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原著作者:【むじん書院】

馮異伝

馮異公孫といい、潁川父城の人である。[一]読書を好み、『左氏春秋』『孫子兵法』に精通していた。[二]

[一] 父城は県名。故城は今の許州県の東北にある。汝州郟城県にもやはり父城がある。沈欽韓は言う。「父城は今の汝州宝豊県の西北にある。汝州郟城の父城というのは、『前志』にいう沛郡の城父であって、父城ではない。注は誤り。」

[二] 孫子は名をといい、用兵に巧みであった。呉王闔廬の将である。『兵法』十三篇を著作したことが『史記』に見えている。

漢兵が立ち上がったとき、馮異は郡掾として五つの県を監理していた。父城の県長苗萌恵棟は言う。「『風俗通』にいう。苗姓は、楚の大夫伯棼の子孫である。賁皇が晋に出奔したとき、苗に采地を与えられたので、それを氏としたのである。」一緒に(父城の)城を固め、王莽方としてに抵抗した。光武帝劉秀)は潁川の地を攻略したが、父城は攻撃しても下せず、巾車郷に軍勢を留めていた。[一]馮異は間出して属県へ行こうとしたが、[二]漢兵に捕らえられてしまった。そのとき馮異の従兄馮孝および同郡の丁綝・呂晏は、[三]いずれも光武帝に付き従っており、ともに馮異を推薦したので、(馮異は光武帝に)拝謁する運びとなった。馮異は言った。「馮異一人の力では戦力にはなりません。年老いた母が城内におりますので、どうかお帰しくださいますよう。城五つを押さえる手柄を立てて、ご恩徳に報いましょう。」光武帝は言った。「よかろう。」馮異は帰ってくると、苗萌に告げた。「いま諸将はみな勇者であって、ややもすれば横暴を働くことが多い。ただ劉将軍だけは向かう先々でも略奪を働かず、その言葉や仕草を見ても、尋常な人物ではない。身を寄せるべき方だ。」苗萌は言った。「死生を同じくすると誓ったからには、つつしんであなたの計略に従いましょう。」光武帝が南進してに帰還したのち、更始帝劉玄)の諸将が前後して十人余り、父城を攻撃してきた。馮異は堅守して陥落させなかった。光武帝が司隷校尉として父城に立ち寄ったとき、馮異らはすぐさま城門を開き、牛酒を捧げて出迎えた。光武帝は馮異を主簿に、苗萌を従事に任命した。馮異がこのとき邑子銚期・[四]叔寿恵棟は言う。「孫愐の言うには、叔姓は、『左伝』にいう魯公子叔弓の子孫であり、光武帝の破虜将軍に叔寿があった。」洪頤煊は言う。「馮異は潁川父城の人、銚期は潁川郟の人として同郡であり、これをまた邑子とも言う.彭寵は南陽宛の人、光武帝は蔡陽の人であり、『耿弇伝』に漁陽太守彭寵は公の邑人であると言っているのは、そのためである。」段建・左隆らを推薦すると、[五]光武帝はみな掾史に取り立てた。(馮異は)随行して洛陽に到着した。

[一] 巾車は郷名。父城の境界線上にある。沈欽韓は言う。「郷は宝豊県の東にある。」

[二] 間出とは忍び行くこと。行の音は下孟の反切(コウ)。

[三] 『東観記』に言う。「丁綝の字は幼春といい、定陵の人である。壮健であるうえ武略を備えていた。」綝の音は丑心の反切(チン)。恵棟は言う。「丁鴻の父である。『説文』に言う。綝は郴のように読む。『小顔』に音は丑林の反切(チン)とある。」

[四] 音は姚(ヨウ)。

[五] 『東観記』『続漢書』はいずれも「段」を「」の字に作る。

更始帝はしばしば光武帝を行かせて河北を平定したいと考えていたが、諸将はみな反対していた。このとき左丞相曹竟の子曹詡尚書を務めていて、[一]父子が(同時に)出仕していた。馮異は彼らと固く手を結ぶよう光武帝に進言した。河北へ渡ることについては、曹詡の尽力があったのである。

[一] 曹竟は字を子期といい、山陽の人である。のちに赤眉の難にあって死んだことが前書(『漢書』)に見えている。詡の音は虚羽の反切(ク)。

(兄の)伯升劉縯)が敗死して以来、光武帝はあえて悲しみの色を表すことはなかったが、一人でいるときは、いつも酒や肉をめず、恵棟は言う。「蔡邕が言うには、御とは進めることである。」枕元には涙をこぼした跡があった。馮異は一人のとき平伏してやんわりと哀情について諭した。光武帝は彼を押しとどめながら「よ、滅多なことを言いなさるな」と言った。馮異はまた頃合いを見ながら進言した。「天下はだれもが王氏(王莽)に苦しめられ、久しく漢朝を思い返しています。いま更始帝の諸将は好き勝手に乱暴し、[一]至るところで略奪を働いておりますので、百姓たちは失望して頼る相手もありません。いま公は一方面に独断命令をくだす権限をお持ちで、恩徳を施しておられます。そもそも桀紂桀王紂王)の乱暴があって初めて湯武湯王武王)の功績が生まれるのです。人間というのは、長いあいだ飢え渇いていれば、満腹になるのも早いものです。[二]急いで官吏を派遣し、手分けして郡県を平定させましょう。冤結を解いてやり、王先謙は言う。「結というのは、民衆に気のふさがりがあり、解消させられないことである。後文の枉結も同じ。」恵沢を敷くのです。」光武帝はそれを受け入れた。邯鄲に到達すると、馮異と銚期とを派遣して伝馬に乗せて属県を慰撫させた。(馮異らは)囚人たちを管理し、独身者を保護し、自首してきた亡命者の罪過を免除してやり、ひそかに二千石長吏を味方する者、味方しない者に分けて列挙し、それを上申した。

