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原著作者:【むじん書院】

公孫瓚伝

公孫瓚『通鑑』胡注にいう。瓚の音は蔵旱の反切(サン)。伯珪といい、恵棟は言う。「劉寛碑陰では圭と作る。」遼西令支の人である。[一]代々二千石取りの家柄であったが、公孫瓚は母が卑賤の身であったため郡の小役人であった。人となりは姿貌が美しく声音は大きく、職務上の発言では弁辞聡明であった。[二]太守は彼の才能を評価し、を彼に娶せた。[三]のちに緱氏の山中で涿郡盧植から学問を受け、恵棟は言う。「劉寛碑陰に載せる門生の姓氏の中に公孫瓚の名がある。公孫瓚はまた劉寛からも学んでいたのである。」書伝にざっと目を通した。上計吏に推挙されたが、太守君が恵棟は言う。「『英雄記』に太守劉基とある。」事件に連座して檻車で徴されることになった。官の法律では下役人がお供することを許可していなかったが、公孫瓚は衣服を改めて侍卒だと詐称し、自ら下働きの仕事をし、檻車を操縦しながら洛陽に到着した。太守は日南に配流されることになり、公孫瓚は豚と酒を携えて北芒山の頂で先祖を祭り、何焯は言う。「公孫瓚は遼西の人なのに、どうして先祖の墓が北芒山にあるということがあろう。」恵棟は言う。「『謝承書』を調べると、母の墓に泣いて別れを告げたとある。」酒を地に注いで祝詞を述べた。「昔は人の息子でありましたが今では人の臣下となり、日南に参らねばならなくなりました。日南は瘴気が多いので帰れないことが心配です。そこで墳墓に永久のお別れを告げに参りました。」慷慨して泣き悲しみ、二たび拝礼してから立ち去った。見ていて歎息しない者はなかった。出発したのち、道中で赦免された。

[一] 令の音は力定の反切(レイ)、支の音は巨移の反切(キ)。

[二] 『典略』に言う。「公孫瓚の性質は弁辞聡明で、報告をする際は、いつも数多くの曹(部署)をいっぺんに片付け、忘れたり間違ったりすることはなかった。」

[三] 『魏志』に言う。「太守は女を彼に娶せた。」

公孫瓚は郡に帰ると孝廉に推挙され、遼東属国長史に叙任された。あるとき数十騎を従えて(万里長城)から出かけたが、にわかに鮮卑数百騎と遭遇した。公孫瓚はそこで無人の亭に逃げ込んで従者たちに言い聞かせた。「今ここで脱出できなければ、それこそ全滅だぞ。」そこで自分でも諸刃の矛を持って飛び出し、賊にぶつかって数十人を殺傷した。公孫瓚の側近たちもまた半分を失ったが、とうとう逃げ延びることができた。

中平年間(一八四~一八九)、公孫瓚に烏桓突騎を監督させた。車騎将軍張温涼州の賊軍を討伐したが、[一]ちょうどそのとき烏桓たちも反逆し、賊徒張純らとともにの城中を攻撃した。公孫瓚は配下を率いて張純らを追討し、功績を立てて騎都尉に昇進した。張純はまた反逆した胡族丘力居らとともに漁陽・河間・勃海で略奪を働き、平原に侵入して多くの人々を殺したりさらったりした。公孫瓚が追撃して属国の石門で戦うと、[二]夷狄どもは大敗し、妻子を棄て塞を乗り越えて逃走し、(公孫瓚は)彼らが拐かしていた男女をことごとく手に入れた。公孫瓚は深く進入したものの後続がなく、かえって遼西管子城で丘力居らの包囲を受けることになり、二百日余りもすると食糧が底をついたので馬を食い、馬が底をつくと弩や楯を煮た。力一杯戦っても敵わないため、そこで士卒どもと別れを告げ、それぞれ分散して帰ることにした。雨や雪の多い季節であり、穴に落ちて死ぬ者は十人中五・六人もあった。夷狄どももやはり飢えに苦しみ、遠く柳城へと逃走した。劉攽は言う。「思うに、遠は還と作るべきだ。」詔勅が下って公孫瓚は降虜校尉を拝命し、都亭侯に封ぜられ、また属国長史を兼務することになった。兵馬の統率を職務とし、辺境の賊どもと隣接することになったが、いつも驚くべきことを聞くたび、劉攽は言う。「驚は警と作るべきだ。」恵棟は言う。「『英雄記』は警と作る。」公孫瓚はそのつど厳しい顔色で憤怒し、まるで親の敵に向かっていくかのようであった。(敵の立てる)塵を遠望するなり奔走し、時にはそれに続けて夜戦になることもあった。夷狄どもは公孫瓚の名声を知り、その武勇を恐れて侵犯しようとする者はなかった。

