙された。洪頤煊は言う。「『种払伝』には、(种払は)光禄大夫から司空となり、翌年に罷免され、また太常となった、とあり、『献帝紀』には、初平三年、太常种払が戦没した、とある。种払は一度も太僕になっておらず、これは太常の間違いであろう。」