[一] 従の音は子用の反切(ショウ)。横の音は胡孟の反切(コウ)。

[二] 枯れはてたあとならば恩沢に潤うのもたやすい、という意味である。

王郎が蜂起したとき、光武帝はから東南に向かって突っ走り、朝晩あわただしくむだけで[一]饒陽無蔞亭までやってきた。[二]そのころ寒さの厳しい時期で、人々はみな飢え、疲れていた。馮異は(光武帝に)豆粥を献上した。翌朝、光武帝は諸将に言った。「昨日は公孫に豆粥をもらって、飢えも寒さもすっかり解けたよ。」南宮まで来たところで[三]暴風雨に遭遇したので、光武帝は道ばたの空き家に車を引き入れた。馮異が薪を抱え、鄧禹が火をいてくれたので、[四]光武帝はで着物をった。[五]馮異はこのときも麦飯と菟肩とを献上した。王先謙は言う。「『東観記』に言う。南宮まで来たところで王郎軍が迫りくると聞き、馮異は一膳の麦飯と兔肩を献上した。洪頤煊は言う。『(爾雅)釈草』に莃とは菟葵のこととある。郭注には、葵によく似ていて、藜のような葉の形で毛があり、飲み食いをなめらかにする、とある。また菺戎葵の注に、今の蜀葵のことで、葵に似ていて木槿のような華、とある。兔肩というのは葵の名で、ある本では菟肩と作る。」そこでふたたび虖沱河を渡り、信都に辿りついた。[六](光武帝は)馮異を派遣して河間の兵を回収させ、帰ってくると偏将軍に任命した。王郎撃破に従軍し、応侯に封ぜられた。[七]

[一] 舎とは、息を静めることである。

[二] 無蔞は亭名。今の饒陽県の東北にある。蔞の音は力于の反切(ル)。王先謙は言う。「『東観記』は無を蕪と作る。亭は今の深州饒陽県の東北にある。隋の置いた蕪蔞県は東北三十五里にあり、亭は県北の草蘆村にある。」

[三] 南宮は県名。信都国に属す。今の冀州県である。王先謙は言う。「今の冀州南宮県の西にある。」

[四] 〓の音は而悦の反切(ゼツ)。

[五] 燎とは、炙ることである。

[六] 『光武帝紀』に言う。虖沱河を渡って下博城の西まで来たところで、白衣の老父が「信都はここから八十里だ」というのに出くわした、と。これは北方から南進したということである。この伝では、まず南宮まで来たと言い、そのあと虖沱河を渡ったと言っている。南宮は虖沱河の南百里余りの場所にあるのだから、南方から北進したことになる。紀伝双方の文がまるっきり食い違っている。その地理を追ってみると紀が正しく、伝が間違っているのだ。諸家の史書はみな同様であるが、その理由はよく分からない。

[七] 応は国名。周の武王の子が封ぜられた場所である。杜預は『春秋』に注を付けて言う。「応国は襄城成父県の西南にある。」

馮異は誇りを持たず謙虚な人柄で、路上で諸将と出くわしたときも、そのつど車を退けて道を譲った。[一](軍の)進退には表識があり、[二]軍中ではよく統制が取れていると評判された。宿舎で休息するとき、いつも諸将たちはそろって手柄を言い立てて(自分が先に)座ろうとしたが、馮異はつねに一人だけ木陰で(雨露を)しのいだので、軍中では「大樹将軍」と呼ばれた。邯鄲が陥落したとき、諸将の再編成が行われ、それぞれに配隷(配下)が付けられることになった。[三]兵士たちはみな「大樹将軍の下に付けてください」と言ったので、光武帝はそのことから彼をますますんじた。[四]別働隊として北平鉄脛を撃破、[五]また匈奴于林闟頓王を降服させ、[六]それから河北平定に従軍した。

[一] 『東観記』『続漢書』に言う。「馮異は、敵軍と交戦するときを除いては、かならず諸将の後方を行くように、(諸将と)出くわしたときは車を退けて道を譲るようにと官吏や兵士たちに命じていた。こうしたことから、道を争って喧嘩をはじめる者は出なくなった。」

[二] その進退に一定の法則があることを言う。

[三] 隷とは、属すことである。『袁崧書』は言う。「以前では、諸将が同じ場所に布陣した場合、官吏兵卒が軍法を犯すことが多かった。」王先謙は言う。「官本の注では、崧書を山松と作る。」

[四] 多とは、重んじることである。

[五] 北平は県名。中山国に属し、故城は今の易州永楽県にある。王先謙は言う。「今の保定府満城県治である。」

[六] 匈奴の王号である。『山陽公載記』に言う。「頓」の字は「碓」と作る。前書『音義』に、闟の音は蹋(トウ)、頓の音は碓(タイ)とある。銭大昕は言う。「思うに頓と碓とは音が近い。『説文』には闟の字がないので、これは蹋の字の誤りであろう。『三国魏志』は蹋頓と作る。」恵棟は言う。「注のなかの記の下の曰の字は衍字。」

そのころ更始帝は舞陰王李軼廩丘王田立大司馬朱鮪白虎公陳僑に[一]公称三十万の軍勢を率いさせ、河南太守武勃とともに洛陽を固めさせていた。光武帝は北進して燕・趙を平定するつもりだったが、魏郡・河内だけが戦火に巻き込まれておらず、城郭も完全であり倉庫も充実していたので、寇恂を河内太守に任じ、馮異を孟津将軍とし、[二]両郡を統括して黄河のほとりに駐屯し、寇恂と協力して朱鮪らに対抗させることにした。