[一] 賊とは辺章らのこと。

[二] 石門は山の名で、今の営州柳城県の西南にある。『通鑑』胡注にいう。属国とは遼東属国である。顧炎武は言う。「漁陽に石門峡があるが、こちらは遼東属国の石門である。」

公孫瓚はいつも弓の巧みな者数十人を引き連れ、みな白馬に乗せて左右の翼とし、恵棟は言う。「『英雄記』に拠って十を千と作るべきだ。数十人ではどうして左右の翼にできるだろうか。」白馬義従」と自称した。烏桓たちもまた白馬長史を避けよと言い合った。そこで公孫瓚の姿を描き、馬を駆ってそれを弓で狙い、命中すればみなで「万歳」と称えた。夷狄どもはそれ以後、ついに塞外へ遠く隠れるようになった。

公孫瓚の志は烏桓族を絶滅させることだったが、劉虞は恩愛と信義によって誘降しようとしていた。そうしたことで劉虞と対立するようになった。初平二年(一九一)、青州・徐州黄巾賊三十万人の軍勢が勃海の郡境から侵入し、黒山賊と合流しようとした。公孫瓚は歩騎二万人を率いて東光の南で迎撃し、彼らを大いに打ち破って[一]三万余りの首級を斬った。賊軍は輜重車数万両を棄てて遁走し、河を渡ろうとした。恵棟は言う。「広宗県の東の清河である。桑欽の『水経』に見える。」彼らの半分が渡ったところで公孫瓚が肉薄すると、賊軍はまたも大敗し、死者は数万人、流れる血は赤い川のようであった。捕虜七万人余りを獲得し、車両・甲冑・財物は数えきれず、威名を大いに震わした。奮武将軍を拝命し、薊侯に封ぜられた。

