利用許諾契約書

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原著作者:【むじん書院】

劉寛伝

劉寛文饒といい、弘農華陰の人である。[一]父の劉崎は、順帝劉保)の時代に司徒となった。[二]あるとき劉寛が出かけたおり、牛を見失った者がいて、劉寛の車の中に近付いてきてそれを(自分の牛だと)誤認した。劉寛はなにも言わずに車を下り、徒歩で帰っていった。しばらくしてから、誤認した者が牛を見つけたので(劉寛の牛を)送り返し、叩頭して謝罪した。「長者に逆らったことが恥ずかしゅうございます。なんなりとご処罰を。」劉寛は言った。「品物には似通ったものがあり、事柄には間違いがあるものだよ。苦労が報われて帰ってきたんだから、どうして謝罪する必要があるんだい?」州里では、彼がをしなかったことに感服した。[三]

[一] 『謝承書』に言う。「劉寛は若いころから『欧陽尚書』『京氏易』を学び、とりわけ『韓詩外伝』には詳しかった。星官・風隅・算歴については、みな師の教えを極め尽くし、『通儒』と称えられた。権勢や利益について他人と争ったことは一度もなかった。」隅とは角である。四隅の風をみて占うのである。王先謙は言う。「官本の注が、風隅を風角と作り、『隅とは角である』を『角とは隅である』と作るのが正しい。」

[二] 崎の音は丘宜の反切(キ)。恵棟は言う。「『太尉劉寛碑』に言う。公の父は司徒となり、安帝・順帝を補佐し、勲功を二代にわたって重ねた。」

[三] 校とは報いることである。『論語』によると、曾子が「犯していず」と述べた、とある。

桓帝劉志)の時代、大将軍が(彼を)召し出し、五たび昇進して司徒長史となった。[一]このとき京師で地震が起こったので、特別に拝謁を許され、ご相談を受けた。二たび昇進し、出向して東海国のとなった。[二]延熹八年(一六五)、中央に召されて尚書令を拝したのち、恵棟は言う。「洪适によると、『(劉寛)碑』の言うには、延熹八年に地震が起こったので、詔勅によって異変についてご相談を受け、侍中から尚書へと転任し、東海国の相、南陽太守へと昇進した、とのこと。『後碑』もまた同じである。伝によると、地震について下問されたのは東海国の相になる以前で、そのあと八年に尚書令を拝命した、とある。『帝紀』を調べてみると、延熹八年九月丁未、京師にて地震が起こった、とある。伝の方が間違っているのである。」南陽太守へ異動になった。汪文台は言う。「『(北堂)書鈔』七十四に引く『華嶠書』に言う。南陽太守になると、の栽培法、蚕の飼い方、草履の織り方など、人民にとって利益になることを教えた。」三つの郡を歴任したが、温厚仁愛、いつでも寛容であった。忙しいときでも早口になったり顔色を変えたりすることは一度もなかった。つねづね「刑罰でもって治めようとすれば、民衆は逃れようとして恥じることがない」(『論語』)と言っていて、役人に過失があったときも、ただの穂を鞭のかわりにして叩き、『通鑑』胡注にいう。古代では生皮を用いて鞭とした。恥ずかしく思わせるだけで済ませ、決して苦痛を与えることはなった。仕事がうまくいったときは、その(手柄を立てた)人を推挽して自分はへりくだり、災害が起こったときは、自分のせいにして責任をかぶった。各県の巡察に際して亭伝で休息を取るときには、いつも学官・祭酒および処士や書生たちを招き、経書を手にして講義を行った。[三]父老に出会ったときは田舎の言葉でいたわり、少年に出会ったときは孝悌の訓辞で励ました。人々は恩徳に感銘を受けて徳行に励んだので、日ごとに教化されていった。汪文台は言う。「『書鈔』七十四に引く『華嶠書』に言う。書生たちのために好んで経典の意義を講義していたが、厳しくせずともよく治まった。」

[一] 大将軍とは梁冀のことである。恵棟は言う。「陶宏景(陶弘景)『真誥』によると、劉寛は方正に推挙されたことがある、という。『碑』に言う。公は浮雲の志を抱いており、三公でも出仕させることはできなかった。大将(軍)が礼と命令でもって高第に推挙し、侍御史を拝命したのち梁の県令に昇進した。旧主の喪に服すために官職を棄てた。三府から博士に招聘されたが、いずれも病気を口実に就任しなかった。司隷から茂才、太尉からは有道に推挙され、公車で召し出されて議郎・司徒長史を拝命、入朝して侍中に昇った。欧陽修が言っている。『碑』によると四たび昇進するに留まり、おそらく博士を拝命したことはないのだろう。伝では、太中大夫になったあと初めて(侍中に)昇進したと言っているが、それ以前に長史から入朝して侍中に昇っており、史書が書き落としたものだろう、と。」