[一] 『東観記』は「僑」の字を「」と作る。

[二] 孟は地名である。古代から現代に至るまで津(渡し場)になっている。

馮異はそこで李軼に書状を送った。「聞くところによると、明鏡は姿形を映し、過去は現在を知らせるものだとか。[一]むかし微子を去ってに入国し、項伯に背いてに帰参しましたし、[二]周勃代王を迎えて少帝を廃し、霍光孝宣を尊んで昌邑を廃しました。[三]彼らはみな、天威を恐れて運命を知り、存亡の予兆を見て、興亡の事実を見たのです。だからこそうまく一代の成功を収め、万世の偉業を示すことができたのです。たとい長安に補佐する価値がまだあったとしても、長い年月にわたって、うとんじて親しまず、遠ざけて近づけないのであれば、季文どの、どうして片隅にいつづけることができましょう?[四]いま長安は混乱して赤眉が近郊まで迫り、王侯たちは困難に巻き込まれ、大臣たちは離叛し、綱紀はすっかり絶え果てており、[五]四方は分裂し、異姓の者どもが立ち上がっております。だからこそ蕭王(光武帝)は霜雪を踏み越えて河北を統治しているのです。いまや英俊たちは雲のごとく集まり、百姓どもは風のごとく靡いており、邠岐が周を慕ったのでさえ、これをえることはありません。[六]季文どの、よくよく得失を見極め、やかに大方針をご決定ください。古人の功績を思い返し、[七]災いを転じて福となすのは、このときなのです。猛将が長駆して武装兵が城を包囲してからでは、後悔しても及びませんぞ。」もともと李軼は光武帝とともに首謀者として計画を練り、互いに親愛していたのだが、更始帝が即位してからは一転、共謀して伯升を陥れるなどしていた。(そのため)長安が危ういと聞いて降服したいとは思っていても、まだ不安が拭いきれなかった。そこで馮異に返書を送った。「李軼はもともと蕭王とともに漢の復興計画を練り、死生の誓いを結び、苦楽への思いを共にしておりました。いま李軼が洛陽を守り、将軍が孟津を鎮め、ともに機軸を押さえております。[八]千載一遇の機会ですので断金を実現しようと思います。[九]とにかく蕭王には深くお伝えして愚策を説明していただき、国家を助けて人民を安んじられますよう。」書簡をやりとりするようになってから、李軼はもう馮異と矛を交えようとはしなくなった。そのおかげで馮異は北進して天井関を攻撃し、上党の二つの城を陥落させ、[一〇]さらに南進して河南の成皋以東の十三県を下し、諸所の軍勢をみな平定することができた。降服した者は十万余りにもなった。武勃が一万人余りを率いて裏切り者たちを攻めると、馮異は軍勢を率いて黄河を渡り、士郷の城下で武勃と戦い、[一一]大いに打ち破って武勃を斬り、首級五千余りを挙げた。李軼はやはり城門を閉ざしたまま救援しなかった。馮異は彼を信用できるとみて、つぶさに上奏した。光武帝はわざと李軼の書状を暴露して、[一二]朱鮪に知られるようにした。朱鮪は腹を立て、人をやって李軼を刺殺させた。こうしたことから城内はばらばらになり、降服する者が続出した。朱鮪は討難将軍蘇茂に数万人を授けてを攻撃させ、朱鮪自身も数万人を率いて平陰を攻撃、馮異にした。[一三]馮異は校尉・護軍将軍に軍勢を授け、劉攽は言う。「思うに馮異は孟津将軍であって、軍中には護軍がいた。ここで護軍将軍と言っているのは間違いである。以下に軍勢を率いるとの記述があることから、将軍の二字が衍字であることは明らか。」寇恂と合力して蘇茂を攻撃させ、これを打ち破った。王先謙は言う。「『寇恂伝』に詳しい。」馮異はそのあと黄河を渡って朱鮪を攻撃し、朱鮪を敗走させた。馮異は洛陽まで追撃し、城外をぐるりと一回りしてから引き揚げた。

[一] 『孔子家語』に言う。孔子は周明堂の四方の門の壁に堯・舜・桀・紂の像が描かれているのを見て、従者に告げた。「明鏡は姿形を見せるもの、往事は現在を知らせるものである。」

[二] 『史記』に言う。微子は名をといい、紂王の庶兄である。周の武王が紂を征伐したとき、微子は祭祀の道具を持ち出し、肌脱ぎになって(自分を)後ろ手に縛り、(武王の)軍門に出頭した。武王はその縛めを解いて元の爵位に戻してやった。項伯は名をといい、項籍項羽)の季父である。昔から張良と親しく、高祖劉邦)は張良と項伯とを婚姻関係を結ばせた。項籍が漢王(劉邦)を殺害せんと企てたとき、項伯は身をもって彼を守った。項籍が誅殺されたのち、漢に帰服した。

[三] 少帝は孝恵帝劉盈)の宮女が生んだ子で、名をという。恵帝(孝恵帝)が崩御したとき、周勃は劉弘が恵帝の子ではなことから、彼を廃して代王(劉恒)を擁立した。昭帝劉弗)が崩御したとき、跡継ぎがいなかったので、霍光は武帝劉徹)の孫にあたる昌邑王劉賀を擁立したが、劉賀は不道徳であったので、霍光は彼を廃して宣帝劉詢)を擁立した。