[一] 東光は今の滄州県。恵棟は言う。「勃海郡に属す。」

公孫瓚は劉虞が軍勢を派遣して袁術に荷担するのを諫めていたが、袁術がそれを知って怨むことを心配し、そこで従弟公孫越に千騎余りを率いて袁術のもとに行かせ、自分の方から手を組むことにした。袁術は公孫越を自分の将孫堅に従わせて袁紹の将周昕を攻撃させたが、『官本考証』に言う。周昕を『魏志』では周昂と作る。公孫越は降り注ぐ矢に当たって戦死した。公孫瓚はそのことで袁紹に腹を立て、恵棟は言う。「『謝承書』では、公孫瓚は袁紹が劉伯安を立てようとしたことに反対し、その軍勢をまとめて袁紹を攻撃した、と言っており、これと異なっている。」ついに軍勢を押し出して槃河に屯し、袁紹に報復しようとした。[一]そこで上疏して言った。「臣の聞くところでは、皇羲以来、君臣の道は明らかとなり、儀礼を開いて人々を導き、刑罰を設けて暴悪を禁じたということです。いま車騎将軍袁紹は、先代の行跡を承けて崇高な爵位、重厚な任命を与えられておりますが、しかし性質は生まれついて淫乱で、行動は軽佻浮薄であります。むかし司隷(校尉)であったとき、ちょうど国家は多難な時期であったため太后が政務を執り、氏が朝廷を補佐しておりました。[二]袁紹はまっすぐな者を推挙して曲がった者を捨ておくこともできず、ひたすら媚びへつらって無法者を招き寄せ、狐疑逡巡して社稷を誤らせ、丁原に命じて孟津に放火する始末。[三]董卓が反乱を起こすまでに至りました。(それが)袁紹の罪の第一であります。董卓がご無礼を働いて帝主は人質になられましたが、袁紹は計画を立てて君父を救い出すこともできず、節伝を棄て置いて[四]身を隠して逃亡いたしました。ご命令を忝なくしながら人主に違背したのであります。袁紹の罪の第二であります。袁紹は勃海(太守)として董卓を攻撃すべきでありましたが、沈黙したまま兵馬を選りすぐって父兄に報告せず、太傅一門を累然と一斉にしてしまいました。不仁にして不孝であります。袁紹の罪の第三であります。[五]袁紹が挙兵してから二年にもなりますが、国難を憂うこともなく自領の拡大と利殖を図っております。そこで多くの物資食糧を集めて緊急事でないことばかりに当て、毀損することは果てしなく、百姓らを責め立てており、恵棟は言う。「『典略』では、逮捕尋問して金銭で贖わせ、と言っている。」それを痛み怨んで、悲歎の声を揚げない者はありません。袁紹の罪の第四であります。韓馥を脅迫してその州を盗み取り、勝手に金や玉を刻んで印璽を作り、恵棟は言う。「『献帝起居注』では、袁紹は金璽を刻んで劉虞に贈り、勝手に金銀の印を鋳造しており、孝廉や計吏はみな袁紹のもとへ出頭しております、と言っている。」帰服する者があるたび、いつも黒い囊に検を施し、(その中に入れた)文書を詔書であると称しております。[六]むかし滅亡したが僭号した際には、次第次第に(僭上を重ねた末に)真実になりました。[七]袁紹の僭越な振る舞いを観察いたしますと、必ずやを混乱させるでありましょう。[八]袁紹の罪の第五であります。袁紹は星工に瑞祥異変を観測させ、[九]財貨を贈賄して飲食を共にし、期日を定めて郡県を攻撃略奪しております。これが大臣のなすべきことでありましょうか?袁紹の罪の第六であります。袁紹は虎牙都尉劉勲恵棟は言う。「裴松之が劉勲の字を子横だと言っているのが『臧洪伝』に見える。」共に挙兵の主導者でありました。劉勲は張楊を降服させるなど功績を重ねておりましたが、(袁紹は)ささいな怒りによって無実なのに酷刑を加えました。(その一方)邪悪な者どもを信用して彼らの非道を支援しております。袁紹の罪の第七であります。故の上谷太守高焉、故の甘陵国の姚貢は、袁紹が貪惏によって[一〇]彼らの金銭を横領しようとしたのに対し、金銭が全額揃わなかったため二人して亡命(?)いたしました。袁紹の罪の第八であります。『春秋』の建前では、息子を母によって貴びます。[一一]袁紹の母親は子守の下女であって地金は卑賤なのでありますが、高貴で重い役職に就き、幸福を享受して富み栄えております。目先の昇進への野心を持っていても、虚心に謙譲する良心はございません。袁紹の罪の第九であります。また長沙太守孫堅はかつて予州刺史を領し、ついに董卓を走らせて陵廟を掃き清め、王室に忠勤して功績は莫大でありました。袁紹は小将を派遣して彼の官位を盗み取らせ、恵棟は言う。「『呉録』に言う。袁紹は会稽の周グを予州刺史にして派遣し、来襲して(予)州を奪取させた。孫堅は慨然として歎いて言った。一緒に義兵を挙げたのは社稷を救うためなのに、逆賊が破滅しそうになるとおのおのがこんな有様だ。吾は誰と力を合わせればよいのか!周グは字を仁明といい、周昕の弟である。『典略』は周グを周昂としている。ある人は、周昂すなわち周昕であると言っている。」孫堅の軍糧を断絶して深く進入させず、董卓を長いあいだ誅殺させないようにしました。袁紹の罪の第十であります。むかし姫周の政治が弱まって王道が次第に衰えていったとき、天子が遷都なさいますと諸侯は離叛いたしました。それゆえ桓公柯会の盟約を立て、[一二]文公践土の会合を行い、[一三]荊楚を討伐して菁茅を致し、[一四]曹・衛を誅して無礼を明らかにしたのであります。[一五]臣は闒茸(微賤)の身であり、先賢とは比べるべくもありませんが、[一六]朝恩を蒙って重任を担い、鈇鉞の職務にあって罪人討伐の辞令を奉じております。[一七]すぐさま諸将・州郡と一緒に袁紹らを討伐いたす所存であります。もし(この)一大事に勝利を収めて罪人を捕まえることができましたら、[一八]桓公・文公による忠誠の功績を継続したいと願っております。」かくて兵を挙げて袁紹を攻撃した。これにより冀州の諸城はことごとく叛逆して公孫瓚に荷担する。

