三国志モバイル人物伝

黄蓋Huang Gai

コウガイ
(クワウガイ)

(?〜?)
漢偏将軍・武陵太守

字は公覆。零陵郡泉陵の人。

黄蓋は幼くして父を失い、艱難辛苦をなめ尽くしたが、勇壮な大志を抱き、貧しいからといって凡庸な人々に同調しようとはしなかった。薪取りのあいまにも書を学び、おおまかに軍事を研究した。郡役人となって孝廉に推挙され、三公の役所に招かれた。

孫堅が義兵を起こすと黄蓋は彼に付き従い、孫堅が南進して山賊を撃破し、北進して董卓を敗走させると、黄蓋は別部司馬に任命された。孫堅が薨じると、黄蓋は孫策および孫権に付き従った。甲冑を身にまとって駆け回り、白刃を踏み越え城をほふった。

山越どもは無礼な態度を取っていたが、侵害を受けている県があれば、いつも黄蓋が用いられて県長になった。石城県の役人は(好き勝手なことをしており)検察・制御するのが特に困難であった。そこで黄蓋は二人の掾を任命して、諸曹(各部署)を分割して担当させ、命令書を与えて「令長(ちじ)は不徳であり、ただ武功によって官職に就いたが、文官として評価されたことがない。いま賊徒は平定されていないため(わたしには)軍務がある。そこで命令書を発行して二人の掾に検察を担当させるのである。もし不正行為があれば鞭打ちや棒叩きでは済まさないぞ」と言い渡していた。

はじめはみな威風を恐れ、朝も夕も慎み深く職務にあたっていたが、しばらくすると、黄蓋が文書に目を通していなかったので、次第しだいに私事に寛容になってしまった。黄蓋は職務怠慢の様子が現れてきたのを憎み、二人の掾が法律をないがしろにしているいくつかの事実を知った。そこで役人たちを全て集めて酒食を賜り、そのとき事実を示して詰問すると、二人の掾は土下座して謝罪した。黄蓋は「以前、鞭打ちや棒叩きでは済まさないと言ったはずだ」と言って彼らを死刑にした。県内の人々は震えおののいた。

のちに春穀県長・尋陽県令などに昇進し、およそ九つの県を守護したが、至るところで平定された。丹陽都尉に転任すると、強い者を押さえて弱い者を助けたので、山越どもも彼に懐いて帰属した。黄蓋の姿形は厳格・豪毅であったが、民衆をよくよく養育し、征討することになると、士卒たちはみな先を争って戦った。

建安年間(一九六〜二二〇)、周瑜に随従して赤壁で曹操を防いだとき、黄蓋は火攻めすることを進言した。この戦役で黄蓋は流れ矢にあたって川に落ちた。呉軍の兵士が彼を拾い上げたが、それを黄蓋であるとは知らず廁の中にほうって置いた。当時は寒い季節だったが、黄蓋は自分を励まして一声出して韓当を呼んだ。韓当はそれを聞いて「あれは公覆(黄蓋)の声だ」と言い、彼を見付けると涙を流しながら彼の衣服を取り替えた。こうして黄蓋は一命を取りとめた。

黄蓋は武鋒中郎将に任じられる。武陵蛮が反乱を起こし、城邑を攻め落としてそこに楯籠ったので、黄蓋は武陵太守を領することになった。当時、郡兵は五百人しかおらず、黄蓋は敵対することはできないと考えて城門を開き、賊徒が半分入ったところで攻撃し、数百人の首を斬った。敵は全員逃走して部落に帰って行った。黄蓋は首魁だけを誅殺し、彼らに従っていただけの者は赦免した。春から夏にかけて反乱者はことごとく平定された。辺境の巴・醴・由・誕などの酋長たちは、みな態度を変え、うやうやしく拝謁を求めてきた。郡境はこうして清らかになった。

のちに長沙郡益陽県が山賊に攻められると、黄蓋はまたもや征討して平定した。偏将軍の官職を加えられたが、在官のまま病卒した。黄蓋は職務にあたって、案件を決断して滞らせることはなかった。国の人々は彼を思慕し、黄蓋の姿を絵に描いて、季節ごとに祭祀を行った。孫権は践祚すると、黄蓋の功績をさかのぼって論功行賞し、彼の子黄柄に関内侯の爵位を賜った。

【参照】韓当 / 黄柄 / 周瑜 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 董卓 / 益陽県 / 呉 / 春穀県 / 尋陽県 / 石城県 / 赤壁 / 泉陵県 / 澹水(誕) / 丹楊郡(丹陽郡) / 長沙郡 / 巴陵(巴) / 武陵郡 / 油水(由) / 零陵郡 / 醴陵(醴) / 掾 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 三公 / 太守 / 都尉 / 武鋒中郎将 / 別部司馬 / 偏将軍 / 山越 / 曹 / 武陵蛮 / 府(役所) / 領

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