[四] 長安とは更始帝を指す。季文は李軼の字である。李軼は更始帝と疎遠であるのに、一人で片隅にいるのは理屈からいっても長く続けられるはずがないのだから、早めに去就を定めるよう考えさせた、と言っているのである。顧炎武は言う。「季文は更始帝にとって親近の臣下なのだから、朝廷にあって政権を握るべきなのに、どうしてこんな片隅にいてよいものか、と言っているのである。注ではその趣旨を反対に取って疎遠であったとしているが、間違いである。」何焯は言う。「片隅とは河北のことをいう。」

[五] そのころ更始帝の大臣である張卬・申屠建・隗囂らは、赤眉が関所から侵入してきたので、更始帝を拘束して南陽へ帰ろうと計画していた。これが大臣が離叛したということである。

[六] 『史記』に言う。古公亶父后稷の事業にならって徳義を実践したので、国民はみな彼を仰ぎ慕った。戎翟匈奴)が攻め込んでくると、人民を戦わせることは忍びなく、そこで自分の家族とともにへと立ち去り、岐山のふもとで宿泊した。邠の人々は国中から老人や子供を連れてきて、一人残らず、岐山のふもとでまた古公に帰依した。王先謙は言う。「官本は踰を喩(比肩する)と作るが、いずれにしても言葉は通じる。」

[七] とは、急ぐことである。古人とは、微子・項伯らを指す。

[八] 機とは、弩の引き金である。軸とは、車の軸である。どちらも器物の要なので、こうして喩えに聖(取)っているのである。王先謙は言う。「注の聖は誤り。官本が取と作るのが正しい。」

[九] 『s』に言う。「二人が心を一つにすれば、その鋭さは金をも断ち切る。」

[一〇] 天井関は■太行山のふもとにある。解は『章帝紀』に見える。沈欽韓は言う。「『紀要』にいう。天井関は沢州の南四十五里にあり、太行山の絶頂にあたり、その南麓はつづら折りの坂道になっている。」

[一一] 『続漢書』に言う。士郷は亭名。河南郡に属す。恵棟は言う。「『郡国志』に、河南雒陽県に士郷聚があり、馮異が武勃を斬った場所、とある。注が亭名としているのは誤り。」沈欽韓は言う。「『紀要』に、士郷聚は故洛城の東にあるという。(故洛陽城は河南府の東北二十里にある。)」

[一二] 『東観記』に言う。「上は馮異に答えて言った。『李軼はごまかしが多くて信義がなく、他人には自分の首根っこを取らせない。今、彼の書状を配ることにしよう。』」王先謙は言う。「官本の注では、今を令(…させる)と作る。」

[一三] 平陰は県名。河南郡に属す。綴とは連なることをいう。沈欽韓は言う。「『紀要』に、平陰は河南府孟津県の東一里にあるという。」

檄文を飛ばして状況を報告すると、諸将はみな入朝して祝賀を挙げるとともに、帝位に即くべしと光武帝に勧めた。光武帝はそこで馮異を召し寄せてへ参らせ、四方の動静を訊ねた。馮異は言った。「三王の離叛のために更始帝は滅亡し、[一]天下には君主なき有様。宗廟の憂いは大王次第なのです。上は社稷のため、下は百姓のため、なにとぞ衆議をお聞き届けくだされ。」光武帝は言った。「わたしは昨夜、赤き龍にまたがって天に昇る夢を見た。恵棟は言う。「周宣の『夢書』に言う。むかし聖明なる皇帝の時代、神々しい気がありありと現れた。それゆえ堯は龍にまたがって天に昇る夢、舜は故天上の太鼓を撃つ夢を見た。のちにはみな天下を領有したのである。」目が覚めたあとも心臓の高鳴りが止まらなかったのだが。」馮異はさっと席からすべり降り、祝賀の礼を二度挙げて言った。「これこそ天命が精神において発現したもの。[二]心臓の高鳴りは大王の慎重さの現れです。」馮異はそこで諸将とともに尊号を奉るべく議論を固めた。

[一] 三王とは張卬淮陽王廖湛穣王胡殷随王であったことを指す。更始帝が張卬らを殺そうとしたので、(張卬らは)手勢を率いて東西の市場で略奪を働き、宮中へ突入して戦うと更始帝は大敗した。王先謙は言う。「『考異』の言うには、馮異は李軼に書状を送って『王侯たちは困難に巻き込まれ、大臣たちは離叛しております』と言い、尊号を称するよう勧めたときにはまた『三王の離叛のために更始帝は滅亡しました』と言っている。調べてみると、この年の六月に光武帝が即位し、そのあとで鄧禹が王匡を撃破、王匡は張卬らとともに長安に逃れ、そこで初めて更始帝を拘束する計画を立てたのである。そうすると、三王の離叛は光武帝の即位以後、夏から秋にかけてということになる。馮異はどうしてまだ四月のうちにそのことに言及することができよう。おそらくその発言を史家が潤色したものであろうが、食い違いはここまでひどくなっているのだ。」

[二] 『周易』乾卦九五に言う。「飛龍が天にあるとき、大人が到来する。」『荘子』(?)に言う。「その夢に精神は交わる。」天命が精神において発現したものと言うのはそのためである。恵棟は言う。「『袁宏紀』を調べてみると、天命を天帝の命と作っている。」

建武二年(二六)春、馮異は改めて陽夏侯に封ぜられた。[一]率いて陽翟の賊厳終・趙根を攻撃し、劉攽は言う。「文章を考えるに、軍の一字が少ないのである。ほかの伝では『軍勢を率いる』と述べていることが非常に多い。」これを打ち破った。詔勅により馮異を実家に帰して墓参りをさせた。太中大夫に命じて牛酒を届けさせ、[二]二百里以内の太守・都尉以下および宗族らに命じてここに集合させた。恵棟は言う。「『東観記』にいう。同時に、潁川太守・都尉および三百里以内の長吏をみな集めさせ、太中大夫に牛酒を届けさせ、宗族には郡県に集めて費用を支給した。」