[一] とは『爾雅』にいう九河の鉤槃の河である。その枯河は今の滄州楽陵県の東南にある。恵棟は言う。「前書『地理志』は、平原に槃県があったと言っている。」師古は言う。「つまり九河の鉤槃である。鄭元の注する『禹貢』に言う。九河之名,徒駭太史馬頰覆釜胡蘇簡絜鉤槃﹑鬲津.周の時代、斉の桓公がこれを塞いで一本の河とした。今の河間弓高から東、平原の鬲・般まで、至る所にその名残がある。」

[二] 何進のことを言っているのである。

[三] 『続漢書』に言う。「何進は中常侍趙忠らを誅殺せんと思い、何進はそこで令旨だと詐称し、武猛都尉丁原に兵数千人を放って河内を荒らさせ、『黒山伯』と称し、報告ついでに趙忠らを誅殺して口実とし、平陰・河津を焼いて役所や人家を無くしてしまい、それで太后を震え上がらせようとした。」

[四] 伝の音は丁恋の反切(テン)。

[五] 『左伝』に言う。「累囚を二度釈放する。」杜預は言う。「累とは繋ぐことである。」前書『音義』に言う。「もろもろの罪によらぬ死を累と言う。」斃とはれることである。董卓は袁紹が山東で挙兵したことを恨み、そこで袁紹の叔父である太傅袁隗を誅殺し、宗族のうち京師にいる者をことごとく誅滅した。

[六] 『漢官儀』に言う。「およそ上表する際にはみな開封しておき、そのうち機密事項を述べる際には黒い囊に入れる。」『説文』に言う。「検とは署名することである。」今はそれを俗に排と言っており、その字は木に従っている。恵棟は言う。「『釈名』は言う。検とは禁ずることである。諸物を禁封し、暴露できないようにするのである。」また言う。「書文書檢曰署,署予也.題所予官號也.毛晃云,檢書檢也.印窠封題也.」

[七] 滅亡した新とは王莽のこと。

[八] 階とは梯子である。『』に言う。「職について階を乱す。」

[九] 星工とは占星術を得意とする者。周寿昌は言う。「『典略』に引用する表を調べると、星工の姓名を崔巨業だと言っている。それは、この伝で袁紹が故安攻囲に派遣した将のことである。」

[一〇] 惏の音は力含の反切(ラン).

[一一] 『公羊伝』に言う。「桓公は幼くとも貴く、隠公は長けるとも卑しい。息子は母によって貴び、母は息子によって貴ぶ。」

[一二] 『春秋』に「公会斉侯盟于柯.」とある。『公羊伝』に言う。「斉の桓公の信義は天下に明らかになったのは、柯の盟から始まったのである。」銭大昕は言う。「会は亭と作るべきだ。」(『典略』ではもともと亭と作っていた。)

[一三] 践土はの土地である。『左伝』にいう。周の襄王は出向して鄭に住まいしたが、晋の文公重耳は践土の会合を行い、諸侯を率いて天子に朝覲し、それによって霸業の功績を完成させた。