[二] 東海王劉彊の曾孫劉臻の相である。

[三] 『続漢書』に言う。「博士祭酒は俸禄六百石である。祭酒はもともと僕射といい、中興のとき祭酒と改称された。」処士とは学芸を修めながら家にいる者である。

霊帝劉宏)在位の初期、中央に徴されて太中大夫を拝し、華光殿において帝への講義を行った。[一]侍中に昇進して、着物一そろいを賜った。屯騎校尉へ異動となり、宗正に昇進、光禄勲に転任した。熹平五年(一七六)、許訓の後任として太尉となった。[二]霊帝はいたく学芸を愛好しており、劉寛を引見するたびにいつも経典の講義をするよう命じていた。劉寛は酒宴のとき酒を被って眠ってしまったことがあった。[三]帝が「太尉、酔うたのか?」と訊ねると、劉寛は顔を上げて言った。「臣がどうして酔いましょう。ただ責任の重大さに心を悩ませ、酔うたようになるのでございます。」帝はその言葉を尊重した。

[一] 『洛陽宮殿簿』に言う。「華光殿は華林園内にある。」

[二] 『漢官儀』に言う。「許訓は字を季師といい、平輿の人である。」

[三] 被るとは、たることである。酒に加たったのである。被の音は平寄の反切(ヒ)。恵棟は言う。「陶宏景は言う。上が酒を賜ると地面に倒れて眠ってしまった。その理由を問われ、答えて言った。『臣の責任は重大でありますゆえ、いつも心を悩ませて酔うたようになるのでございます。早朝、市場へ野菜を買わせに下人をやったのでありますが、下人はその銭を盗んで酒を呑み、日が暮れてから帰りましたが、屋敷内で眠り、野菜を持ち帰っていなかったのです。目が覚めてから、死んだ狗めと叱りつけ、罵ったあと、そのまま束帯に着替えて参内いたしました。下人めがあれから自殺してはおらぬかと心配になり、それを思ううちに不覚にもすっと眠り込んでしまったのでございます。なにとぞお許しください。』ここでは後文のことと合わせて同じ時間に起こったこととしているが、どちらが正しいのか分からない。」

劉寛は率直な人柄で、酒を好んだが、や湯浴みを好まず、[一]京師ではそれを諺にしていた。あるときのこと、酒宴に招いた客人が下人に酒を買いに行かせたが、(下人は)迂久してから泥酔して帰ってきた。[二]客人は辛抱ならず、「畜生め!」と叱りつけた。劉寛は少ししてから人をやって下人の様子を窺わせたところ、きっと自殺するに違いないと疑われた。(そこで劉寛は)左右の者たちを見ながら言った。「あの方は人間ですよ。それを畜生だと罵るとは、なんとひどいことでありましょう!わたしはあの人が死にやしないかと心配になります。」夫人はちょっと劉寛を怒らせてみたくなり、期会の直前を窺い、王先謙は言う。「官本が期を朝と作るのが正しい。『東観記』は朝と作り、『書鈔』百二十九に引く『東観記』でも、朝会の直前を窺い、と作る。」(劉寛が)すっかり正装に着替えてから、下女に肉の汁物を持たせて朝会用の着物へぶちまけさせた。下女は慌てふためいて片付けようとしたが、劉寛は顔色を変えず、ゆったりと言った。「お前の手は汁物でやけどをしていないかい?」汪文台は言う。「『書鈔』百四十四に引く『続漢書』に言う。お前の手はやけどをせずに済んだのかい?(と訊ね、)着替えをしてから入ってきたが、顔色は変わらなかった。」その度量ある性格はこれほどであったので、海内では彼を長者と称えた。

[一] 『説文』に言う。「手を洗うことを盥と言う。」音は管(カン)。

[二] 迂久とは良久ということである。

のちに日食のため罷免されたが、(しばらくして)衛尉に任命された。恵棟は言う。「『碑』に言う。持病のため官位を辞退して光禄大夫を拝命、衛尉に昇進した。欧陽修は言う。光禄大夫のことを記さないのは、史書の書きこぼしである。」光和二年(一七九)、また段熲の後任として太尉となった。在職すること三年、太陽に異変があったため罷免され、また永楽少府を拝命、光禄勲に昇進した。黄巾党の謀叛を先策して[一]事実をもとに上奏したことが認められ、逯郷侯六百戸に封ぜられた。[二]中平二年(一八五)に卒去した。恵棟は言う。「『碑』に、二月丁卯とある。」ときに六十六歳であった。車騎将軍の印綬と特進の位を追贈し、昭烈侯した。恵棟は言う。「『碑』に言う。天子は哀悼憐憫して、ご親筆による命令書を発し、右中郎将張梁に節を持たせて葬儀に参列させ、かたびらや口に含ませる玉を賜与し、儀式への足しとした。また五官中郎将何夔に節を持たせて昭烈侯と諡した。夏四月庚戌、埋葬した。」王先謙は言う。「官本では烈を列と作る。」子の劉松が後を継ぎ、官位は宗正にまで昇った。

[一] 先策とは予知することを言う。

[二] 逯の音は録(ロク)。