[一] 夏の音は賈(カ)。恵棟は言う。「前漢では淮陽に属し、後漢では陳国に属した。」王先謙は言う。「今の陳州府太康県治である。」

[二] 『続漢志』に言う。「太中大夫は俸禄千石、顧問として議論するのが職掌で、光禄(勲)に属した。」

そのころ赤眉・延岑らが三輔を荒らし回り、郡県の大姓どもがそれぞれに軍勢を抱えていた。大司徒鄧禹では平定させられず、馮異がその後任として討伐に派遣された。(光武帝の)御車が河南まで見送りに出て、乗輿と七尺の具剣を賜った。[一]馮異に勅命が下された。「三輔では王莽・更始の戦乱に遭い、赤眉・延岑の残虐が重なって、元元(民衆)は塗炭の苦しみを味わい、頼りになる相手もなかった。こたびの征伐では土地を切り取り、城を屠ることはない。必要なのはただ彼らを平定し、安住させることだけだ。諸将の健闘を期待していないわけではないが、ただ略奪を好みすぎるのが問題だ。卿はかねてより官吏兵士の統御に長けておるが、自分自身への修勅を心掛け、恵棟は言う。「『東観記』では修整と作る。」郡県に苦しめられることのないように。」馮異は頓首して命令を授かり、(手勢を)率いて西進したが、至るところで威信が行き届いた。将軍を自称していた弘農の羣盗たち十人余りは、みな人数を率いて馮異に投降した。[二]

[一] 具とは宝玉で装飾することを言う。『東観記』では「玉具剣」と作る。

[二] 『東観記』に言う。「黽池霍郎王長濁恵華陰陽沈などの将軍を自称していた者たちは、みな降服した。」恵棟は言う。「王は主とも作られるが間違いである。王長は陝の人である。孫愐は言う。濁は姓である。『漢書』貨殖伝に、濁氏は胃脯によって騎馬を連ねた、とある。(濁の音は)直角の反切(タク)。」王先謙は言う。「官本は主長と作っている。」

馮異は華陰で赤眉と遭遇して王先謙は言う。「今の同州府華陰県治である。」六十日余りも対峙し、数十回にわたる戦闘のすえ敵将劉始・王宣以下、[一]五千人余りを降服させた。三年春、使者を派遣して馮異を征西大将軍に任命した。ちょうど鄧禹が車騎将軍鄧弘らを伴って引き揚げてくるのに馮異は出くわし、鄧禹・鄧弘は一緒に赤眉を攻撃しようと馮異に要求した。恵棟は言う。「王幼学は言う。要は去声、約束することである。陳氏は言う。要は平声、やはり約束することと解す。『論語』に、久しく要す、とあるのがそれである。」馮異は言った。「馮異は数十日近く賊軍と対峙して参りまして、何度か勇将を捕らえはいたしましたが、残りの軍勢もまだまだ多数です。少しづつ恩愛信義によって誘降すべきです。軍を動かしても簡単に打ち破ることはできませんぞ。上はただいま諸将に命じて黽池に屯させ、彼らの東方で待ち伏せさせておいでです。馮異が彼らの西方を攻撃し、一挙に攻略いたします。これこそが万全の計略でしょう。」鄧禹・鄧弘は聞き入れなかった。鄧弘がこうして連日盛大に戦ったところ、赤眉は敗北をり、恵棟は言う。「『東観記』では佯敗と作る。陽と佯は通用する。」輜重車を棄てて逃走した。輜重車にはそれぞれ土砂を積み上げ、その上を豆で覆い隠してあった。兵士たちは食に飢えていたので、先を争ってそれを奪い合った。赤眉が引き返してきて鄧弘を攻撃すると、鄧弘軍は大混乱に陥った。馮異が鄧禹と合流して救援に駆けつけたので、赤眉は少しだけ引き下がった。馮異は士卒らが飢えて疲れているので、しばし休息を取るべきだと主張したが、鄧禹は聞き入れず、またも戦いを挑んで大敗北を喫し、死傷者は三千人余りに上った。鄧禹はようよう脱出して宜陽へ帰っていった。馮異は馬を棄てて徒歩で逃げ、回谿阪に登り、[二]麾下数人とともに陣営に戻った。ふたたび塁壁を固めて敗残兵を拾い上げ、諸陣営から数万人を呼び集め、賊軍と掛けあって期日を決めて会戦することにした。勇者を選んで赤眉と同じ服に着替えさせ、道路脇に伏せさせておいた。翌日、赤眉が一万人を出して馮異の先陣を攻撃してくると、馮異はかに兵を出して救援させた。[三]賊徒どもは(馮異の)軍勢が少ないのを見て、ついに全軍をこぞって馮異を攻撃してきた。馮異はそこで全軍を投入して盛大に戦った。正午を過ぎて賊軍の士気が衰えてきたところへ、伏兵がどっと立ち上がると、衣服が似ているため赤眉らはもう見分けが付かず、人々は驚いて潰走した。(馮異は)追撃して、崤底で大破、恵棟は言う。「『続志』にいう。黽池には二つの崤山がある。崤の音は豪(ゴウ)、または戸交の反切(コウ)。」沈欽韓は言う。「文章を検討するに、破の下に『之』(彼らを)の一字が少ない。『紀要』に、崤底は永寧県の西北七十里にあるという。」男女八万人を降服させた。残りの軍勢はまだ十万余りもいたが、東方へ逃れて宜陽で降服した。璽書により馮異を労った。王補は言う。「降の上に『帝』(帝に)の字があるべき。」「赤眉を鎮定できたのは、兵士官吏の苦労のおかげであった。最初は回谿で翼をたたむことになったが、最後には黽池で翼を広げることができた。[四]東隅で失敗して桑楡で成功したと言えよう。[五]いま功績を評価して恩賞を下し、大勲に報いたいと思う。」