[一四] 菁茅とは霊茅のことで、祭祀のときお供えするものである。『左伝』に言う。僖公四年、斉の桓公はを討伐して詰問した。「は苞茅の貢ぎ物を納入せず、王の祭祀にもお供えせず、縮酒もしなかった。寡人はそれで徴したのだ。」

[一五] 『左伝』僖公二十八年にいう。晋侯は曹を討伐するとき衛に道を借りようとしたが、衛の人々が許可しなかったので引き返し、黄河から南に渡って曹に侵出し、(そのあと)衛を討伐してその無礼を追及した。恵棟は言う。「注にその無礼を追及したとあるが『左伝』にそのような文はない。『左伝』僖公二十三年を調べてみるとこう言っている。晋の公子重耳が衛を通過したとき衛の文公は礼遇しなかった。(重耳が)曹まで来たとき、曹の僖負羈の妻は(僖負羈に)言った。『晋の公子は帰国すれば必ず諸侯を思い通りにできるでしょう。諸侯を思い通りにできれば無礼者を誅殺いたしましょうが曹はその筆頭です。』『伝』はこのことを指しているのだろう。」

[一六] 闒とは下賤といったこと、茸とは細かいことである。闒の音は吐盍の反切(トウ)、茸の音は人勇の反切(ジュウ)。

[一七] 鈇の音は方于の反切(フ)で、馬草を刻むための刃物である。鉞とは斧のことである。

[一八] 『尚書』に「周公は東征し、三年で罪人を捕まえた」とある。

袁紹は恐懼し、そこで帯びていた勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟公孫範に授けて郡に赴任させ、それで同盟を結ぼうとした。ところが公孫範はそのまま袁紹に背き、勃海の郡兵を手に入れて公孫瓚を支援した。公孫瓚はそこで配下の将帥を青州・冀州・兗州刺史へと独自に任命し、さらに太守や県令をことごとく配置し、界橋において袁紹と大会戦を行った。[一]公孫瓚は戦に敗れて薊に引き揚げた。袁紹は将の崔巨業に軍勢数万人を率いさせて故安を攻囲させたが恵棟は言う。「故安は県名で、涿郡に属している。」陥落させられず、軍勢を引き揚げて南へと帰還した。公孫瓚は歩騎三万人を率いて追撃し、巨馬水において[二]その軍勢を大破、死者は七・八千人であった。勝利に乗じて南進し、郡県を攻め下しながら平原まで到達したが、そこで青州刺史田揩を派遣しての地を占拠させた。袁紹が再び軍勢数万人を派遣して田揩と連戦させること二年、糧食はいずれも尽き果てて士卒は疲労困憊、お互いに百姓どもを奪い合ったので野原には(荒廃して)青草も残らなかった。[三]袁紹はそこで子の袁譚を青州刺史として派遣したが、田揩は彼と戦って敗退し、引き揚げていった。

[一] 橋の名である。解は『献帝紀』に見える。恵棟は言う。「『英雄記』は、界橋の南二十里で合戦したと言っている。」

[二] 川は幽州帰義県の境界にあり、易州遒県の境界から流入している。恵棟は言う。「『水経注』に言う。淶水は東南流して逎県故城の東をよぎる。それを巨馬河と言い、また渠水とも言う。さらに東南流する。」

[三] 『左伝』にいう。斉侯はを討伐したとき展喜に語った。「室如懸罄,野無青草,何恃而不恐?」

この歳、公孫瓚は劉虞を打ち破って捕虜とし、ことごとく幽州の地を領有、猛り狂った野心はますます盛んになった。それ以前、(このような)童謡があった。「の南の果て、の北のきわ。中央が合わさらずに大きくて砥石のよう。その中だけは世を避けられる。」公孫瓚はの地がそれに相当すると思い、ついに屯所をそこへ移した。[一]そこで盛んに城塁を修築したが、物見櫓は数十にもなり、易河に面して遼海に通じさせた。

