三国志モバイル人物伝

程喜Cheng Xi

テイキ

(?〜?)
魏征北将軍

字は申伯《杜畿伝》。

太和六年(二三二)、田予が汝南太守の任務を担当したまま督青州になると、青州刺史程喜はそれを不満に思い、軍事行動を起こすときも意見の食い違いが多かった。そこで密かに上奏して「田予は多くの兵器・真珠・黄金を戦利品としましたが、放棄してしまって官府に納めておりません」と告げたので、もともと真珠を愛好していた明帝曹叡は、田予の功績を取り上げなくなった《田予伝》。

北海郡の隠者管寧は文帝曹丕・明帝曹叡から相継いで招聘されていたが、固辞して応じようとしなかった。曹叡は程喜に詔勅を下して管寧を出仕させるよう命じ、そのなかで「管寧は自分を尊大に思っているのか」と訊ねた。程喜は言上して「臣(わたし)が彼の気持ちを推し量ると、一人暮らしを長く続け、年老いて智慧も衰えたので、隠棲して慎み深い態度を取っているのでしょう。自分を尊大に思っているわけではないと存じます」と弁護している《管寧伝》。

のちに征北将軍に昇進して薊に駐屯した。杜恕が幽州刺史になったとき、尚書袁侃は杜恕に忠告している。「程申伯は先帝(曹叡)の御代、青州で田国譲(田予)を陥れたことがある。足下(あなた)は彼と一緒に一つの城に入るのだから、よくよく気を付けて彼を待遇すべきだぞ」。しかし杜恕は程喜に取り入ろうとしなかった。司馬の宋権は程喜の意を受けて杜恕に手紙を出したが、杜恕は厳しく突っぱねた《杜畿伝》。

嘉平元年(二四九)、鮮卑族の長老の子息が幽州の役所へ直接参上し、規定通りに関所を通らなかった事件があり、刺史杜恕はそれを上奏することなく、彼が連れてきた子供一人を斬刑に処した。そこで程喜が彼を弾劾し、杜恕は庶民に下された《杜畿伝》。

かつて朱建平に人相を見てもらったことがあるが、適中しなかったという《朱建平伝》。

【参照】袁侃 / 管寧 / 朱建平 / 宋権 / 曹叡 / 曹丕 / 田予 / 杜恕 / 薊県 / 汝南郡 / 青州 / 北海郡 / 幽州 / 刺史 / 司馬 / 尚書 / 征北将軍 / 太守 / 都督(督) / 鮮卑族 / 相術(人相見)

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