[一] 『東観記』は「宣」を「」と作る。

[二] 回谿は、現在、回阬と俗称されているもので、今の洛州永寧県の東北にある。その谷の長さは四里、幅は二丈、深さは二丈五尺である。沈欽韓は言う。「『紀要』に、回渓は河南府永寧県の北六十里にあるという。」

[三] 裁かに兵を小出しにしたのは、弱さを見せるためである。

[四] 鳥に喩えているのである。

[五] 『淮南子』に言う。「(太陽が)衡陽に到達することを隅中と言う。」また前書(『漢書』)に谷子雲谷永)は言う。「太白は西方を出てから六十日で、天球の三分の一を運行いたします。今はもう時期を過ぎましたが、まだ桑楡の時間に当たっております。」桑楡とは日暮れを言うのである。恵棟は言う。「『御覧』に引く『淮南子』に言う。太陽が衡陽に至ることを禺中と言い、太陽が西に落ちてその影が樹端にあることを桑楡と言う。許慎は言う。その光が桑や楡の樹上にあることを言う。東隅とは禺中のことである。隅と禺は古くは通用した。」

このとき赤眉はすでに降服していたものの、幾多の賊徒どもはまだまだ盛んであった。延岑は藍田を根拠とし、王歆下邽に、[一]芳丹新豊に、[二]蔣震霸陵に、[三]張邯は長安に、公孫守長陵に、楊周谷口に、[四]呂鮪陳倉に、角閎に、恵棟は言う。「孫愐の言うには、角は姓である。漢に角善叔があった。」駱蓋延盩厔に、恵棟は言う。「『通鑑』では蓋の字はない。」任良に、汝章槐里に居すわり、『通鑑』胡注にいう。汝は姓である。商に汝鳩・汝房があり、春秋に汝斉・汝寛があり、後漢に汝郁があった。おのおのが将軍を称し、多い者では一万余り、少ない者でも数千人の軍勢を抱え、互いが互いを攻撃しあっていた。馮異は戦いつつ進みつつ、上林苑内に軍勢を屯させた。延岑は赤眉を打ち破ったあと武安王を自称し、牧守州牧・太守)を任命して関中に居すわろうとし、張邯・任良を率いて一斉に馮異を攻撃してきた。馮異はそれを撃破し、一千余りの首級を斬った。諸所に楯籠って延岑に荷担していた者たちもみな馮異のもとへ投降してきた。延岑が逃走してを攻撃しようとしたので、[五]馮異は復漢将軍鄧曄輔漢将軍于匡を出して延岑を待ち伏せし、さんざんに打ち破り、その将蘇臣以下、八千人余りを降服させた。延岑はついに武関から南陽へと逃走した。沈欽韓は言う。「『紀要』に、武関は商州の東北八十里にあり、鄧州内郷と境界を接している、という。」そのころ百姓たちは飢えに苦しみ、人と人とが食らい合うほどで、黄金一斤でもって豆五升が取り引きされた。王補は言う。「『袁紀』では食糧五斗と作る。」道路は断絶して輸送が通らず、兵士たちはみな木の実を食糧に充てていた。詔勅を下して南陽の趙匡右扶風に任命し、軍兵を率いて馮異を支援し、同時に絹や食糧を搬送させた。軍中ではみな万歳を唱えた。馮異は軍糧が少しづつ充実してきたので、命令に楯突く豪傑どもを片っ端から討伐し、降服して功労を立てた者には褒美を取らせ、その渠帥は残らず京師に参詣させ、軍勢は解体して本業に帰らせた。威信は関中に知れ渡った。ただ呂鮪・張邯・蔣震だけは使者を遣して(の公孫述)に降ったが、残りはことごとく平定された。

[一] 武公のえびすを討伐するためこの地に着陣している。隴西上邽があるので、ここでは下を冠しているのである。

[二] 『続漢書』では「芳」を「」と作る。恵棟は言う。「孫愐の言うには、芳は姓である。『風俗通』に、漢に幽州刺史芳乗あり、という。」

[三] 霸陵は文帝劉恒)の陵墓のことで、それが県名となっている。かつての秦の芒陽県である。王先謙は言う。「芒とするのは芷の誤り。」

[四] 谷口は県名。左馮翊に属す。故城は今の醴泉県の東北にある。

[五] 析は県名。楚の白羽邑にあたる。今の鄧州内郷県である。

明年,公孫述遣将程焉,恵棟曰:「依公孫述伝及華陽国志,当作烏.」将数万人就呂鮪出屯陳倉.異与趙匡迎撃,大破之,焉退走漢川.異追戦於箕谷,沈欽韓曰:「紀要,箕谷在鳳翔府宝鶏県東南四十里.谷口有石如門,曰石門,広二歩深八歩高一丈,相伝蜀五丁所開.漢高通之,以避子午之険.」復破之,還撃破呂鮪,営保降者甚衆.其後蜀復数遣将間出,異輒摧挫之.[一]懐来百姓,申理枉結,出入三歳,上林成都.[二]