[一] 前書に易県は涿郡に属していたとあるが、『続漢志』は河間に属すと言っている。公孫瓚が住まいした易京故城は今の幽州帰義県の南十八里にある。恵棟は言う。「『水経注』に言う。易京城は易城から四・五里のところにあり、今でも矢倉の土台が残存している。土台の上に井桁があって世間では易京楼と呼んでいるが、それが公孫瓚が楯籠った場所である。」

劉虞の従事であった漁陽の鮮于輔らは州兵を糾合し、ともに公孫瓚に報復しようとした。鮮于輔は燕国閻柔恵棟は言う。「『烏桓伝』に言う。閻柔は若いころから烏桓・鮮卑の部落に身を投じ、その種族の人々から信頼を寄せられていた、と。燕国は後漢の広陽である。」日ごろ恩愛信義を有していたことから、(彼を)烏桓司馬に推戴した。恵棟は言う。「応劭の『漢官儀』に言う。護烏桓校尉には司馬三人があり、俸禄は六百石であった。」閻柔は胡族・漢族数万人を誘致し、公孫瓚が配置した漁陽太守鄒丹の北において戦い、鄒丹をはじめ四千余りの首級を斬った。烏桓の峭王は劉虞の恩徳を感じており、種族の人々および鮮卑七千騎余りを率い、鮮于輔と一緒に南方から劉虞の子劉和を迎え入れ、袁紹の将麴義と合流して軍勢十万人が一斉に公孫瓚を攻撃した。興平二年(一九五)、公孫瓚を鮑丘で打ち破り、[一]二万余りの首級を斬った。公孫瓚はかくて易京に楯籠り、屯田を開設してようやく自立できた。対峙すること一年余り、麴義の軍糧が底をついて士卒は飢えに苦しみ、残りの軍勢も数千人が逃走した。公孫瓚は迂回してそれを撃破し、その輜重車をことごとく手に入れた。

[一] 鮑丘は川の名であり、また路水とも呼ばれ、今の幽州漁陽県にある。

このとき日照りや蝗のため穀物は騰貴し、民衆はお互い(の肉)を食らい合っていたが、公孫瓚は我が才能力量を誇って百姓に憐れみをかけず、過失は記憶しても善行は忘却し、目が合えば必ず報復した。州里の善士のうち名声が彼の右に出る者があれば必ず法律によって危害を加え、いつも(その理由を)「衣冠(官吏)どもはみな自分が職分によって富貴になったと思い、他人の恩恵に感謝しないだろう」と言っていた。そのため寵愛されているのは多くが商人上がりの凡人ばかりであったが、恵棟は言う。「『英雄記』にいう。公孫瓚が寵遇している身勝手な者どもは、故の占師である劉緯台、絹商人である李移子、大店の主である楽何当ら三人のごときであり、兄弟の誓いを立てて(公孫瓚)自身は伯と称し、三人を仲・叔・季とし、いつも古代の曲周・灌嬰の仲間だと称してなぞらえていた。」(彼らが)至る所で乱妨侵害したので百姓たちはそれを怨みに思っていた。そうしたことから代郡・広陽・上谷・右北平はおのおの公孫瓚が配置した長吏を殺し、再び鮮于輔・劉和と合流した。公孫瓚の憂慮は常軌を逸しており、高台に住まいして鉄製の門扉を張り、左右の者を斥けて、男子なら七歳以上は易の門に入ることをできなくした。側妾だけが侍り、その文簿書記は全て汲み上げていた。『通鑑』胡注にいう。ちょうど水を汲むときのように繩でそれを引っ張り上げたのである。上は時掌の反切(ジョウ)。婦人たちに大声を出すよう訓練して数百歩離れて報告させ、それで命令を伝えることにした。賓客を遠ざけて信頼する者はなく、そのため謀臣・猛将らは少しづつ離叛していった。それからというもの、もう攻撃に出ることも少なくなった。ある人がその理由を訊ねると公孫瓚は言った。「はむかし塞のあたりで叛逆した胡族どもを追いかけ回し、孟津では黄巾賊を掃除したものだが、その当時、天下は指図することで平定できると考えていた。[一]今日になってみると戦争は今から始まるのであって、それを観察すると我の決定できることではない。軍勢を休ませて農耕に努め、それによって凶年に備えるに勝るものはない。兵法には百楼を攻撃しないとあるが、いまの諸営は楼樐が千里にもなり、[二]食糧は三百万斛も積み上げられているのだ。これを食っていれば天下の異変を待つには充分だ。」

