チョウチョウ |
(?〜195) |
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東平国寿張の人。張[バク]の弟《呂布伝》。河間郡の張超とは別人である。 中平年間(一八四〜一八九)末期、張超は広陵太守となり、臧洪を召し出して功曹に任じた。当時、董卓が少帝劉弁を弘農王に降位して殺害し、政治の実権を握っていた。そこで臧洪は張超に進言した。「明府(ちじ)は代々ご恩を受け、兄弟そろって大郡の太守になられました。いま王室は危険に遭遇し、まだ賊臣の首は晒されておりません。これは真に天下の義士烈士がご恩に報いて命を投げ出すときなのです。いま郡境はなお完全であり、官吏人民は富み栄えておりますから、もし太鼓を叩けば二万人を集めることができましょう。これこそ国賊を誅殺して天下のために率先する義挙の偉大なものであります」《臧洪伝》。 張超は袁綏に広陵郡の事務を取り仕切らせ《陸瑁伝》、臧洪とともに西方に行って陳留太守の兄張[バク]と計画を練った《臧洪伝》。初平元年(一九〇)、酸棗において張[バク]・[エン]州刺史劉岱・予州刺史孔[イ由]・東郡太守橋瑁らと盟約を結んだ《臧洪伝》。のちに臧洪を大司馬劉虞のもとに派遣して、彼を天子に推戴する計画を練らせた《臧洪伝》。 興平元年(一九四)、[エン]州牧曹操は徐州に出兵して陶謙を討伐した。張超は曹操の将軍陳宮・従事中郎許[シ巳]・同王楷とともに曹操に対して叛逆を企てた。陳宮は張[バク]を説得して、曹操が国許を空けているすきに呂布を迎え入れるべきだと言った。張[バク]が呂布を推戴して[エン]州牧とすると、諸郡県はみな呼応した《呂布伝》。 翌二年春、曹操が定陶を攻撃すると、呂布はしばしば兵を出して救援したが、鉅野で敗北して徐州の劉備のもとに走った。張[バク]は張超に家族を預けて雍丘を守らせた。八月、曹操が雍丘を包囲すると、張超は数ヶ月にわたって固守したが、十二月、雍丘は陥落して張超は自害した。曹操は張[バク]の三族を皆殺しにした《武帝紀・呂布伝》。 張超は曹操に包囲されたとき、「臧洪だけが頼みだ。吾(わたし)を助けに来るだろう。彼は天下の義士だから根本に背くことはないが、ただ拘束されて到着できないことだけが心配だ」と言っていた。臧洪は袁紹によって東郡太守に任命されていたが、袁紹に張超救援を懇願しても許可されなかった。張超が敗死したと聞き、臧洪は袁紹と絶交した。袁紹は軍勢を率いて東郡を包囲陥落させ、臧洪を殺害した《臧洪伝》。 【参照】袁紹 / 袁綏 / 王楷 / 許[シ巳] / 橋瑁 / 孔[イ由] / 曹操 / 臧洪 / 張超(河間の人) / 張[バク] / 陳宮 / 陶謙 / 董卓 / 劉虞 / 劉岱 / 劉備 / 劉弁(少帝・弘農王) / 呂布 / [エン]州 / 鉅野県 / 広陵郡 / 酸棗県 / 寿張県 / 徐州 / 陳留郡 / 定陶県 / 東郡 / 東平国 / 予州 / 雍丘県 / 功曹 / 刺史 / 従事中郎 / 将軍 / 大司馬 / 太守 / 牧 / 夷(皆殺し) |
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