[一] 賈逵注国語曰:「折其鋒曰挫.」

[二] 成都,言帰附之多也.史記曰:「一年成邑,三年成都.」

異自以久在外,不自安,上書思慕闕廷,願親帷幄,帝不許.後人有章言異専制関中,斬長安令,威権至重,百姓帰心,号為「咸陽王」.帝使以章示異.[一]異惶懼,上書謝曰:「臣本諸生,遭遇受命之会,充備行伍,過蒙恩私,位大将,爵通侯,[二]受任方面,以立微功,[三]皆自国家謀慮,愚臣無所能及.臣伏自思惟:以詔勅戦攻,毎輒如意;時以私心断決,未嘗不有悔.国家独見之明,久而益遠,乃知『性与天道,不可得而聞也』.[四]当兵革始起,擾攘之時,豪傑競逐,[五]迷惑于数.先謙曰:「官本于作千是.」臣以遭遇,託身聖明,在傾危溷殽之中,尚不敢過差,而況天下平定,上尊下卑,而臣爵位所蒙,巍巍不測乎?誠冀以謹勅,遂自終始.見所示臣章,戦慄怖懼.伏念明主知臣愚性,固敢因縁自陳.」詔報曰:「将軍之於国家,義為君臣,恩猶父子.何嫌何疑,而有懼意?」

[一] 東観記曰:「使者宋嵩西上,因以章示異.」

[二] 通侯即徹侯,避武帝諱改焉.

[三] 謂西方一面専以委之.

[四] 論語子貢曰:「夫子之文章,可得而聞也.夫子之言性与天道,不可得而聞.」恵棟曰:「薛瑩後漢書光武賛曰:古者師不内御,而光武命将,皆授以方略,使奉図而進,其違失,無不折傷.豈文史之過乎!不然,雖聖人其猶病諸.」王補曰:「薛賛,見芸文類聚帝王部引.補案,師不内御,薛瑩所疑,未為失也.然観諸将伝所載,世祖廟算之勝,与馮異謝書云云.知当日誠有然者,非誣也.願安得神武如世祖者,以再遘盛治乎!」先謙曰:「官本無注.」

[五] 逐,争也.

六年春,異朝京師.引見,帝謂公卿曰:「是我起兵時主簿也.為吾披荊棘,定関中.」[一]既罷,使中黄門賜以珍宝・衣服・銭帛.詔曰:「倉卒無蔞亭豆粥,虖沱河麦飯,厚意久不報.」王補曰:「袁紀,少末句.」異稽首謝曰:「臣聞管仲謂桓公曰:『願君無忘射鉤,臣無忘檻車.』斉国頼之.[二]臣今亦願国家無忘河北之難,小臣不敢忘巾車之恩.」[三]後数引讌見,定議図蜀,留十余日,令異妻子随異還西.

[一] 荊棘,榛梗之謂,以喩紛乱.

[二] 史記曰,管仲将兵遮莒道,射桓公中鉤.後魯桎梏管仲而送於斉,斉以為相.説苑曰:「管仲桎梏檻車中,非無媿也,自裁也.」新序曰,斉桓公与管仲飲,酒酣,管仲上寿曰:「願君無忘出奔於莒也,臣亦無忘束縛於魯也.」此云射鉤・檻車,義亦通.

[三] 謂光武獲異於巾車而赦之.王補曰:「先儒謂:三代以下君臣交尽其美,惟東漢為最盛.范史於諸将各存其略於馬武綜紀其槩三復恩礼意者其掲此以示帝鑑之先務乎.吾独於馮異伝而深慨焉伝称人有言異専制関中者帝即以章示異.異謝曰:託身聖明在傾危溷殽之中,尚不敢過差.況天下平定,上尊下卑,誠冀以謹勅,遂自始終,詔報曰:将軍之於国家,義為君臣,恩猶父子.何嫌何疑,而有懼意.由是観之,異不以被謗而匿誠於帝,帝不以聞譖而衰愛於異.坦然昭明略無繊介仮而蕭何・周勃・劉基幸遇斯時則利賈人之金,不待申雪於衛尉,持兵見守太后可無冒絮之提.胡惟庸亦何敢挟医視病以售其奸哉.昔魏文侯示楽羊子,以謗書.唐太宗斥論房元齢者於嶺表,後世頌之.然方之豆粥麦飯之見労,河北巾車之相勉,上下交儆如聞咈兪蓋有誠偽之別焉顧独失之於馬援.則千古之遺憾也.」

夏,遣諸将上隴,為隗囂所敗,乃詔異軍栒邑.未至,隗囂乗勝使其将王元・行巡将二万余人下隴,因分遣巡取栒邑.異即馳兵,欲先拠之.諸将皆曰:「虜兵盛而新乗勝,不可与争.宜止軍便地,徐思方略.」異曰:「虜兵臨境,忸忕小利,[一]遂欲深入.若得栒邑,三輔動揺,是吾憂也.夫『攻者不足,守者有余』.[二]今先拠城,以逸待労,非所以争也.」潜往閉城,偃旗鼓.行巡不知,馳赴之.異乗其不意,卒撃鼓建旗而出.巡軍驚乱奔走,追撃数十里,大破之.祭遵亦破王元於汧.於是北地諸豪長耿定等,悉畔隗囂降.異上書言状,不敢自伐.[三]諸将或欲分其功,帝患之.乃下璽書曰:「制詔恵棟曰:「独断云,制書帝者制度之命也.其文曰:制詔三公凡制書有印使符下遠近皆璽封尚書令印重封.」大司馬,虎牙・建威・漢中・捕虜・武威将軍:虜兵猥下,三輔驚恐.[四]栒邑危亡,在於旦夕.王補曰:「袁紀多出,諸将狐疑,莫有先発,将軍独決奇算,摧敵殄寇四語.」北地営保,按兵観望.今偏城獲全,虜兵挫折,使耿定之属,復念君臣之義.征西功若丘山,猶自以為不足.孟之反奔而殿,亦何異哉?[五]今遣太中大夫賜征西吏士死傷者医薬・棺斂,大司馬已下親弔死問疾,以崇謙譲.」於是使異進軍義渠,幷領北地太守事.[六]