[一] 『九州春秋』に言う。「公孫瓚は言った。『はじめ天下に戦争が起こったとき、我は手のひらに唾すれば解決すると考えていた。』」

[二] 「樐」すなわち「櫓」字であることが『説文』に見える。『釈名』に言う。「櫓とは露わなことである。上部に覆いの屋根がないのだ。」

建安三年(一九八)、袁紹は再び公孫瓚に大攻撃をかけた。公孫瓚は子息公孫続を派遣して黒山の統帥たちに救援を要請し、王補は言う。「黒山の統帥たちとは張燕らのことである。」一方自分では突騎を率いて突出し、西山沿いに袁紹軍の背後を遮断しようと考えた。『通鑑』胡注にいう。易京から西方では故安・閻郷以西の山々が相当するが、中山国の境界と隣接して山はそれぞれ広く奥深く、いづれも黒山賊どもの拠り所になっている。長史関靖は諫めて言った。恵棟は言う。「『英雄記』に、関靖の字は士起といい、太原の人だとある。」「いま将軍の将兵のうち瓦解の心を持たぬ者はありません。それでも維持していられるのは、彼らが老いた者や幼い者を恋い慕い、将軍を主として頼みにしているからなのです。長期間堅守していれば袁紹の方から撤退させることも不可能ではないのに、もしそれを捨てて突出するなら、後方の押さえがなくなってしまい易京の危険はたちどころにやって参りますぞ。」公孫瓚はそこで取りやめた。袁紹が次第に攻勢を強めると、公孫瓚軍は日に日に追い詰められ、そこで撤退して三重の陣営を築いて守りを固めた。

四年春、黒山賊の統帥張燕が、公孫続とともに軍勢十万人を率いて三手から公孫瓚を救いに駆けつけた。到着する以前、公孫瓚は手紙を持たせた行人を密かに送って公孫続に告げさせていた。「むかし周末の滅亡混乱では横たわる死体で地が覆われたというが、内心ではそんなことはあるまいと憶測していた。今日、思いがけずその鋭鋒を我が身に受けることになった。袁氏の攻撃はさながら鬼神のごとくであって、雲梯・衝車は吾が楼上に舞い上がり、太鼓・角笛は地中まで鳴り響き、昼間には追い詰められ夜中でも攻め立てられて物言う暇さえないのだ。鳥どもが人間をついばみ、滀水は嵩を増してきた。[一]お前は張燕に(土下座して)頭を打ち砕くため、疾駆して緊急を告げねばならないぞ。父子の天性は言わなくとも通ずるもの(だから、理解できるだろう?)。[二]まず鉄騎五千人を励まして北方の隰地に潜み、[三]火を起こして合図せよ。吾は内側から出陣して気勢を揚げ、そこで決着を付けるつもりだ。そうでもしなければ、吾が滅ぼされたのち、天下広しといえどもお前を受け入れてくれる所はないぞ。」袁紹の斥候がその手紙を手に入れ、[四]約束通り火を起こすと、公孫瓚は救援軍が到着したと思ってすぐさま出陣してきた。袁紹が伏兵を設置していたので公孫瓚はついに大敗し、またも引き返して中城・小城に楯籠った。(公孫瓚は)自分の身を守り通すことができなくなったことを知り、自分の姉妹・妻子をことごとく絞め殺し、そのあと火を放って自焼した。袁紹の兵士が高台に登っていって彼を斬首した。

[一] 滀の音は丑六の反切(チク)、急激である比喩。

[二] 互いに感じあうことを言うのである。

[三] 低く湿っている所を隰と言う。

[四] 『献帝春秋』に「斥候が手紙を手に入れたので、袁紹は陳琳にその言葉を書き換えさせた」とあるのが、この手紙のこと。

関靖は公孫瓚が敗北したのを見て恨み歎き、「もし以前に将軍が出ていくのを止めなければきっと失敗することはなかっただろう。君子は他人を危険に陥らせたとき、必ずその困難を共にするものだと吾は聞いている。どうして一人だけ生きていられようか!」と言い、馬に鞭打って袁紹軍に突っ込んで死んだ。『通鑑』胡注にいう。公孫瓚の計略は陳宮の計略と同じである。陳宮の計略は呂布に用いられることがなく、公孫瓚の計略は関靖が止めさせた。それは、計略を決定することだけが難しいのではなく、決断に賛成するのもやはり難しいということなのである。周寿昌は言う。「『英雄記』にいう。関靖は字を士起といい、太原の人である。もともと酷吏であり、媚びへつらうだけで遠大な計略はなく、特別に公孫瓚に信頼寵愛された。」公孫続は屠各に殺され、[一]田揩は袁紹と戦って死んだ。

[一] 屠各は胡族の名である。恵棟は言う。「『晋中興書』に言う。胡族の習俗は(?)、塞内に居住する者のうち屠各という種族があって、最も豪勢であった。そのため単于となって諸種族を統括していた。」

鮮于輔がその軍勢を率いて曹操に帰服すると、恵棟は言う。「『魏志』に言う。鮮于輔は太守の事務を行ったとき田予を長史とした。田予は、速やかに曹氏に帰服すべきです、と鮮于輔に告げた。鮮于輔はその計略を聞き入れた。」曹操は鮮于輔を度遼将軍とし、都亭侯に封じた。閻柔は部曲を率いて曹操の烏桓攻撃に従軍し、護烏桓校尉を拝命して関内侯に封ぜられた。

張燕は袁紹に敗北したのち、次第に人数を失っていった。曹操が冀州を平定しようとしたとき、軍勢を率いてに参詣し、投降した。北平将軍を拝命し、陳景雲は言う。「北平は平北と作るべきだ。」安国亭侯に封ぜられた。

論に言う。帝室から王公の血筋を引く者は、みな脂肪(を食べること)によって成長し、働いて稼ぐことを知らないものだ。彼らのうちから、行動を励まして身を慎み、超然として群れをなさない者は未だ聞いたことがない。[一]劉虞は道義を守って名誉を慕い、忠義篤厚によって自分をした。[二]うるわしいことである。漢末のすぐれた宗室であろう!もし劉虞・公孫瓚が仲違いせず、心を一つに力を合わせ、人々をして人数を全うし、燕・薊の豊かさを守りえ、[三]軍勢を繕って武威を明らかにし、[四]群雄の隙を窺って天運に舎し、人文をはっきりさせれば、古代の休烈もどうして遠いことであっただろうか![五]

[一] 前書に班固は言う。「ただ大雅であって、超然として群をなさない者は河間献王のことであろうか?」それゆえ論はこれを引用したのである。

[二] 牧すとは養うことである。『』に言う。「卑しくして自分を牧す。」

[三] 糾すとは収めることである。劉攽は言う。「糾人完聚稸とあるが、思うに、人の下に一字分少ないため文法が成立していない。衆の一字があるべきだ。」周寿昌は言う。「思うに、糾人完聚で一句とし、稸の字は下句に属させて読めばよい。稸すなわち蓄字であって、『袁紹伝』に兵馬を稸して不庭者を討つ、『呂強伝』では時に帝は多くの私蔵品を稸したとある。みなこの稸字を用いており、本句の饒字とも意味が最も通じやすい。」

[四] 繕うとは修めることである。『左伝』に言う。「武装兵を繕う。」

[五] 天運とは天命といったこと、人文とは人事といったことである。『易』に言う。「人文を観測し、それによって天下を教化する。」王会汾は言う。「文意を考えると、舎は合と作るべきだ。」