[一] 忸忕猶慣習也,謂慣習前事而復為之.爾雅曰:「忸,復也.」郭景純曰:「謂慣忕復為之也.」忸音尼丑反.忕音逝.恵棟曰:「王幼学云:左伝,一夫不可狃,注狃女九反,亦忕也.忕習也.張揖雑志云,忕音曳,云忸忕過度.」周寿昌曰:「忸猶狃也.忸忕之忕,亦応从犬,不从大.左伝,莫敖忸於蒲騒之役.杜注,狃〓也.足徴忸狃,亦古字通.」

[二] 孫子兵法之文.

[三] 孔安国注尚書曰:「自矜曰伐.」

[四] 大司馬,呉漢也.虎牙,蓋延也.建威,耿弇也.漢忠,王常也.捕虜,馬武也.武威,劉尚也.広雅曰:「猥,衆也.」劉攽曰:「案王常伝,中当作忠.」恵棟曰:「案漢呂君碑,以中勇顕名.古忠字亦作中也.」先謙曰:「忠中非,不可通.仮然定作忠為是.若引碑文借字為言後将無所適従矣.」

[五] 孟之反,魯大夫.魯与斉戦,魯師敗,之反殿,是其功也.将入魯門,乃策其馬曰:「吾非敢後,馬不進.」是謙而不自伐也.

[六] 義渠,県名,属北地郡.沈欽韓曰:「在慶陽府寧州西北.」

青山胡率万余人降異.[一]異又撃盧芳将賈覧・匈奴薁鞬日逐王,破之.[二]上郡・安定皆降,異復領安定太守事.九年春,祭遵卒,詔異守征虜将軍,幷将其営.及隗囂死,其将王元・周宗等復立囂子純,猶総兵拠冀,公孫述遣将趙匡等救之,洪亮吉曰:「此別一趙匡.」帝復令異行天水太守事.攻匡等且一年,皆斬之.[三]諸将共攻冀,不能抜,欲且還休兵,恵棟曰:「休猶弛也.鄭康成云:弛釈下之,若今休兵鼓之属,是也.」異固持不動,常為衆軍鋒.

[一] 青山在北地参巒界,青山中水所出也.続漢書曰:「安定属国人,本属国降胡也.居参巒青山中,其豪帥号肥頭小卿.」劉攽曰:「注参巒,案地理志,巒当作〓.」

[二] 薁音於六反.

[三] 東観記曰:「時賜馮異璽書曰:『聞吏士精鋭,水火不避,購賞之賜,必不令将軍負丹青,失断金.』」

明年夏,与諸将攻落門,未抜,[一]病発,薨于軍,諡曰節侯.

[一] 落門,聚名,在冀県,有落門山.

長子彰嗣.沈欽韓曰:「水経注作璋.」明年,帝思異功,復封彰弟訢為析郷侯.十三年,更封彰東緡侯,食三県.[一]永平中,徙封平郷侯.[二]彰卒,子普嗣,有罪,国除.[三]

[一] 東観記曰,東緡,県名,属山陽郡.左伝曰「斉侯伐宋,囲緡」,即此地也.在今兗州金郷県.沈欽韓曰:「今金郷県東北二十里.」

[二] 東観記曰:「永平五年,封平郷侯,食鬱林潭中.」

[三] 東観記曰:「坐闘殺游徼,会赦,国除.」

永初六年,安帝下詔曰:「夫仁不遺親,義不忘労,興滅継絶,善善及子孫,古之典也.[一]昔我光武受命中興,恢弘聖緒,横被四表,昭仮上下,[二]光耀万世,祉祚流衍,垂於罔極.予末小子,夙夜永思,追惟勲烈,披図案籍,建武元功二十八将,佐命虎臣,讖記有徴.蓋蕭・曹紹封,伝継於今;[三]況此未遠,而或至乏祀,朕甚愍之.其条二十八将無嗣絶世,若犯罪奪国,其子孫応当統後者,分別署状上.恵棟曰:「状功状也.東観記曰,詔書令功臣家各自記功状,不得自増加,以変時事.或自道先祖形貌表相,無益事実.復曰:歯長一寸,龍顔虎口,奇毛異骨,形容極変,亦非詔書之所知也.」将及景風,章叙旧徳,顕茲遺功焉.」[四]於是紹封普子晨為平郷侯.明年,二十八将絶国者,皆紹封焉.

[一] 論語曰:「興滅国,継絶世.」公羊伝曰:「善善及子孫,悪悪止其身.」

[二] 昭,明也.仮,至也.上下,天地.仮音格.銭大昕曰:「横被,即書光被也.漢書王莽伝,昔唐堯横被四表無以加之.王裦伝,化溢四表横被無窮.班固西都賦亦云,横被六合.蓋堯典光被字,漢儒伝授本作横矣.釈言桄熲充也.桄即横字,古文灮為〓,与黄相似.故横或為桄.孔伝出于魏晋之間,堯典横已作光,而訓光為充,猶存古義.後世因作光煇,解失漢儒之本旨矣.」先謙曰:「尚書,光被四表,格于上下,今古文同,今文一作横被,一作広被,格一作仮.詳余所著孔伝参正.」

[三] 和帝永元三年,詔紹封蕭・曹之後,以彰厥功也.

[四] 春秋考異郵曰:「夏至四十五日景風至.」宋均注曰「景風至則封有功」也.